敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 67 回 *** 第47番(その2)***
***** 恵慶法師ー播磨の講師 *****
目 次
<恵慶法師の僧界>
<播磨国の寺院と性空上人>
<恵慶法師の僧界>
恵慶法師の生涯は確と分かっていないのですが、一説に播磨国の国分寺で仏典の講師を勤めていた
とのことです。
播磨国分寺は、JR姫路駅から一つ東側に隣接している御着駅の線路脇に位置しています。
列車の窓から国分寺の旧跡の全貌が現在の「牛堂山国分寺」本堂前広場に望むことができます。旧址
の西側には、再現された築地塀を据えています。周辺は町工場の群が三方から押し寄せていて、
ますます境内を圧迫している様相です。
境内東の一画にはかっての堂宇構築が配置図で示されています。現在の本堂は江戸時代に再興された
とのことですから、約800年間ほど廃墟のままであったわけで、辛うじて、姫路市東部を流れる
市川東郊外台地にかっての面影を残すことが出来、地名も御国野町となっています。
姫路の町は国分寺の周辺でなく、何故市川の右岸西側に発展したのでしょうか。山陽道で唯一の大国
である播磨国の成り立ちを知る必要があります。
古代奈良朝では、全国各地に国府に隣接して国分寺が建設されました。(天平13年・741
聖武天皇国分寺・国分尼寺造営発願詔勅)播磨国分寺・国分尼寺もこの御国野町の一画に造営され
ました。したがって逆に「国府」もこの国分寺の近くであったと推定されるのですが、現在のところ
2,3か所考えられています。
(1)播磨国分寺付近・鴻塚辺り(いずれの国の国府にも見られるように、市川以東で、地形的に
台地になっているのです。)
(2)「国府寺村」(姫路市城東町字高田・白山神社や真宗寺付近)
(3)姫路城東中曲輪付近(府中の地名、本町遺跡が関係)
現在の姫路の町は、(3)の国府説を有力に関係付けています。

播磨国の国分寺周辺の地図と旧址広場脇のJR線路
国分寺は、御着駅から歩いても本の数分でいける距離です。国分寺旧境内の西側に再現された築地塀
の位置から見て、JR鉄道線路は明らかにかっての国分寺の境内を斜めに突っ切っている事が分かり
ます。

播磨国分寺伽藍配置と基壇発掘状況
(出典:神戸新聞出版センター「兵庫県大百科事典」昭和58年10月)
国分寺址は、市川の左岸にして標高10mほどの、やや周辺より高いところで、再現された築地塀は、
現在京都市内でも大寺、たとえば東寺、知恩院、醍醐寺などに見られる規模のものです。
周辺には播磨国分尼寺や前方後円墳・壇場山古墳などがあることより、古くから古代人の生活圏の
中心地であったことが推察されます。
国分寺の規模は、残されている関連文書類に
「寺裡広大也、南大門ヨリ奥院迄之間南北二里余也、東院西院之間東西六十町余也」
といわれていましたから、正しく広大な境内であったわけです。

国分寺中門址から現在の国分寺本堂を望む

高野山真言宗牛堂山国分寺の山門と本堂

(出典:角川書店「日本名所風俗図会13・中国の巻」昭和55年8月)
目次に戻る
<播磨国の寺院と性空上人>
現在の兵庫県行政区域地図を拡げてみますと、かっての但馬、播磨、淡路全域と摂津国五郡、丹波
二郡の計五国から一県に編成替えになったところです。細部で見ますと、赤穂市の一部が備前国、
佐用町の一部が美作国ですから、総計7カ国から成り立ったことになります。
この地域を通る交通網は、山陰道、山陽道それに南海道となり、南北に長い地域の分だけ関係する
道筋も多くなっているわけです。
播州平野から日本海にかけての現在の兵庫県は、地形的に神戸市が中心でなく、明らかに姫路市が
播磨国の中心と言えます。
律令体制下時代から江戸末期に至るまで、姫路は当地区の重要な拠点で、行政上また軍事上、時の
中央政権より重要視され続けてきた場所であるのです。播磨国10郡の地名の成立、播磨地方の開発や
大和王権の進出歴史の様相が記されている「播磨風土記」がこの地に伝承されて残存いることも何か
かって山陽道随一の大国の名残りが感じられます。
大国としての播磨国には交通の便もあづかって仏教の伝来も早く、仏教寺院も聖徳太子縁りの斑鳩寺
(太子町)、鶴林寺(加古川市)、法華山一乗寺(加西市)、御嶽山清水寺(社町)などがあり、
さらには「西の比叡山」と称された書写山円教寺があります。
この寺院の開祖は性空上人ですが、恵慶法師とほぼ同時代人で、920年前後に生まれ、1000年
前後になくなった人物です。
この両師は、一時期同じ播州平野で仏道についていたと思われます。ひょっとしますと、お互いに
隣同士の寺院ですから、認識しあっていたかも知れません。
性空上人の経歴は、恵慶法師と違ってかなり正確にその生涯が伝承されています。参考として
恵慶法師の人生も併記しておきます。
性 空 上 人 の 略 歴
延喜10年(910) 従四位下橘善根の子善行として誕生。
一説に延長6年(928) (家系)奈良麻呂ー島田麻呂ー有主ー継氏ー善根ー善行
橘善行としての俗界での行動
俗名:方角、方用 官職:上野介、春宮大夫、上総介
(946)または(964) 36歳で、念願の出家。
比叡山良源師事、九州霧島山に草庵、筑前背振山修業。
天暦3年(949)まで 恵慶法師の生年推定
天徳年間(956-961) 恵慶法師、初期の和歌活動期。
康保3年(966) 飾磨郡書写山に庵を結ぶ。
この頃、恵慶法師は播磨国分寺の講師を勤めていたのではないか。
寛和年間(985-986) 恵慶法師の和歌活動仕上げ期。
寛和2年(986) 花山法皇の御幸、円教寺号・勅願寺。
永延2年(988) 藤原実資(右大臣)来山。
天暦3年(992)以降 恵慶法師没年の推定。
長保4年(1002) 花山法皇の第二回御幸。法を聞き、性空上人を写す。
寛弘2年(1005) 藤原公任(大納言)来山。
寛弘4年(1007) 3月10日入寂。源信導師・大般若経供養。
目次に戻る
平成14年4月21日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
本文のフロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。