敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 66 回 *** 第47番(その1)***
***** 恵慶法師ー荒宿の秋 *****
目 次
<河原院の詠><河原院址碑><源氏物語の六条院>
<河原院の歴史><渉成園の周辺><河原院の発掘>
第64回、第65回では、宇治の喜撰法師を探訪しました。当面数回ににわたって都の周辺の
法師方を巡拝してみましょう。「坊主めくり」ならぬ次の諸「法師房訪問」で、功徳を積みたい
ものです。
恵慶法師ー寂蓮法師ー良暹法師ー能因法師ー道因法師ー西行法師ー俊慶法師ー素性法師
まずは喜撰法師に比較的近くの都の内に居を構えていたと思われるのが「中古三十六歌仙」の
恵慶法師でしょう。
<河原院の詠>
恵慶法師の百人一首第47番歌は、次の河原院の荒れ宿を詠んだものです。
あれたるやど ー恵慶法師集 第109番歌ー
「やへむぐらしげれえるやどのさびしきにひとこそみえねあきはきにけり」
この歌は、拾遺集巻三秋140番歌としても採られています。
因みにこの歌の3番前に「やへむぐらしげれるやど」の主人である安法法師の歌が並んでいます。
秋の初めに詠み侍りける ー拾遺集・巻三・秋・137番歌ー
「夏衣まだひとへなるうたたねに心して吹け秋の初風」
恵慶法師の交友関係は非常に幅広かったようで、上は花山院や源高明、同輩では大中臣能宣、
清原元輔、源重之、平兼盛らとさらには応和二年(962)、河原院に居住していて歌合わせを
主催した安法法師などです。
この時の歌合わせは「恵慶法師集」にも、177番歌から187番歌にかけて長々とした詞書きと
ともに次のように言及されています。
「・・・くれの春、かはらの院にて、はるかに山のさくらみる、かねては、あれたるやどの
むかしのあるじこふる心ばへの歌、よみ人は、もとすけ、かねもり、よしのぶ、のぶまさ、
かねずみなり。・・・・」
もっとも恵慶法師は頻繁に安法法師を河原院に訪ねたようで、私家集の詞書きに「河原院」を
言及している歌が前述の二首以外に六首収録されています。
80番 おなじころ、河原院にてあれたる心
「すだきけむ昔の人もなきやどにただ影するは秋の夜の月」
131番 かはらの院あれたる心、人人よむ
「くさしげみにはこそあれてとしへぬれわすれぬものは秋の夜の月」
148番 みなづきばかり、かはらの院に、かれこれあつまりたり
「あとたえてあれたるやどのつき見れば秋のとなりになりぞしにける」
151番 河原院にて、しほがま、うきしまといふ事を、人人よむに うきしま
「わたのはらしほみつほどのうきしまをさだめなき世にたとへてぞ見る」
154番 かはらの院にて、人のよみかきたるうたを、人人見ていふやう、あはれなる事のはなりや、
かくいひけむ人人いづちいにけむ、ことのはのこりて、その人なきこそ、あはれなれと
いふに、
「ふりにけむ人のうへかはたまづさはむかしにならむ我もかなしな」
156番 かはらの院にて、いけのせになる心ばへを、人人よむに
「ふちせをやたづねわぶらむむかしよりそこにやどりし秋の月影」
とにかく、これらの一連の詠みは、あれたる宿に月を詠む歌々が並んでいます。正に恵慶法師は
その「荒宿の秋」を楽しんでいる、堪能している、としか思えないほどの心の入れ様です。
この恵慶法師の「河原院」への思い入れが百人一首の歌から感じられたのでしょう。後年あとに続く
名だたる歌人連が「八重葎茂れる」にご執心です。
「八重葎茂れる宿に ふくかぜを昔の人の来るかとぞおもふ」(曾禰好忠 好忠集・432)
「八重葎茂れる宿の つれづれと問ふ人もなきながめとぞする」
(藤原定頼 風雅集巻16・雑歌中・1795)
「八重葎茂れる宿は 人もなしまばらに月のかげぞすみける」
(大江匡房 新古今集・巻16・雑上・1551)
「八重葎茂れる宿は 夜もすがら虫の音聞くぞとりどころなる」
(永源法師 詞華集・巻3・秋・117)
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<河原院址碑>
河原左大臣源融(822〜895)公の広大な邸宅「河原院」は鴨川右岸河原近く、現在の五条通の
南側にあったとされているため、源融の像もその近くの本覚寺に祀られているのでしょうか。
この付近は鴨川と高瀬川に挟まれて地域で、現在では、家が建て込んでいて、とてもその昔
大きな庭園であったとは想像しにくい風景になっています。鴨川の右岸ぎりぎりまで、住宅が競り
