良暹法師の生涯は叡山に始まり、雲林院で終わったのではないでしょうか。 ー比叡の山の念仏にのぼりて月を見て詠めるー 「あまつかぜ雲吹きはろふたかねにているまで見つる秋の月かな」 (詞華集・巻三・秋・100) その間祇園別当であったり、大原に棲んだりと、京町中およびその周辺が彼の世界であったようです。 京を離れた例としては、難波江を訪れたときの歌として、 ー津の国に下り侍りけるに旅宿遠望心をよみ侍りけるー 「わたのべやおほえのきしにやどりしてくもいにみゆる生駒山かな」 (後拾遺集・巻四・羇旅・513) 難波津・渡辺(わたのべ)の大江(おほえ)の岸より東方に生駒山を臨んでいる情景です。
(大阪駅北貨物駅西側)屋上より東方を臨む
手前右側:
大阪駅およびアクティ大阪ビル、
その後ろは大阪駅前第4ビル
中央手前:
阪急梅田駅およびOSビル、
その後ろは大阪ビジネスパークの高層ビル群
手前左側:
新阪急ホテルおよび新阪急ビル、
その後ろは阪急ファイブの観覧車
背景の山並みは生駒連山
良暹法師は、葦原の葦の間から生駒山を遠望して、雲居に見た生駒山も、千年経てば葦の代わりに にょきにょきと天に伸びている人間が造った高層ビル群の隙間から俯している生駒山しか見えない ことを想像したでしょうか。 以上の京圏外の和歌詠例を始めとして、彼の和歌世界は、勅撰和歌集入集歌38首(後拾遺集 15首、詞華集6首が主体)で見る限り、畿内に限定されているようです。<雲林院での詠>
雲林院に係わった歌は、次の3首です。 (その1)後拾遺集・巻1・春上・111 ー後冷泉院東宮と申しけるときうへのをのこども花みんとて雲林院にまかれりけるに よみてつかわしけるー 「うらやましはるのみやぎとうちむれておのがものとや花をみるらん」 (その2−1)千載集・巻17・雑中・1124 ーわづらふことありて雲林院なるところにまかれりけるに、人のとぶらへりければ、 つかはしけるー 「この世をば雲のはやしにかどでして煙りとならん夕をぞまつ」 (その2−2)新後拾遺集・巻17・雑下・1442 ーおもくわづらひて雲林院にまかれりける時、友とする人のもとによみてつかはしけるー 「この世をば雲のはやしにかどでして煙りとならん夕をぞまつ」 (その3)新古今集・巻2・春下・153 ー雲林院のさくら見にまかりけるに、みなちりはてて、わづかにかたえに残りて 侍りければー 「たづねつる花も我が身もおとろへて後の春ともえこそちぎらね」目次に戻る
「おもくわづらひて」「まかれりける」雲林院は、良暹法師の養生の場所であったのでしょうか。 はたまた終の棲家と定めたところだったのでしょうか。 良暹法師が心細くなったとき、身を寄せた「雲林院」とは、現在の京都市北区紫野雲林院町付近で、 淳和天皇(在位823〜833)の時、「紫野院」離宮が造営されたところで、さらにその昔は 狩猟地であったということです。

離宮は仁明天皇皇子常康親王に継がれ、僧正遍昭を招いて、「雲林院」と言う天台宗寺院となり ました。 ーうりむゐんの木かげにたたずみてよみけるー 「侘び人のわきて立ち寄る木の元は頼むかげなく紅葉散りける」 (古今集・巻5・秋下・292・僧正遍昭) 菩提講(法華経を唱えて来世の極楽浄土を願う観世音菩薩信仰の宗教行事)で有名になり、「大鏡」 「源氏物語」等に雲林院が引用されています。 「源氏物語」榊の巻には、次のようにはっきりと固有名詞「雲林院」を設定しています。 「・・・・秋野のも見給ひがてら、雲林院に、まうで給へり。故母御息所の御兄の律師の、こもり 給へる坊」 にあたる雲林院にこもって亡父帝の中宮藤壺への思いをこらえようとしているのです。 この榊の巻では、源氏と当代朱雀帝の皇妃朧月夜との密通が発覚し、源氏が窮地に陥るところで、 恰も在原業平と二条后の密通を想わせる舞台設定です。 又「古今集」以下の勅撰和歌集では歌枕となっています。 一例、西行法師の歌に次のものがあります。 ー尋花至古寺、聞書集(西行)61− 「是や聞く雲の林の寺ならむ花をたづぬる心休めむ」 さらには、謡曲「雲林院」まで創作され、この世界では摂津芦屋の在原公光が伊勢物語の在原業平と 二条后を夢に引き出すという趣向になっています。 在原業平は二条后に恋をしたことが原因で、東国へ下らざるを得なくなることをもとにした「伊勢 物語」が展開していますが、光源氏も臣下の身でありながら、帝の后と通じることで禁断の恋の結末は 明石へ身を隠さざるをえなくなる筋書きとなっています。 後世の人々には雲林院が単に桜の名所にとどまらず、「源氏物語」、謡曲の世界において雲林院に ロマンスの世界を夢見たくなった証拠です。 ーうへのをのこども、花みんとて雲林院にまかりけるによみてつかはしけるー 「うらやまし春の宮人うちむれておのがものとや花をみるらん」

その雲林院も鎌倉時代に衰退し、室町時代になって、正和四年(1314)宗峯妙超(大燈国師)が 花山天皇より賜下された雲林院の地に造営した大徳寺の一寺になり、応仁・文明の乱で焼失してしまい ました。

