敷 島 随 想
「連 載」 第 63 回 ***第5番・その2***
***** 猿丸大夫ー宇治の奥山 *****
宇治の市街地を抜けて宇治川沿いを琵琶湖方面へ上流伝いに遡って行きますと、天ヶ瀬ダムに
至ります。
更にダム測道を少し登り、宇治田原町の方から流れてくる田原川沿いに南下しますと、まもなく
盆地になる田原町に入ります。田原町の北東方向にある禅定寺村落の外れに猿丸神社があります。
宇治市街から車で30分ほどかかりますが、もはや京の町から見れば大変な山奥(歌からすれば
奥山の方が奥ゆかしいのでしょうが)に入ったことになるのです。ここまで来れば、辺りの丘陵地は
茶畑で一杯で、閑静な茶の産地という景観です。外界との接触手段は、徒歩か車しかないという
別天地でもあるわけです。

宇治市から東の宇治田原方面と猿丸神社

禅定寺村落と茶畑
正しく世捨て人の仙人や法師が住まいしたくなる環境かも知れません。
因みに天ヶ瀬ダムを抱える宇治川の裏山には喜撰山があり、この喜撰山の懐にもダムがあって、
水を確保し、合わせて蓄えた水を下の天ヶ瀬ダム水に使って揚水式発電も行っているのです。

喜撰山(右)と喜撰ダム(左)
喜撰法師や猿丸大夫が世間を離れて住んでいた地は、千年後の現代、世間の生活に切っても
切れない地域になっているわけです。仙人の地も活用しないと生きていけないのが平成現代人
なのです。
宇治川を挟んで喜撰山の反対側南東方向に猿丸神社及びその裏山があるわけです。
参道の入口には大正年間の石碑と、平成6年に建立された石碑が並んでいます。宇治田原町の
村おこし運動の一環としての石碑建立であったようです。

参道脇広場の石碑(平成6年)と参道入口の石碑(大正年間)
杉木立の参道を進みますと、神社の裏側の石段に至ります。神社の正面両脇には、普通の神社と
違って猿が2匹並んでいます。正しく猿に縁のある神社と言うことなのでしょう。
社殿の右奥には茶壺を模したと思われる大きな石の壺が奉納されていて、その奥には「猿丸大夫
故地」の石碑が立っています。

鴨長明は次のように猿丸神社を言及しています。
「・・・田上のしもに曽束といふ所あり、そこに猿丸大夫の墓あり、庄ののさかひにて、
そこの券にかきのこせたれはみな知るところなり・・・・」(出典「無名抄」)
「・・・田上河をわたりて、猿丸大夫が墓をたづね・・・・」(出典「方丈記」)
(注)宇治田原地区と猿丸大夫の関係を言及している資料
「皇胤紹運録」(弓削王の末裔とする)
「年山紀聞」「山城名勝志」「本朝語園」「鎌倉実記」「類聚名物考」「志野の葉草」
「百人一首一夕話」
猿丸神社は宇治川の山一つ裏側にあるため、昔のままの奥山里の環境が保たれています。よほどの
目的がない限りこの山里の50年や100年は大きく変わることはないと思われます。
今から半世紀ほど前に宇治田原町の盆地は大きな風水害に見舞われたことが町の辻の石碑で伺う
ことができます。こうした水害や地震など大自然の猛威による環境の変化は、何時の世にもまた有り
うることは予想できますが、人の手に掛かる景観の変貌は、宇治田原町には、余りないのではと、
思います。
ただひとつ、近い将来考えられている国土開発計画の一環に高速自動車道(第二名神高速道)が
宇治田原町の付近を貫通すること、さらに高速鉄道(第二新幹線)も此の周辺に案画される
可能性があります。中京地区(名古屋)と阪神地区(大阪神戸)を直線で結ぶとどうしても
宇治南部の京都奈良の中間地帯を考えざるを得なくなっているのです。
現在でも既に名神高速道のバイパス(京滋バイパス)として大津市から京都南部の宇治に抜ける
道が喜撰山の下をトンネルでくぐり抜けているのです。
仙人や世捨て人の別天地も少しづつ高速自動車道の網が被せられることによって、現実の世界へ
引き入れられつつあります。京滋バイパスによって宇治、喜撰山、石山地域の交通事情はかなり
変わっていくものと予想されます。
更にもう一つの山地開発の事例は、ゴルフ場の建設です。
40年ほど前、日本人の間でもゴルフ熱が起こり、全国各地にゴルフ場が開設されました。
京都、滋賀の府県もご多分に漏れず、大都市を近くに持ち且つゴルフ場に適した丘陵地が多い
ことから、ゴルフ場があちこちに出現しました。
喜撰山側に2か所、猿丸神社近くには2か所あり、自動車の発達は更にゴルフ場を増やしていく
ことになるかも知れません。
はてさて、猿丸神社が高速自動車網とゴルフ場に囲まれているのも何とも言いようのない無粋な
物です。奥山を紅葉踏み分け行く物は世捨て人でも仙人でもなく、ゴルフ球を追うゴルファーの
事になるかも知れません。
平成14年3月18日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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