敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 70 回 *** 第87番(その2)***
***** 寂連法師ー都の近郊・醍醐と嵯峨 *****
目 次
<醍醐寺>
<嵯峨野を詠む>
<清涼寺>
<醍醐寺>
寂蓮法師の父は、醍醐寺の阿闍梨俊海で、藤原俊成の兄弟になります。したがって彼は12,3歳の
頃、俊成の養子となりました。
7年ほどしてから、俊成の実子定家が歌道の和歌を継げると見て、養子を辞して出家し、嵯峨に
住み、西行法師、寂然法師などとも歌の上で交流したとされています。
したがって寂蓮のふるさとは、京都山科(伏見区醍醐)ということになります。
醍醐寺は真言宗醍醐寺は総本山で、醍醐山上の上醍醐と麓の下醍醐に渉る広大な境内を有する寺院
です。

醍醐寺周辺の地図と醍醐寺の配置図
貞観十六年(874)に聖宝理源大師が上醍醐に庵を草創したのが始まりですから、1120年余り
の歴史を有している古寺ということになります。
延喜七年(907)醍醐天皇の勅願寺となって以来、伽藍造営が進展をみて、特に天暦六年(952)
に落成した五重塔は幾度もの火災をくぐり抜けて現在に伝承されてきた貴重な木造建築物となって
います。約1050歳の五重塔の前に、わずかにその生涯約100歳の人間が立つとき10倍の長い
時間の流れに耐えてきた木造建築物の偉大さに圧倒されてしまいます。
木の持つ生命の強さは木に支えられた多くの歴史的建築物によっても頷くことが出来ます。

千年の寿命を有する木造建築と並んで、人の命を上回る長い生命の持ち主は樹木です。
醍醐寺の山内も桜の名所とされてきました。かって豊臣秀吉が盛大な花見の宴や茶会を催したのは
慶長三年三月(1598)のことでした。
それから400年後の平成現在でも、醍醐寺は総門から西大門までの大路の路脇や霊宝殿・報恩院へ
の南路は華やかな桜の並木となっています。

何時の世も「醍醐の桜」であってほしいものです。桜は毎年同じように花咲くわけですが、桜を
見る人は、毎年変化してゆきます。正しく「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず。」の感を
醍醐の花見にも感じます。
秀吉が見た全く同じ桜は何本もないでしょうが、確かに醍醐の地で秀吉が春に花見をしたその同じ
醍醐の地に立ってこそ、はるか400年前の桜を見た秀吉を感じ、人の移り変わりと桜の変わらぬ
美しさが実感できるのです。

三宝院前唐門(勅使門)
目次に戻る
<嵯峨野を詠む>
出家して住みついたという嵯峨は寂蓮法師にとってどのような世界であったのでしょうか。
寂蓮が生活した時から800年経過した現在でも嵯峨野は「太秦、小倉山、大井河、上嵯峨の山麓に
囲まれた」古都を代表する景観の地として伝承されてきました。
京に都が移された当初から嵯峨野は、「貴族の遊猟地として、注目され、嵯峨天皇が離宮を造営して
からは皇族・貴族の別荘の地となってゆきました。
寂蓮が居住した後、義弟とも云うべき藤原定家も別邸を構えたところであり、後には彼の「百人一首」
の発祥の地ともなったわけです。

嵯峨野周辺地図
王朝盛んなる頃、清少納言の「枕草子」(164段)には、
「・・・・野は嵯峨野、さらなり。・・・」
と言わせ、能因法師によって歌枕として「野をよまば、さがの」と決定付けられました。
寂蓮法師が見た嵯峨野の約150年前の世界を、文筆の専門家に描写させると次のようになります。
なんとなく、それから千年後の現在も大きくは変わらないような雰囲気が、嵯峨野の片隅には残って
いるように思えます。
光源氏と斎宮である娘と伊勢へ出立する六条御息所との別れの場面を秋の嵯峨野に設定した紫式部の
心憎いばかりの小説構想力には、感嘆すると同時に正に「うってつけ」の一言を付けるしかありません。
「・・・はるけき野辺を、わけ入り給ふより、いとものあわれなり。秋の花、みな衰へつつ、
浅茅が原も、かれがれなる虫の音に、松風すごく吹き合わせて、そのこととも、聞き分かれぬ
程に、物の音ども、たえだえ聞こえたる、いと艶なり。・・・・・」(源氏物語「賢木」より)
そのような源氏の物語の世界であったことも知っていたと思われる寂蓮法師自身は、嵯峨野に何を
求めたのでしょうか。
ー嵯峨に住みける比、九月ばかりあさましきほどによにしらぬかぜふきて、
よもぎのいほりたのむかげなくなりにけるをみて、殿法印へ申しけるー
「わが庵は都のいぬゐすみわびぬうき世のさがとおもひなせども」(寂蓮法師集117番歌)
返し
「道を得て世をうぢ山といひし人のあとあとそふ(したふ)きみとこそみれ」
出家して、嵯峨に隠居したわけですから、当然「住みわび」ることになります。喜撰法師気取りと
までは行かずとも、多分に同様の環境を予測していたのでしょうか。然し、宇治の奥山と嵯峨野では、
それまでの環境のなり立ちに相当差があるように思います。
寂蓮法師の嵯峨に於ける生活環境の周辺は、かなり人との緊密な接触の場があったものとおもいます。
次の歌のような定家とのやり取りもあり、日常の都人との関係も推測されます。
ー秋のよふかく、少納言定家がもとへまかりて物申しけるほどに、思ひかけずみすのうちに
まつむしのなき侍りけるを、このこゑいかにとたづね侍りければ、さがののかたよりなむ
さそひたると申しければ、かへりて又の日さがへまかるとて、ふるさとのかたへことづけ
あるなど申してー
「すみわびば野べのかよひぢ告げやらんともをはなれてまつむしのこえ」(312番歌)
返し
「いまはとて都にともをまつむしの鳴く音ぞかれし君が通ひぢ」(313番歌)
出家の身として、仏道の道にも精進していたことが次の歌でも分かります。
ー嵯峨の釈迦ををがみたてまつりてー
「わしの山ふたたびかげのうつりきてさがののつゆに有明の月」
(続古今集・巻八・釈教・816)(寂蓮法師集324番歌)
ここに言う「嵯峨の釈迦」とは、源融公の棲霞観が棲霞寺になり、その釈迦堂に平安中期安置された
宋からちょう然(ちょうねん)宋がもたらした釈迦如来像のことです。後に名前が清涼寺となり、
浄土教の興隆と共に、釈迦如来信仰が高まってきた頃だったのでしょう。寂連は末法の世にふたたび
佛の救い(お陰)を願ったのです。
目次に戻る
<清涼寺>
寂蓮法師が参詣したと頃には釈迦如来が「生身如来」として浄土教信仰の拠点になっていたので、
彼のように嵯峨野周辺に出家した人々は参詣を欠かさない毎日であったことでしょう。
(注)棲霞寺については、既に、源融公の篇でより詳細に記しましたので、ここでは省略します。

(出典:「国史大辞典」(吉川弘文館)、「都名所図会」(角川書店))
寂蓮法師などの日常修業活動道場であった清涼寺も800年後は一般大衆の観光の中心「道場」に
変貌しています。
現在清涼寺山門脇には観光案内の石碑が林立しています。

道案内石碑(「二尊院」「祇王寺」「化野念仏寺」「小楠公御首塚の寺」)と源融公子息昇公墓碑
目次に戻る
平成14年4月30日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
本文のフロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。