「菩提講の雲林院」の名声を
旧大宮通の場所と名称を
受け継いだ大徳寺塔頭の臨済宗寺院で、
これは江戸時代の宝永年間(1704〜1711)に
江西宗寛和尚が観音堂を再建されたものです。
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かって菩提講とさくら・紅葉の名所として名を馳せた「雲林院」も現在は大宮通りに面した臨済宗 大徳寺派の一寺院として紫野雲林院町に名残をとどめているのみです。 9世紀の「雲林帝」は跡形もなく消えて、14世紀の「大徳寺」が聊かの面影の伝承に努めている ところです。 大宮通りを挟んだ紫野雲林院町一帯の現在風景は次のようになっています。

堀川大路西側を南北に貫通していて、両側は賑やかな商店街を形成している大宮通を北へ上り、 北大路通りの交差点を西に一筋ずれた北大路の北側が大徳寺で、雲林院は北大路通りの南側に位置して います。

現在大徳寺は、臨済宗大徳寺は総本山として、二十三の塔頭を擁する大寺院を維持しています。 一般公開されている「竜源院」「瑞峰院」「大仙院」「高桐院」、非公開の「黄梅院」「三玄院」 「真珠庵」「芳春院」「「興臨院」「正受院」「養徳院」「徳善寺」「大慈院」「しゅ光院」「総見院」 「如意庵」「竜泉庵」等々壮大な寺院群が紫野雲林院町一帯に集合しています。 (参考メモ)一般公開している寺院の概要
| 塔頭名 | 創建 | 結構 |
|---|---|---|
| 竜源院 | 文亀二年・1502 能登・畠山義元、九州・大友義長 |
創建当初の方丈(本堂)重文の表門 一枝坦(白砂と石組みの庭) 竜吟庭(杉苔と石組みの庭) 東滴壺(日本最小の壺庭)など |
| 瑞逢院 | 天文四年・1535 キリシタン大名大友宗麟 |
創建当初の本堂(方丈)と 重文の表門・唐門 独座庭(蓬莱山形式) 青い海石と赤い鞍馬石 閑眠庭(十字架の石組み) |
| 大仙院 | 永正六年・1509 古岳禅師 |
国宝の本堂(方丈)と相阿彌や 狩野元信の重文ふすま絵 枯山水の名庭園 |
| 高桐院 | 慶長六年・1601 細川忠興 |
千利休邸から移築された書院 忠興建立の茶室・松向軒 千利休から送られた石灯籠 (忠興・ガラシャ夫妻の墓) |
雲林院が通り一つ隔てたところに孤立している一寺であるために目立たない存在であるのに対して、 大徳寺の寺院集団は京都寺院観光の目玉的存在になっています。


これらの塔頭から構成されている寺院群からなる大徳寺ですが、嘗て名をなした主要な寺院、特に 南都平城京の寺院群、たとえば東大寺、薬師寺や興福寺はともかくとして、唐招提寺、大安寺や 西大寺は現在の大徳寺のような偉観であったろうと実感させてくれる境内です。

大徳寺の中心建造物は南門側からいずれも重要文化財に指定されている勅使門、三門、仏殿、法堂、 方丈と一列に並んでおり、なかでも三門は「金毛閣」と称し、大永六年(1526)初層建立、天正 17年(1589)千利休が上層を完成させたものの、秀吉から不興を買い、切腹させられる羽目に なりました。なお利休の墓は方丈の西隣「聚光院」にあります。 その西隣が総見院で、「信長光廟所」になっています。 又織田信長は大徳寺南の船岡山東隣にある建勲神社にも祀られています。 安土桃山時代に日本を代表する歴史上の人物が二人、隣り合わせで永眠しているわけです。 さらに千利休墓の南隣正受院には「石田三成公御墓地」となっていますから、まさに安土桃山時代の 歴史が大徳寺に埋蔵されていると言った感がします。 なお総見院には織田一族の墓があり隣接した一画が近衛家廟所となり、その南西一帯が高桐院で、 慶長六年(1601)細川忠興が玉甫和尚を開山として創建されました。したがって、境内には 細川忠興とそのご内儀ガラシャの墓があります。 総見院の西側の参道を北へ抜けると今宮通りに出て、「今宮神社」の東参道に至ります。

この神社は信長公を祀る建勲神社のある船岡山山頂に祀られていた社を一条天皇が祭祀行事のために 北の現在地に移して、祭祀して以来、鎮座して、千年以上経つわけです。 なお淳和天皇の紫野院離宮からおおよそ150年後のことで、後世の大徳寺創建からは300年前と いう事になります。

この大徳寺一帯は、南から北へ
緩やかな傾斜面を為しており、
加えて、東から西に向かっては、
鷲ヶ峯(310m)や大文字山(231m)の
東隣に位置するため、
さらに傾斜度の厳しい坂道を
登ることになります。
大徳寺の西地区は、現在では文教地区を形成していて、紫野高校、仏教大学、府立盲学校、等が 集合しています。 これらの学校に隣接して、大徳寺の西橋塔頭「孤篷庵」(慶長十七年・1612)小堀遠州創建)も ある静かな寺院境内の環境です。 「孤篷庵」の南西、千本通り・北大路交差点には、後冷泉天皇(一条天皇の御皇孫、御在位1045 〜1068)の火葬塚もあります。

良暹法師の時代から約千年経った紫野雲林院町ー天皇の離宮、僧正の天台宗大寺院、臨済宗の塔頭を 経て、花や紅葉の名所も今や観世音菩薩を祀る小寺院がわずかに名残をとどめる京都北山際の町並みに 飲み込まれてしまいました。 実形態より名声を大切に伝承していくことで、雲林院の昔を大切にしたいものです。 <目次に戻る>
平成14年5月18日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
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