敷 島 随 想
[連 載]第 7 回 ***第90番***
***殷富門院大輔ー雄島の磯***
前回の歌人河原左大臣に縁りの地をたづねての旅は、陸奥・塩竃神社で終わりました。
その塩竃の風景をさらに北に追って行きますと、「日本三景」の一つ「松島」の風景へと展開して行きます。
(註)第6回<塩竃神社。の項参照
松島の風景を読み込んだ百人一首は、第90番殷富門院大輔の次の歌です。
「見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず」
この歌の本歌は、百人一首第51番歌の歌人藤原実方中将に伴って陸奥に赴き、その地で実際に生活し、
松島風景を実見したと思われる、これまた百人一首第48番歌人源重之の次の歌とされています。
「松島や雄島の磯にあさりせしあまの袖こそかくは濡れしか」
(後拾遺集・巻第14・恋4・828)
殷富門院大輔は「雄島といえば松島」という具合に、重之の時代から既に有名になっている
松島の地名を引用しているわけです。
さて、江戸初期以来言いならされてきた「日本三景」の一景としての「松島」とは、
現在松島湾内に散在する260余島と海岸の景勝地のことです。日本三景に関する百人一首では、
60番歌・小式部内侍の
「大江山いくのの道の遠ければまだふみも見ず天橋立」
と合わせますと、三景中二景まで詠み込まれているわけです。ちなみに百人一首81番歌人藤原実定は、
安芸・宮島の厳島神社を崇敬していたということですから、百人一首内に日本三景に縁の深い三人が
揃っていることになります。
松島八景の中には、「瑞巌寺晩鐘」「塩竃暮煙」に加えて、「雄島夕照」が入っていて、
島々の間の波間に沈む夕日に映える雄島の風景が名勝の一つとされています。
松島湾は、仙台ー石巻間の鉄道(JR仙石線)の途中にあり、松島海岸駅に降りれば、
もうそこは「松島の世界」です。松島の世界への案内は、彼の松尾芭蕉の「奥の細道」で
あまりにも有名です。
<芭蕉の松島>
芭蕉は、元禄2年(1689)5月、塩竃から船で雄島の磯について松島見物や瑞巌寺詣でをしています。
松島の風景を満喫して、雄島については次のように説明しています。
「・・・雄島が磯は地続きて、海に出でたる島なり。
雲居禅師の別室の跡、座禅石などあり。・・・」と。
駅前から雄島への道筋には、日本の各観光地のいずこにも見かける雑然たる土産物店が並んでいて、
芭蕉の「松島の世界」からは、はなはだかけ離れた世俗の世界と化しています。
雄島は駅から一番近くにある島で、朱塗りの渡月橋を架していながら、引き潮の時には
たしかに本土と地続きになっていますから、大げさに言いますと、本土に最も近い
「松島の世界」への入口の島と言うことになります。

雄島への道の脇に立っている雄島案内板と引き潮時の渡月橋と雄島
この島は、松島の地名の発祥地ともされていて、古来僧侶や修行者の巡礼の地となり、島内には、
岩に彫られた仏像や板碑も多く、特に鎌倉時代の名僧頼賢の碑は日本三古碑の一本とされているようです。
雄島に対して、瑞巌寺の参道を下ってきた海岸にある観光桟橋北側には、大同2年(807)
坂上田村麻呂の創建とされる五大堂があります。現在の建物は、伊達政宗が再建(1604年)した
陸奥最古の桃山時代の建築物と評されているものです。
芭蕉が訪れたときには「はた松の木陰に世をいとふ人も稀々見えはべりて」の状態合ったようです。
かっての世捨人あるいは修行者の洞窟跡は残っているだけで、替わって今や人生の絶頂期にある
若い男女が松の陰に寄り添っているのを見かけることが出来ます。
かっての修行の地・巡礼の島も、今や男女の恋の道の修行の地であり、巡回の島になっているのです。
しかり、かって平安貴族によって詠われた雄島は、恋歌の中の雄島であったわけですから。
恋に涙して濡れた袖を嘆いた平安女性に対して、平成の女性群は、恋の歓喜に打ち震え、袖を広げて男性を
かき抱いているのです。
<観光地松島>
かって松島は名勝の地として、殷富門院大輔以外にも多くの歌人の歌に詠まれてきました。
その典型的な例が「奥の細道」の松尾芭蕉で、彼は、松島を見るために旅に出たとさえ言われているのです。
かの鴨長明や藤原俊成も新古今集で次の歌を詠んでいます。
「松島やしほ汲むあまの秋の袖月はものおもふならひのみかは」
(巻4・秋歌上・401)(鴨長明)
「立ち帰りまたも来て見む松島やをじまの苫屋波にあらすな」
(巻10・羇旅歌・933)(皇太后宮俊成)
近世「芭蕉の松島」も、現代は観光地と化して、大衆の見物客を受け入れているのです。
夜間には島々に光を当てて、海上に”光の浮島”としてみせる工夫まで施すようになりました。
現在は、歌に名高い雄島より、透かし橋の架かっている五大堂や福浦橋で繋がっている福浦島の方が
一般客の訪れは多いようです。

雄島島内の石碑群と五大堂への透かし橋
近年になって「日本三景・松島」の観光も贅沢になって高いところからの景観をねらった観光客相手の
商売として、福浦島の北側、高城川の川口には、「松島タワー」という遊覧展望塔なるものが
建てられています。
一方、雄島の北側の桟橋からは、湾内を巡回する遊覧船の発着場もあり、海上からより近くに、
かつ色々な角度から島々を見て、松島の景観をより多角的に楽しもうとする現代観光商売の最たるものが
この松島には揃っています。
<瑞巌寺>
雄島内に座禅石や別室跡のある雲居禅師は土佐の出身で、京都妙心寺で僧となり、仙台藩主伊達忠宗に招かれて、
寛永年間(1630年代)青龍山瑞巌円福寺を中興した人とされています。もともと天長5年(828)
慈覚大師の創建になるもので、天台宗円福寺であったものを法身僧(「真壁の平四郎」と芭蕉は記している)を
開山として禅宗円福寺と称されていたものです。慈覚大師は瑞巌寺の前の海岸に突き出た島内に
五大明王像を安置して、五大堂と称されるようになり、今や松島観光の中心的建造物にもなっているわけです。
江戸時代の文政年間に既に観光地としての名声は高かったようで、仙山万年なる人物が松島周辺の
東西南北の展望地多聞山、大高森、富山、扇谷を選定して、「松島四大観」と称したそうです。
現在はそれでも飽きたらず、自動車の便を生かして、松島海岸の裏山を「松島パノラマライン」と
称する遊覧自動車道を敷いて、観光客集めに一役買っていることになっているようです。
坂上田村麻呂から約1200年、天下の名勝松島も歌枕の地としての時代を経て、陸奥の一観光地に
変貌してきたわけです。「雄島の海士」は今や「観光客を漁りせる職業」に替わっているのでしょうか。
平成12年1月9日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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