出してきていて、鴨川を圧迫しているような印象を受けます。
京都市内の建物の高さ制限も景観をたもつ観点より条例によってある一定の高さにおさえられて
きましたが、条例が緩和された場合、これら鴨川沿いの建造物も、高層建築物に変わることによって
ますます鴨川周辺の景色も変わっていくことでしょう。
現在河原院の跡は石碑一本で昔を偲ぶしかないのですが、石碑も建造物の陰に隠れてしまえば、
ますます昔を偲べなくなってしまうでしょう。

河原院推定場所付近と石碑
「源融河原院址」の石碑はそうした地域の通り際、大木の根元に建てられていて、成長した幹の
皮層部分が石碑の一部に絡みついています。
説明板もなく、ただ石碑1本だけですから、注意してみないと見過ごしてしまいそうな遺跡の
表示と言えましょう。
郷土研究に造詣深い方の資料(竹村俊則「昭和名所図絵」)によりますと、石碑を抱いている榎の
大木は、かってこの辺りにあった元河原院邸内中之島「籬の島」 の「籬の森」の残ったもので、
鴨川の氾濫で取り残されたとされています。
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<源氏物語の六条院>
河原院の所有者源融は、9世紀(822〜895)に生きた上流貴族で、源氏物語を書いた紫式部
(974〜1014)は、11世紀は注目された中流貴族の一員ですから、両者の隔たりはほぼ
100年ほどになります。紫式部は十分に源融の人物像を掴み得ていたと思われます。
源氏物語の「光源氏」は、誰か特定の過去に実在した一貴族をモデルにしてるのではなく、多くの
貴族の持っていた特性、これは人物像のみならず、生活環境も含めて、寄せ集めて、自分の小説の
世界に都合のよい人物に書き上げたものでしょう。
したがって「源融の河原院」も「光源氏の六条院」として取り入れられたと推定されています。
その優雅にして広大な六条院の描写を与謝野晶子訳「全訳源氏物語」で追ってみましょう。
「光源氏の六条院」は巻21・乙女の終わり近くに触れています。
「・・・・源氏は静かな生活のできる家をなるべく広くおもしろく作って別れ別れにいる、
たとえば、嵯峨の山荘の人などもいっしょに住ませたいという希望をもって、六条の
京極の辺りに中宮の宮廷のあった辺り四町四面を地域にして新邸を造営させていた。・・・」
「・・・・八月に六条院の造営が終わって、二条の院から、源氏は移転することになった。・・・」
この壮大な「四町四面」の内容は次の通りに豪勢な光源氏一族の邸宅になったのです。
「南西は、」 「中宮の宮廷のあったところであるから、そこは宮のお住居になるはずである。」
<<秋>> 「・・・もとの築山に、美しく染む紅葉を植え加えて、・・・奥には秋の草野が
続けられてある。・・・」
「南東は、」 「源氏の住むところである。」
<<春>> 「・・・山が高くて、春の花の木が無数に植えられてあった。・・・」
「北東の、」 「一帯は東の院の花散里、」
<<夏>> 「・・・涼しい泉があって、ここは夏の庭になっていた。・・・」
「西北は、」 「明石夫人と決めて作られてあった。」
<<冬>> 「・・・隔ての垣には唐竹が植えられて、松の木の多いのは、
雪を楽しむためである。・・・」
四面に四季を考慮した構築になっているわけですから、正に理想的な夢のような最高の日本庭園の
設定と設定と言えましょう。
この六条院を中心にした物語の展開は巻22・玉鬘、巻23・初音での新年の祝賀行事、さらには
巻24・胡蝶における春の宴、はたまた巻28・野分では、台風の襲来まで、時節を拡げながら
進行してゆきます。
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<河原院の歴史>
河原院造営者の源融没後、河原院は息子の昇に相続され、さらに融の甥に当たる宇多天皇(在位
887〜897)に献上されてから仙洞邸になり、さらに寺院に変わり、僧仁康が河原院の本尊も
移転されて、 融没後約100年経った1000年(長保2年)荒廃していったようです。
その後、数度の火災で荒廃が進み、11世紀初頭、小野宮右大臣藤原実資の日記「小右記」には、
「荊棘溝にみち、水石は荒無す」と記し留めています。
さらに 恵慶法師(10世紀後半在世)の訪問を待たずとも、かの紀貫之(868〜945)が
既に荒れ果てた河原院を訪れています。
