恵慶法師は、何時の時代か定かでありませんが、都から山陽道・西国街道を西に下って播磨の国に 赴き、一時播磨国分寺で講師をしていました。私家集(恵慶法師集)に次のような歌の詞書きが あります。 ーはりまよりのぼりたるに、ひびきのなだに、風ふきて、いといみじきめみたりとききて ある人の 「よそ人もかかるひびきのなだゆゑにきくにたもとのただならぬかな」(第190番歌) 返し 「かなしさはひびきのなだにみちにけり宮この人もききおつるまで」(第191番歌) この私家集に恵慶法師の行動世界を探ってみましょう。 私家集の詞書きによる世界は、京の都周辺及び畿内が中心で、東は比良、粟津、鏡山辺りまで、西は 播磨、南は住吉や信太まで、北は北山辺りまでになっています。
| 方 角 | 歌番号 | 詞 書 | 場 所 |
|---|---|---|---|
| 東 方 | 2 | 二月二日、あふさかこゆるほどに、 うぐひすのこゑをきく | 逢坂 |
| 11 | 八月、相坂にこまむかへ、 | 逢坂 | |
| 12 | 九月、志がの山ごえ | 志賀山越え | |
| 37 | おなじころ、あふみへまかるみちに、 かがみやまのもとにあめにあひて | 鏡山 | |
| 117 | あふみにひらといふところに、人人まかりて、 だいどもいだして歌よみ侍るに | 比良 | |
| 162 | かねもりがするがのかみになりてまかるに、 あはづといふところにやどりたるに、 まかりたれど、いみて、あはざりければ | 粟津 | |
| 164 | 六月、しらかはにすずみにいでて、 まつかげにゐて、 | 白川 | |
| 169 | うりふやま、きりふかし | 瓜生山 | |
| 西 方 | 76 | 梅津にて、うぶねのかがりをみて | 梅津 |
| 99 | 帥のおとど、つくしにくだりたまひてのち、 西宮いきてみる、いとあはれなり | 西宮 | |
| 100 | なくなりたるひとのにしの京にすみしいへに いきてみれば、まがきの菊のあはれなるを | 西の京 | |
| 112 | 十日、大井河のもみぢ見に、 人人まかるところに | 大井河 | |
| 197 | 夏、ぬのびきのたきみる人あり | 布引滝 | |
| 198 | なつ、すまのうたに、たび人ゆく | 須磨 | |
| 199 | ながらのはしを、ふねこぐ | 長柄橋 | |
| 201 | 秋、さが野に、花みる女あり | 嵯峨野 | |
| 202 | おほゐに、いかだくだす、もみぢみる人あり | 大井河 | |
| 南 方 | 42 | やまとにまかるに、ゐでといふところ、 いとおもしろし | 井手 |
| 58 | いなりに、うたよみてたてまつるとききて、 | 伏見稲荷 | |
| 130 | すみよしに、人人までて、 すみよしといふこころよむ | 住吉 | |
| 170 | さほ山に、もみぢあさし | 佐保山 | |
| 200 | すみよしに、あまのいへあり | 住吉 | |
| 204 | かたのに、かりするひとあり | 交野 | |
| 205 | しのだのもりに、ゆきおほかり | 信太の森 | |
| 北 方 | 126 | かへさに、きたやまよりこゆるに、 もみぢいとおほく | 北山 |
前表のように恵慶法師の和歌世界は、都を中心にその周辺や畿内の各地に及んでいます。そこで歌を 詠んでいた彼の歌仲間は、河原院の安法法師をはじめとして、大中臣能宣、清原元輔、平兼盛、源重之、 源兼澄、大中臣輔親の面々とそれに間接的には、花山天皇、藤原実頼等との関わりがあったようです。 これらの人々の人生を参考にすれば、恵慶法師の人物像が見えてきて彼の生きた和歌の世界が映し 出されることになります。(安法法師は、後述します) 清原元輔 (908〜990) 三十六歌仙。梨壺五人の一人。清少納言の父。深養父は祖父。 平 兼盛 (? 〜990) 三十六歌仙。父光孝天皇曾孫篤行王。後撰集以下に89首入集。 大中臣能宣(921〜991) 大中臣家六代歌人の二代目。梨壺五人の一人。父頼基。 紀 時文 (? 〜996) 貫之の子。梨壺五人の一人。後撰集編集、万葉集訓釈。 源 重之 (? 〜1000) 源兼信の子。伯父兼忠の子として出身。 源 兼澄(955〜1015) 光孝源氏。大中臣能宣女婿。一条天皇朝専門歌人。 大中臣輔親(954〜1038)神祇官人。歌人。父能宣、母藤原清兼女。 花山天皇 (968〜1008)冷泉天皇第一皇子。母太政大臣藤原伊尹女・懐子。 藤原実頼 (900〜970) 小野宮殿。忠平の長男、母宇多天皇皇女源順子。 