大伴家持の終焉の地・多賀城市(第57回)の「末の松山」(第60回、61回)と「沖の石」 (第58回)を発って、他の「沖の石」(59回)の縁りの地若狭を訪れ、歌人二条院讃岐の縁者と して父の源三位頼政が退治した鵺が流れ着いた芦屋を探索しました。 芦屋川口の河川敷公園には「鵺塚」とともに、百人一首第5番猿丸大夫に関連した石碑も建てられて います。芦屋の地に何故「猿丸大夫」なのでしょうか。<芦屋精道村の猿丸大夫末裔>
「芦屋郷土誌」(細川道草・芦屋史談会編)によって、猿丸大夫の末裔の活躍を拾ってみましょう。 芦屋川沿いにある猿丸大夫縁りの地を辿りますと次のようになります。
奥池と奥山貯水池
(奥池町)
芦屋神社と伝猿丸大夫の墓
(東芦屋町内)
猿丸安時翁の顕彰碑
(回森橋左岸袂)
猿丸家の墓所
(阪急芦屋川駅北)
猿丸安明翁の顕彰碑
(芦屋川公園内)
阪神電車芦屋駅は、電車の駅としては、めづらしく、芦屋川の真上に架設されているためプラット ホームから川の上流や下流の方向共に大変眺めの良いところですが、冬の時節には、六甲颪の寒風 吹きさらしになるのではと思われます。


川口の海岸には、阪神高速道湾岸線の巨大な高架橋が望め、海の玄関先に発った門柱のように構えて いて、左岸一帯は、芦屋川公園になっていて、松林が海岸線まで続いています。 芦屋市役所や警察署の公共建物の南側が阪神高速道で、更にその南の松林の中に入りますと、 猿丸安明翁の顕彰碑が目に付きます。 精道村村長猿丸吉左衛門ほか8名が建設した「猿丸君彰功碑」には明治大正期に活躍した安明翁の 生い立ちと功績が刻まれています。
明治5年4月5日生まれ、
大正9年4月4日没、49才
精道村村長、芦屋郵便局長、
県会議員を歴任
官線芦屋駅創設、芦屋川改修、
耕地整理
大正・昭和年間の
芦屋地区発展の基礎を構築
昭和5年(1930)4月
正三位勲一等犬養毅先生題額
安明翁の先祖を遡ることになる第十一代猿丸又左衛門安時翁の顕彰碑は、阪急電車の北側開森橋左岸 袂にあって、谷崎潤一郎「細雪」文学碑と隣り合わせで建っています。 この碑は安明翁より14年ほど古くなり、大正5年11月に,奥山池開削記念事業の一環として、 井床芳松氏ほか15名の発起人による「奥山溜池紀念碑」建立になるものです。 「猿丸翁頌徳碑」の碑文には次のような主旨が刻まれています。
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津の国・芦屋の里に、猿丸安時翁といふあり。家世々村長たり。 天保十二年翁の世と為るや、古来この地方の災害たる芦屋川の 水を治めむことを志し、池溝を鑿り、堤防を築き、辛苦二十余年にして、 その目的を達せり。此を以て災害一朝にして除かれ、人仰ぎて 神と称せり。 翁明治十三年七十七才にて没しぬ。村人敬慕の余り、碑を建てて 長くその功を伝へむとす、抑も翁は歌人猿丸大夫の裔なり。 翁の如きは遠祖の嗜みし歌道の誠を心として世を済ふ道に 尽くされしものと言ふべし。 嗚呼今より後も大夫の歌と共に功徳の世に仰がるることは、 芦屋川の万代に絶えざる如きものあらむ 大正五年十一月 従一位勲一等 侯爵久我通久 篆額 従六位 池辺義象 撰文並書 (裏面)奥山溜池紀念碑発起人 井床芳松等十五連名記 |

安時翁は文化元年(1804)10月10日生まれ、明治13年11月11日77才で没。 文政十一年(1828)父安慶に代わって百姓総代に、天保十二年(1841)年寄役に、文久三年 (1863)十八ヶ村総代庄屋に選出され、二十年かかって芦屋川治水工事を完遂させました。 安時翁が村民のための水利事業として尽力した芦屋川上流奥山溜め池は、現在「奥池」「奥山貯水池」 として充実しています。
明治の世になっても、安時翁はその任務を全うした人物とされています。 単に千年昔の歌人の末裔にとどまらず、正しく芦屋地区の名家であったわけです。 この安時翁は、やはり歌人猿丸大夫の血を引くのか、顕彰碑に刻まれた如く、和歌を好み、姉との 和歌応答集が残されています。その中に明治五年六月、士族に列せんとの恩命に接しても、 「奥山の鹿や紅葉はかはらねど人真似だにもならぬ悲しさ」 と謙遜して族姓を固辞したという。誠に素直な肩の力を抜いて生き抜いた人物であったことが推察され ます。 同族の猿丸吉左右衛門なる人物は天正十七年代々の猿丸大夫を吉左衛門にして、代々東芦屋猿宮に 奉職し、現在第十三代目であるという。 第十一代の人生を追うと、芦屋には、猿丸大夫が歴然と存在していたことが解ります。 有名な黒船が浦賀に来航した嘉永六年(1853)西芦屋に生まれ、明治十九年(1886)猿丸家を 相続し、明治三十六年(1903)第五代目精道村村長に、明治三十八年打出の有力者斉藤幾太等と 協力して、阪神電車芦屋・打出の停留所を誘致し、地区の後年の発展の礎とした功績が大きいわけです。 その他海水浴場の設置、学校教育への尽力等、明治三十九年猿丸又左衛門に村長を譲るまで、村の 発展に努力した人物であったわけです。目次に戻る
