敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 75 回  *** 第69番(その1)***
*****  能因法師ー古曽部入道  *****

目    次
<古曽部の里> <摂津国縁りの地・難波津> <摂津国縁りの地・古屋> <摂津国縁りの地・生田>

百人一首・第69番 あらし吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり


<古曽部の里>
 喜撰法師、寂蓮法師、良暹法師の三人は、比較的京の都周辺を生活舞台にしたのではないかと
思われる僧侶でした。引き続き法師連の和歌世界探索として、京や山城の地をすこし西に出て、
摂津国を中心に行動したと思われる能因法師を追ってみたいと思います。

 先ず、勅撰集と能因法師集に於ける摂津国古曽部の里での和歌を拾ってみますと、次の二首が
代表歌として抽出できます。

 ー津の国の古曽部といふ所に隠りて詠めるー
 「わが宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞ見えずなりける」
                    (後拾遺集・巻三・夏・167)
 ー津の国に古曽部といふ所に隠りて前大納言公任がもとへつかはしけるー
 「ひたぶるに山田もる身となりぬれば我のみ人をおどろかすかな」
                    (詞華集・巻九・雑・332)

 能因法師にとって、彼に先立つこと約百年に遡る和歌の大先達である宮廷歌人「伊勢」を慕って
出家し、京より移り住んだという摂津国古曽部の里は、現在の大阪府高槻市古曽部町内の山里で、
嘗ては憧れの「伊勢」晩年の住まい寺と伝えられる伊勢寺の近傍に位置しています。

能因法師の古曽部の里周辺
  能因法師の縁の地周辺には伊勢の「伊勢寺」、菅公の「上宮天満宮」もあり、大変百人一首歌人とは
関係の深い地域であることが分かります。
 能因法師の関連遺跡としては、「法師塚」「文塚」「不老井」「花の井」などが残されています。

 JR高槻駅の北側をJR線に沿って西国街道が走っています。少し京都よりの所に自然石を使った
能因法師塚の案内碑が立っています。

能因法師塚案内碑
 西国街道から北に道をとって京都大学農学部の植物園の裏側に出ますと、能因法師塚、文塚、不老水
等の縁の場所が寄り集まっています。

古曽部窯跡および不老水
 彼がこの地に住まいを構えたころは、鄙びた田舎の里であったのでしょう。淀川の向こうに生駒の
連山が見えます。能因法師が詠んだ

 「我が宿の梢の夏になるときは生駒の山ぞみえずなりぬる」(前出)

の通り古曽部の里から、南の方には、生駒山が正面に見えます。能因法師の墳丘は、東西16m、南北
25m、高さ1.8mで、周りの畑の畦道から見てもそれほど大きく見えません。

能因法師塚・墳墓正面の碑は慶安三年(1650)高槻城主日向守永井直清建立
 彼は和歌を当時高名な藤原長能に師事し、尊敬する伊勢姫の縁の地である古曽部の里伊勢寺の山陰に
住まいし、歌道に専念するようになったのです。出家したのが長和三年(1014)とされています
から今から980年前に「古曽部入道」(今昔物語・12世紀)となったわけです。

 全国各地に足を運んだ彼ではあっても、どこの地よりもこの「古曽部の里」を愛し、生涯の古里と
したようです。
 今古曽部の里は、大都市郊外のベッドタウンとしての古曽部の里に変わり、能因法師が愛した
環境とは大部異なるものになったようです。千年の時の流れによるやむを得ない変化なのでしょう。
能因塚の周りも少しづつ鄙びた山里の環境が食いちぎられていくような宅地開発が展開してます。

 文塚は能因塚から少し北の方に離れて住宅地の脇の畑の畦にひっそりと佇んでいます。

能因法師の文塚(嘉永二年好古の士中沢常貫建之)と不老水
  「花の井」は、能因塚から東に約200mほど離れたところの民家の真ん中にあります。

 ー山水を結びて詠み侍りけるー
 「あしひきの山下水にかげみればまゆしろたへに我老いにけり」
                (新古今集・巻十八・雑歌下・1710)

「花の井」の周辺
 これらの能因法師縁の遺跡は今世紀に破壊されず、次の世紀に永らえて後世の人々に伝承できるの
でしょうか。周辺の環境保護と塚の整備は地元自治体の責務であろうと考えます。
 百人一首歌人が三人も、こんな近くに背中合わせで集まっているところは、そんなにないのではと
思うだけに、次世代への伝承は確実に行われるように望むところです。

上宮天満宮の参道と本殿への境内
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<津の国縁りの地・難波津>

 能因法師は、摂津国でも比較的京の都寄りの北摂に住まいしましたが、彼にとっての「我が郷」で
ある摂津国には各地に能因法師縁の地があります。特に難波津・難波江は、彼の日常生活の活動拠点
でもあったと思われます。
 「おらが国」の自慢として、

 ー正月ばかりに津の国に侍りけること、人に言ひつかはしけるー
 「心あらん人に見せばや津の国の難波渡りの春の景色を」(後拾遺集・巻一・春上・43)

 ー津の国に侍りけるころ、道斎がもとに遣わしけるー
 「夏草のかりそめにとて来しかども難波の浦に秋ぞ暮れぬる」(新古今集・巻五・秋下・547)