天徳年間から寛和年間にかけての河原院を和歌サロンとする恵慶法師の歌仲間は、俗世の利害を 余り考えない独特の世界であったことが安法法師の歌環境よりも推察できます。 特にサロンの主宰者安法法師は公的な作歌活動である歌合わせを避けて、自分の庵室を開放する ことによって、それらの俗世の流れに迎合せず超然として独自の和歌の雅世界を展開したの歌僧で 「安法法師集」に依る生活記録を追っても確認することが出来ます。 安法法師(900年代の生没年と推定)は、左大臣源融公の曾孫、中納言昇公の孫、内匠頭適で、 母大中臣安則女で、俗名趁といいました。河原院は、曾祖父の融公の遺産を受けついで住まいとし、 かつ和歌仲間の歌サロンとして開放することにより梨壺の五人(能宣、元輔、順う、時文、望城)や 恵慶法師、兼澄、大江嘉言ら、後撰集から拾遺集に至る時代に活躍した歌人達の交流の場を提供し、 私家集の貸し借り、歌会の主催等風流な雅の交流場として活用していたのです。 「安法法師集」に於ける河原院や恵慶法師とのやり取り歌は次のように採録されています。 (その1)「河原院」によせて、独り言や恵慶法師とのやり取り (1)ーこの河原院に、むかし、むつの国にしほがまのうら、うきしま、まがきのしま、 うつしつくられたりければ、おとどかくれたまひて後、躬恒貫之などきつつ よめりければ、それがいとかぎりなければ、人のよまぬを心ににとて、 しのびによめるー 「としふりてあまそなれたる塩釜のうらのけぶりはまだぞのこれる」(第13番歌) (2)ー恵慶といふ人のはじめてきて、よみていれたるー 「ぬしやたれいけもいづみもむかしにてそれかなきかにきみぞすみける」(第36番歌) ーとあるかへしー 「みな人のすみかのいへはかわらねど身をしづめたるわれぞことなる」(第37番歌) (その2)恵慶法師との二人三脚 (1)ー天王寺よりのぼるとて舟にてー 「むかし見しなにはがたにぞこがれゆく」 ーといふに、恵慶ー 「まつといふなりすみよしの岸」(第76番歌) (2)ー天王寺にて浪の声をききてー 「みやこいでていくかばかりになりぬらんおぼつかなみのうらによするは」(第86番歌) ー返し、恵慶ー 「難波がたなにからぎよもおもひいでておぼつかなみにそではぬるらん」(第87番歌) これらの安法法師と恵慶法師の歌のやり取りを見ていますと、かなり親密な、かつ頻度高く交流して いたことが分かります。お互いに気の許せる仲間であったのでしょう。 これほどお気に入りの河原院のことですから、当然恵慶法師集の中でも安法法師の河原院は、前回 引用した7首を詠んでいます。 これらの7首の歌を中心にして、次の5首が勅撰和歌集に採られています。 (1)ー河原院の泉のもとに涼み侍りてー 「松かげの岩井の水をむすびあげて夏なき年と思ひけるかな」 (拾遺和歌集・巻2・夏・131) (2)ーあれたるやどー(百人一首歌) 「やへむぐらしげれるやどのさびしきに人こそみえね秋はきにけり」 (拾遺和歌集・巻2・夏・140) (3)ー河原院にてよみ侍りけるー 「すだきけん昔の人もなき宿にただかげするは秋の夜の月」 (後拾遺集・巻4・秋上・253) (4)ー河原院歌合に、松臨池といへることをー 「たれにかと池の心もおもふらん底にやどれる松の千年を」 (金葉和歌集・巻5・賀・313) (5)ー河原院にてよみ侍りけるー 「たれにかと池の心もおもふらん底に宿れる松の千年を」 (続古今集・巻17・雑上・1570)
<八重葎>
恵慶法師の百人一首歌には「八重葎」が詠われています。 牧野富太郎博士の植物図鑑を引用しますと、八重葎はアカネ科の一種と言うことですが、歌に詠まれて いるのは、クワ科の「カナムグラ」と推定されています。

恵慶法師も植物に特に関心が高かったわけではありませんから、ある特定の雑草を指して詠んだ訳では ないでしょう。 一般的な和歌用語としての八重葎は、「人の訪れが無く、家や庭が荒廃したことの形容」(久保田淳・ 馬場あき子「歌ことば歌枕大辞典」角川書店・平成11年5月)として用いたのでしょう。 ちなみに牧野図鑑に依りますと、「ムグラ」といっても「ウスユキムグラ」「エゾムグラ」「オオバノ ヤエムグラ」「オオバノヨツバムグラ」「ヨツバムグラ」「ヒメヨツバムグラ」など、これこそ七重 八重の雑葎が存在します。 一口に「むぐら」といっても植物の世界も人間界以上に多種多彩で、人間の生活環境を飾っているの です。
<恵慶法師想定像>
多彩な「八重葎」を数え上げたついでに、恵慶法師さんご自身の八重の似顔絵を参考資料より引用 しておきましょう。(詳細は、参考資料に依ります。)

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