安時翁、安明翁ほか、猿丸大夫以降の芦屋地区に於ける猿丸一族の墓所は、阪急電車芦屋川駅プラット ホームの北側に隣接しています。 郊外電車路線の開通と共に周辺地域一帯が開発されるまでは、武庫浦を眼下に遠望できる丘陵の一画で あったのでしょうが、今や電車が目の前を通り、商店街が通りを形成する町の中になってしまいました。
猿丸家墓所の山門と境内の全貌墓所北側の奥まったところにある猿丸大夫の墓を囲むように周辺に一族の墓が林立しています。 安時翁の墓石は、比較的入口に近いところに一段高く位置を占めています。
猿丸大夫の墓石と安時翁他一族の墓石群この墓所内の猿丸大夫の墓が「摂津名所図会」に言及されているもので、台座の上に自然石を建て、 全高2mの墓石正面に「南無阿弥陀仏」、左右に「猿丸」「大夫」と書き分けられています。 16世紀頃猿丸家一族が先祖菩提の供養塔としたのではと推定されています。 (注)「摂津名所図会」その他参考引用資料は、本文末の(注1)(注2)参照願います。目次に戻る
<その4 伝猿丸大夫墓>「伝猿丸大夫墓」は、この一族の墓所以外に更に北方の丘陵を上り詰めたところにある芦屋神社本殿 西脇神域内にも石像宝塔として存在します。この宝塔は南北朝時代と考えられています。
「芦屋市史」に依りますと、「歌人として有名な猿丸大夫ゆかりの古跡が芦屋市内に遺存している」 としながらも、百人一首歌「奥山に紅葉踏み分けなく鹿の声聞くときぞ秋は悲しき」は是貞皇子 (光孝天皇の第四皇子)家歌合わせでの読み人知らずであるとして、「芦屋の地と猿丸大夫との因縁と なると、全く不明」としています。 しかし、「猿丸大夫古墳あり」として「摂津名所図会」(下注1)をはじめとする諸本(下注2)に 猿丸大夫の縁りの地と伝承されており、現在東芦屋町内に天神社(別称猿宮あるいは芦屋神社で、 猿丸大夫を祭祀)があるわけです。
芦屋神社参道と鳥居
たまたま猿丸家墓所に参詣中であった一族の方に問い合わせたところ、本拠の宇治田原町猿丸大夫 縁りの地として、芦屋市は大いに関係ありということです。 墓所の北東芦屋町の天神社は、宇治田原町の猿丸神社から勧請したのではないかとの推測でした。 更に下注の諸研究資料(内海順昭「猿丸大夫考」京大国文学会二十五周年紀念論文集(昭和九年 十一月)によりますと、猿丸大夫の墓と称するものは、摂津、山城以外にも加賀、越中、越後、信濃、 羽前、岩代などにも伝承されているということで、大変広範囲な猿丸大夫の世界になってしまいます。 しかしこの芦屋には少なくとも16世紀前後の近世から「猿丸」という名の一族が住み着いて、 名を成していることから、ここが猿丸大夫の本拠と断定できないまでも、かなり確実な猿丸大夫を 先祖としているわけで、各地に縁りの人々が「猿丸大夫」を分祠していると見ればよいわけです。 漠としたままの猿丸大夫なる人物がかえって懐かしくも感じるではありませんか。 (注1)「摂津名所図絵」巻之七(角川書店「日本名所図会」) 「猿丸大夫古墳」 東芦屋の西芦屋川の傍らにあり。高さ三尺ばかり、幅二尺ばかり、御影石にして、 中に六字名号、左に猿丸、右の大夫と鐫りたり。近年この辺りより掘り出せしとぞ。 また西芦屋里に猿丸吉兵衛と名乗る民家一戸あり。いずれも旧記なし。 その証、文明ならず。 引用文献 「摂津志」(在原氏別荘宅址を猿丸大夫旧第としている) 「帝王正統録」(厩戸皇子(聖徳太子)の後なりとして、弓削王としている) 「扶桑隠逸伝」(深草の人として深草を猿丸郷といふ) 「方丈記」(田上川をわたりて猿丸大夫が墓を尋ぬ) (注2)猿丸大夫引用文献(出典:細川道草「芦屋郷土誌」) (注1)「摂津名所図会」に言及された文献以外の芦屋の猿丸大夫の参考資料として、 次のものが引用されています。 「摂陽群談」(旧栖は芦屋村にあり) 「兵庫名所記」(猿丸大夫並公光旧栖此所也) 「和漢三才図会」(屋舗在芦屋村) 「明和六年五月芦屋村記中」(猿丸大夫屋舗) 更に民俗学者柳田国男氏は、その著作集(昭和25年5月)のなかで芦屋と 猿丸大夫の関係は見逃せない何らかの関係があるとして、 (イ)芦屋村名家猿丸家に古文書(天正十七年五月)あり (ロ)芦屋に猿丸大夫の墓あり、また猿丸宮という旧社あり (ハ)猿丸大夫の末孫が天文年中京都幡枝から移ってきた (以上)目次に戻る平成14年3月22日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
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