 その他難波津の歌枕では次のようになっています。

  難波の浦 能因集・上・48,中・138,下・174、千載集・巻八・羇旅・505
  難波潟  能因集・中・155
  難波江・難波堀江 能因集・上・32〜33、上・62,下・170
  水無瀬川 能因集・上・47
  住之江  能因集・上・15,中・86
  猪名野中道 能因集・中・136
  えなつの海 能因集・下・16
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<津の国縁りの地・古屋>

 難波江からさらに西に西国街道沿いの「芦の屋の古屋」にも歌を残しています。「古屋」とは、現在の
兵庫県伊丹市内の昆陽の里に当たります。

昆陽の里周辺
 ー津の国へ行くとてー
 「葦の屋のこやのわたりに日はくれぬいづちゆくらん駒に任せて」
                   (後拾遺集・巻七・賀・507または能因集・中・134)

 この歌碑は、能因法師がしきりに往来したと思われる西国街道沿いに南面した稲野小学校(伊丹市
昆陽町1町目にある創立125年の伝統校)正門脇に立っています。

小学校正門脇にある近世の道標
南面:すぐ中山・小濱、西面:すぐ京都、東面:すぐ西之宮、北面:すぐ大坂・尼之崎
  この小学校付近の西国街道は、比較的昔の雰囲気を残しており、道沿いの民家の佇まいにどことなく、
中世世界の面影が感じられる所です。

  能因集の中では、上記の歌に続いて、次の2首が入っています。

 ーゐなのといふところをゆくとてー
 「おもふことなければぬれぬわが袖をうたたあるのべの萩の露かな」(能因集・中・135)

 ーわすれ草をみてー
 「おもふ人ありもこそすれ忘れ草おひけりゆかしゐなの中道」(能因集・中・136)

 因みに伊丹市はふるさとの文化発掘事業として、市内各地に関連する歌人の歌碑を約55本ほど
建てています。百人一首歌人では、能因法師以外に良経、定家、実朝、和泉式部、曾根好忠、猿丸大夫
忠通、待賢門院堀河、慈円、西行、大弐三位、俊成、重之、家隆、匡房、貫之、など計17名です。

 能因法師の「古屋」に於ける歌詠みの中で、彼の高揚した詩心はかの中国(中唐憲宗帝9世紀)の
詩人白居易(楽天)の五言漢詩に対抗して、和歌五首で応えようと試みているものです。それほどに
彼は津の国の景色を生涯の友としていたのです。

 能因法師集・中・92〜96番歌にある「秋、児屋池亭五首」の「小序」は、次のようになっています。

       昔元和二年( 807)秋、楽天年三十七、曲江之池亭、有感秋五言詩
       今万寿元年(1024)秋、我等年三十七、児屋之池亭、有感秋五篇歌

       嗟乎、唐家与本朝、其俗雖異、年歯将秋感、其志相同者歟、蓋恐百余年之後、

       以赤人之末流、 比白氏遺文

 七 夕  「七夕にこと物よりもむまたまの夜をいまひと夜年にまさばや」
 秋 風  「あさなあさな吹く秋風に小山田の水守にぬれし袖ぞひにける」
 池 月  「山の井の水にうつれる月影は濡れて曇らぬかがみなりけり」
 木の葉  「夏の日の影に涼みし片岡の柞は秋ぞ色づきにける」
 暮の秋  「山里はまだ長月の空ながらあられしぐれのふるにぞありける」

 能因法師の「児屋池亭五首」から、ほぼ200年後、この池(現在の昆陽池と思われる)の畔を
有馬湯に向かう藤原定家も七言詩を作っています。(「明月記」)
 現在其の詩碑が昆陽池の東池畔に建てられています。

昆陽池畔の定家漢詩碑
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<津の国縁りの地・生田>

 ー誓言たてよなど言ふ人にー
 「難波なる生田の森のいくたびか神をかけつつ我か誓はん」
                        (能因法師集・上・46)

 この歌は能因法師が「生田の森」で詠んだものでなく、単に「いくたびか」の第三句への序詞としての
「いくた」ですが、彼には馴染みの場所で何度も通過していることでしょう。
 そのため、自ら編集した「能因歌枕」にも生田の森を入れています。

生田の森周辺

生田の森は、生田神社の境内の北側に残っています。
 「生田の森」という歌枕からは六甲山の南麓の鬱蒼とした森林を想像しそうですが、現在の
「生田の森」は、神戸市内でも一番の繁華街三宮地区の真ん中に位置しています。

 「生田の森」の面影も数本残っている楠木やその他の巨樹に偲ぶことが出来ます。
 嘗て生田の森は寿永三年(1184)の昔、源平合戦の舞台になり、梶原景時は、武運を祈り、
咲き盛った箙(えびら)の梅の花影が映ったという「梶原の井(かがみの井)」が参道の脇に残されて
います。

 はたまた謡曲「生田敦盛」にも伝承されました。
 「弁慶の竹」あるいはさらに昔に遡る歴史として神功皇后三韓征伐時立ち寄ったところとして
ゆかりの釣竿の竹も名跡とされています。

 生田神社拝殿奥に残されている「生田の森」は都会のビルの中の小公園に過ぎず、周辺の賑わうビルの
窓からは若者の歌声が参道前からは車や人の雑踏が町の雑音として静かな神域に四周から入り込んで
います。
 僅かに生田の森入口の順徳帝歌碑がせめてもの雑踏を堰き止めているのです。

 「秋風にまたこそとはめ津の国の生田の森の春の曙」
                    (続古今集・巻十七・雑歌上・1501)
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平成14年5月26日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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