出家した寂蓮法師は嵯峨野に在住して後、西行法師のように諸国遍歴の旅を続けて、東は鎌倉から 西は出雲まで達した修行をしたのです。

「寂蓮法師集」より3首の歌を引用してみましょう。 (その1)出雲の杵築の宮にまゐりて、いづもの川のほとりにて、 「出雲川ふるきみなとを尋ぬればはるかにつたふわかのうら浪」(320番歌) (参考)「きつきの宮」 島根県簸川郡大社町杵築に鎮座まします出雲大社は、もともと「杵築大社(きつきの おおやしろ)」「杵築社」「杵築宮」と呼ばれていた旧官幣大社であったのが、 明治四年に現社号に改められたのです。 (その2)出雲の大社へまゐりける道、美作国に懐綱が侍りける、 かくと聞きてなどともなはざりしなどいひつかわして、 「いにしへをおもひいづもの甲斐もなくへだてけるかなその八重垣を」(351番歌) 返し 「おもひあればへだつる雲もなかりけりつまもこもれり出雲八重垣」(352番歌) (参考)「出雲八重垣」 この歌は、古事記に記されている次の須佐之男命の歌に依っています。 「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣つくるその八重垣を」(古事記・上・歌謡) 古事記に記された須佐之男命は八岐大蛇から救った櫛名田姫と住む宮殿を造ろうとした 「妻籠」の「八重垣」が出雲大社(杵築大社)となったのでしょうか。 そしてその大社は「縁結びの神」であり、「福の神」として、崇拝されるように なっていますが、それは近世の江戸期の「御師」による宗教活動が功を奏し、大社信仰の 参拝者が激増することになったのでしょう。 これらの信仰に対応した大社の年中行事は垣の一覧表の通りで、特に「福迎え」「福神祭」 「神在祭」などになっています。 特に諸国が「神無月」の中での「神在祭」は、出雲大社ならではの行事と言うことが 出来ます。<参考メモ>出雲大社年中行事
| 行事名 | 月 日 | 行事内容 |
|---|---|---|
| 福迎え | 1月3日未明 | 福の神・大国主命の神徳を人々に授ける。 三歳社で福紫を授ける。 |
| 福神祭 | 旧暦元旦午前一時 | 福神の金銀銅木像が 神楽殿で授けられる。 |
| 大祭礼 | 5月14日・勅祭日 5月15日、16日 | 天皇勅使代参祭儀 二の祭・三の祭・田植え祭など |
| 涼殿祭 真菰神事 | 6月1日 | 御洗井から出雲森社参道に 真菰を敷き詰める。 |
| 神在祭 | 旧暦10月11日夜 〜17日 |
稲佐浜に全国から八百万の神を迎える。 上宮で男女縁結び神議りを行う。 |
| 献穀祭 | 11月22〜23日 | 農業の神・大国主命の神徳を讃える。 |
(その3)出雲の大社にまうでて見侍りければ、あま雲たなびく山の中ばまで かたそぎのみえけるなむ、このよのこととはおぼえたりける 「和らぐる光や空にみちぬらん雲に分入るちぎのかたそぎ」(354番歌) (参考)かたそぎ 神殿の屋根にある千木(ちぎ:棟の上に交差させた木)。 その二本の木の先端を水平または垂直に削り落としてあること。

出雲国は都から見れば山陰道のかなたに位置する上国ですが、国の起こりは古く、早くから 大和朝廷と関係を保っていたことが推察されています。 それは古文書「記紀」に天照大神が出雲国多芸志の小浜に壮大な宮殿「天日隅宮(あめの ひすみのみや)」を築き、天穂日命(あめにほひのみこと)に奉仕させたことなど出雲大社の 起こりに関与した伝承を記しているからです。 神話の世界はともかく、古代に於ける出雲の有り様を歴史資料は次のように推測しています。 (1)杵築地区は弥生時代から農耕祭祀を行う特別な聖地と見なされていた。 (周辺から、武器型青銅器や玉類が出土するが古墳はなく、大社ほか、延喜式内社など 50社が集中する斎の地である。) (2)島根半島西端で、後方連峰が海上交通の目標となり、南方に神門水海があり、出雲の 表玄関として機能している。 (3)背後に広大な出雲平野の低湿地あり、豊かな経済的基盤を確保できている。 これらの理由から、既に古墳時代から農業を中心とした「国」出雲国の中心地になり、大社の 発祥の地となったと想定されます。 大和政権と関係した出雲東部の意宇(いう)氏族が力を持ち、国造に任命され、杵築大社を中心に 祭祀体制を確立していったのでしょう。 律令体制下では、中央政権から国司が派遣され、鎌倉幕府成立と共に近江出身の佐々木武士社会に なりました。 したがって寂蓮法師が巡礼した頃は、上国である出雲国へは従五位下相当の出雲守が都から 任命されて来ていたはずです。 当時の国府は前出の出雲国図に示されるように古代勢力を張った意宇氏族の根拠地意宇郡にあり、 国分僧寺、国分尼寺共に国府に隣接していました。目次に戻る
出雲大社が京の大極殿や奈良の大仏殿以上に巨大であったことが伝承(源為憲「口遊(くちすさび)・ 天禄元年(970)」)されています。 「雲太」(出雲太郎):一番は、出雲大社 「和二」(大和二郎):二番は、大仏殿 「京三」(京都三郎):三番は、大極殿 というわけです。 一説(「鰐淵寺旧記」明徳二年・1391)に、景行天皇期には大社の本殿は高さ三十二丈 (約96メートル)で、その後十六丈(約48メートル)となり、高さ十二丈(約36メートル)の 大仏殿をゆうに抜く高さです。少なくとも建久元年(1190)造営までは信じられないような 壮大な社殿であったのです。

寂蓮法師もこの巨大な「あま雲たなびく山のなかばまで」と詠んだのです。 しかし、この本殿は、あまりの巨大さに平安時代は何回も倒れたため、ついに宝治二年(1248) 高さを縮めたようです。その時の筆写図が代々の宮司家・千家氏蔵資料に残っています。

同じく歴代の宮司家で千家家並立している北島家に伝えられている絵図でも高床式の宮殿に なっています。 現在の本殿は、延享元年(1744)造営のものですから、既に規模を縮小した後の大きさです。 それでも伊勢神宮や熱田神宮などの本殿を見た人にとっては異常に巨大な神殿であることに 驚きます。古代の人の持てる技術力は現代人が想像している以上に、遙かにレベルの高いもので あったことを示唆しているようです。 寂蓮法師が「あま雲棚引く山の半ばまでかたそぎの見えける」状態に唖然としたことでしょう。 さらに信仰の気持ちが尊厳なものになっていったことでしょう。 現代人が規模の小さくなった現大社を見てさえ、畏敬の念を持たざるを得ない状態ですから、 平安朝の人々の心は推して知るべしです。 (以 上)目次に戻る
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