「きみまさで煙絶えにし塩釜のうらさびしくも見え渡るかな」
(古今集・巻16・哀傷歌・852番)
現在この河原院跡近くで庭園として街区の一角を占めているのは、渉成園(枳穀邸)です。

渉成園入口と園内の風景

渉成園内の傍花閣(ぼうかかく)および庭園
園内は、京都駅の近くにありながら、街の雑踏から隔離されており、鴨その他の水鳥の憩いの
場になっているようです。石川丈山作庭の書院式回遊庭園内には頼山陽が「渉成園十三景」と銘々した
、前掲の「傍花閣」以外、「漱枕居」「侵雪橋」「回棹廊」「臨池亭」「滴翠軒」等の茶室や書院が
配置されています。
一方で、庭園の彼方を遠望しますと、写真のように京都駅の名物「京都タワー」が見えるのです。
誠に不思議な空間です。源融公が自分が造営した庭園に佇んで、1100年後の周辺の風景を
眺め回したら、なんと言ったでしょうか。
「千年の風景をよく纏めてある、結構である」
とでも、おっしゃったでしょうか。
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<渉成園の周辺>
渉成園の北側六条通と五条通の間には六条院公園があります。「六条院」というのも「河原院」と
同じように、貴族(大中臣輔親)の邸宅で、河原院が陸奥松島の塩釜海岸を模した庭園であったように、
こちらは丹後国宮津の「天の橋立」を模した庭園があったとされる所です。どうも河原院の周辺の
鴨川河川敷は、貴族の邸宅群が連なっていて、それぞれ自分の庭に工夫を凝らしていたのではないか
と想像されます。
現に光孝天皇の御所「釣殿」初め天皇家、貴族の別荘があったようです。ひょっとしたら、渉成園は
七条通に近く、「七条院」とでも称して安芸の宮島でも庭園にもしているのではないでしょうか。
これで三邸の庭には、後世の人々が日本三景と称した天下の名勝が京の街中に揃うかとになります。
趣味の人が世界的に著名な建造物のミニアチュアを作り、並べて博物館にしているということと、
一種相通じるものが感じられます。
財力にまかせて、趣向を凝らすとはこれらのことでしょう。
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<河原院の発掘>
荒廃した豪邸河原院の千百年後の状況は、どうなっているかを知る興味深い新聞記事があります。
平成6年(1994年)9月9日金曜日の産経新聞に依りますと、次のような河原院の面影が
偲ばれます。
「京都市下京区五条通河原町上ルのマンション建設現場から・・・
石を敷き詰めた園地の址が出土し、(源)融が陸奥の浜を見立てて
作った「塩釜の池」の遺構で、・・・池の址は、南北十二メートル
東西十メートルにわたって発掘され、・・・底一面に拳大の石が
敷き詰められていた。
出土した土器類から池は九世紀後半に造営され、約百五十年存在して
いたと見られる。・・・・
底の部分から桃や松などの種や枝が出土。・・・池の周辺では、
桃源郷のように四季折々の花が咲き、果実が実っていた・・・」
源融も、自分の邸宅の一部が千百年後に掘り起こされ、高層住宅用地に転用されようとは想像も
しなかったことでしょう。さらに現代の河原院跡地の景物は、千百年後如何に変貌するのでしょうか。
「河原院址」の小さな石碑が土の中から掘りだされて、・・・・どうも千年ほど前にこの周辺が、
河原院跡地と称されて、石碑が一本建てられていたようだ・・・などと、後世の人々が新聞記事ならぬ
各家庭の壁掛けテレビに映るテレビ新聞を眺めているのではないでしょうか。
京都の町が京都府という一行政区域の首都になってまだ150年しか経っていません。もはや再び
日本の首都になり得ない状況に立たされているわけですが、人々が集合して生活し合う都会としての
形態は、今後400年、500年で変わることはないでしょう。
古都の看板を掲げる中で、京都としての時代時代に応じた役目を如何に果たして行くか。寺院と
大學の街になりきることも、古都を後世へ継承して行く一つの選択であるかもしれません。
1200年を契機にして、世界への文化発信基地として、京都駅を改造し、関西空港から世界へ
飛び立つルートを確立したことも一つの手段かも知れません。
平成14年4月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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