宇治の地は、有史以来絶えず人々の関心を惹いてきた土地柄です。これは喜撰法師のように消極的な
隠棲の地としてばかりでなく、古代から中世に至るまで宇治は国の政治の中心地に隣接していて、かつ
交通の要衝であり続けたこと、及び藤原氏zぉくの様にしぞう全体の永久の地に選ばれたりしている
点に現れているます。
喜撰法師の実在は確たるものでなく、はなはだ漠として断定しがたいものです。
そこで喜撰法師と同じ宇治の地を縁りとする実在の高僧とその寺院について探索してみます。
喜撰山の麓、宇治の周辺には、次のような高僧と寺院が挙げられましょう。いずれも喜撰法師の庵とは
山ひとつ背中合わせの場所ばかりです。
(その1)宇治橋と僧侶道登・道昭・叡尊
(その2)西国三十三札所・三室戸寺
(その3)宇治茶の恩人・明恵上人
(その4)曹洞禅興聖寺開祖・道元禅師
(その5)黄檗山万福寺開祖・隠元隆g

道登と道昭(629〜700)は、ともに入唐経歴のある奈良元興寺の僧侶で、大化二年(646) 宇治橋の架橋に関与したと推定されています。これまで関連する事物(寛政三年・1791発見の 宇治橋断碑)や史誌(「続日本紀」「日本霊異記」「帝王編年記」など)で、これらの僧侶の誰とは 断定できないまでも両僧とも何らかの関わりを持ったことは確かなようです。 同時代人僧行基(668・天智七年〜749・天平勝宝元年)の先例となる社会事業家のような 活動を残しています。
世に釈子有り、名を道登という。
即ち微善に因って、ここに大願を発し、
(下半分は、「帝王編年記」で解読されている)
(左)宇治橋断碑の復元
(出典:宇治市「宇治の街の肖像」)
(右)宇治橋断碑が発見された橋寺放生院
道登は山城恵満家出身で入唐して吉蔵に師事し、三論宗を学んでいる修業から 大化元年(645)仏教政策推進国策上の「十師」の一人に推挙されるだけの 高僧であったわけです。 一方道昭は、河内国船連出身で、第二回遣唐使(白雉四年・653)で入唐して 長安大慈恩寺で玄奘三蔵に法相唯識を学んでいます。 帰国後法相学禅要を広め、全国を周遊し、社会事業を興しています。

弘安九年(1286)
彼らと同じく奈良の西大寺僧侶
叡尊が宇治橋を架橋し
宇治川塔之島の浮島に
魚霊を慰霊した十三重塔
(写真左参照)を
建立しています。
さらに叡尊から700年以上経った平成九年宇治橋は現代的な鋼製の大架橋に拡幅工事が施され、 面目を一新にしました。宇治橋は宇治周辺の交通の要衝であることに変わりはありません。 日々この橋を往来する人々は、古の高僧の尽力に感謝の念を呼び起こす必要があるようです。 偉大なる先人の社会事業を忘れないように。

(その2)西国三十三札所・三室戸寺
喜撰法師は、物の本に因りますと、三室戸寺の奥山に住まいしたという説もありますから、実在の 人物であったとすれば、やはり、約千二百年前の第四十九代光仁天皇(770〜781)勅願の 創建になる三室戸寺があったこの寺院の周辺に庵を構えたと想像されます。 ただし、現堂宇は文明年間(1469〜1487)現在位置に移転したとのことですから、ずばり、 現状では照合できませんが。 三室戸寺は西国観音霊場三十三か所第十番札所として知られる名刹で、本堂(文化11年・1814) 阿弥陀堂・三重塔を容し、藤原時代の仏像を数体保存しています。
つきをみむろと
わけゆけば
うじのかわせに
たつはしらなみ
本山修験宗
明星山三室戸寺
春のつつじ、夏の紫陽花、或いは蓮の名所としても知られています。 喜撰山の西側に対立している明星山(233m)麓の当寺は、ご詠歌と共に次の時代に受け 継がれたいものです。(その3)宇治茶の恩人・明恵上人
宇治といえばお茶。その茶の恩人と讃えられている高僧の一人に明恵高弁(1173〜1232)が おられます。参考資料には次の様な逸話を伝えています。 「宇治の人々は茶種を蒔く方法が分からず困っているところへ、明恵がやってきて 馬を畑に乗り入れ、 栂山の尾上の茶の木分け植えて あとぞ生ふべし駒の足影 との歌を示して、馬の蹄のあとに種を蒔くよう教えた」 明恵上人がお茶の栽培の何かに示唆を与えたことの譬えでしょう。
(その4)興聖寺開祖・道元禅師
曹洞禅の開祖道元禅師(1200〜1253)は、建仁寺で修業後入宋し、曹洞禅を学んで帰国し、 深草の安養院や観音導利興聖宝林寺を道場として、「正法眼蔵」などを著しました。 比叡山などの迫害を受けて越前に旅立ってしまいますが、宇治川河畔に於ける興聖寺の再興は 道元から400年後の江戸時代・慶安元年・1648年永井尚政によるとされています。

(その5)万福寺開創隠元禅師
60歳を過ぎてから来日した隠元(1591〜1673)は、承応三年(1654)長崎に着岸し、 博多、摂津富田を経由して、寛文元年(1661)黄檗山万福寺を開創し、併せて黄檗僧によって 紹介された普茶料理や煎茶道などの明文化の発信基地としました。

彼は20年かかって当時の明朝文明を日本に植え付けたのです。 今の黄檗山万福寺は中国風堂宇が境内を埋め、異国情緒溢れる禅宗寺院の雰囲気を醸し出して、 宇治の地に相応しい、また無くてはならない寺院の一つになっています。<喜撰法師の跡を偲んで>
曖昧模糊とした喜撰法師の「うぢやま」も千年以上の時の流れと共に、王朝文化を偲ぶ地、 特に、ー歴史薫る「源氏物語のまちづくり」ーを推進して、歴史の「夢とロマンあふれるふるさと 宇治」の世界作りに邁進している地区に変貌しようとしています。 (以 上)
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