敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 61 回  ***第42番・その2***
***** 清原元輔ー京の生活 *****

<元輔の官歴>
 清原元輔は「末の松山」を詠んだ歌が百人一首になり、永遠の名命を得たわけですが、その歌枕のある
陸奥へ受領層の身としては、赴任していなかったようです。
 あくまでも歌枕としての「末の松山」を「(心がはり侍りける女に)人に代わりて」活用したという
ことです。

「光琳かるた」における清原元輔の人物画例
(出典:学習研究社「百人一首」1996・11)
 元輔の官歴は、44歳の時(天暦五年・951)河内権少掾(河内国は大国、従七位上)に始まり、
少監物(961・正七位下)、大蔵少丞(966・従六位上)、民部少丞、民部大丞(967・正六位下)
河内権守(969・従五位下)、周防守兼鋳銭長官(周防は上国、従五位下)、薬師寺廊造立の功により
従五位上になり、極位の肥後守(986・肥後国は上国、従五位上)となり、正暦元年(990)
83歳で没しています。
 位上の官歴から見ますと、彼の関係した国は、東国はなく、主として、西国と畿内それに大内裏に
終始したようです。

 (参考メモ)鋳銭司(じゅせんし)(和田英松「官職要解」)
       常設の律令組織でなく、銭貨鋳造時の臨時官職。
       鋳造の場所も、周防、長門、河内などであったので、
       元輔の周防守は、兼務の形で、鋳銭司長官の任に就いたのでしょう。
       河内国、周防国共に、元輔と関係深く、よほど、貨幣に縁が深かったのでしょう。
       受領層としても、大儲けの財の着服は、できなかった様子ですが。

 位上のように元輔の官歴は、どちらかといいますと、受領層でも、あまり羽振りのいい方ではなく、
常に上位の位階への執着を抱いていた官人であったようです。 
  元輔集(新編国歌大観第三巻・私家集篇31・角川書店)に見られる元輔の嘆きの幾つかを拾って
みましょう。

   6。つかさ給はらでぢもくの又のひ、うちのみやうぶにつかはして侍りし
     「としごとにしずむ涙やつもりつついとど深くは身をしづむらん」

   8。・・・・はるのぢもくにはえたまはらでよみて侍る
     「桜こそ雪とちりけれしぐれつつ春ともしらで過ごしつるかな」

 171。つかさたまはらでおなじ人のもとに
     「いただきのしもうちはらひなくたづを我が身の外と思ひけるかな」

 182.つかさえ給はで、春人につかはしし
     「我が宿のさくらはさかで年ふればほかの花をもよそにみるかな」  

 結果的に清原元輔に名をなさしめたのは、紀貫之同様、ただに当意即妙の歌人としての才能です。
 古今和歌集歌人清原深養父を祖父に持ち、清少納言を娘に持てたわけですから、血族関係から見て、
天賦の文芸才能に遜色が有ろうはずがありません。
 したがって歌人としての経歴の方が後世に有名で、元輔の自由に泳ぎ回れた世界であったのです。

 天暦五年(951)和歌所「梨壺の五人」の寄人として、「後撰和歌集」の撰集と万葉集古点事業に
従事し、得意の歌合わせとしては、史上最も有名な天徳四年(960)内裏歌合わせにも召されて
います。
 歌の世界では、政の世界のようにいずれかの藤原氏族に取り入ることなく、主として実頼・頼忠
(小野宮家)との特別な関係で密に接触しつつも、帥輔(九条家)、源高明(西宮)などへも幅広く
出入りして、歌才を披露していたことが、元輔集の屏風歌などより推察できます。

 生涯で勅撰集には105首も入集できたわけですから、著名な歴代の平安朝歌人と言えましょう。
<元輔の居宅>
 清原元輔の住まいは、現在の京都御苑正面境町御門を入った東側当たりとされています。
 昔の平安京の住所としては、二条と東朱雀大路付近で、大極殿の真東に当たります。

京都御苑堺町御門付近
  現在幸いにして、平安京が御所と御苑に昔を偲べるごく一部の環境として整備され、伝承されてきた
わけです。元輔も自分の家が御苑に変貌して遺跡としての役目を果たそうとは思っても見なかったで
しょう。
 清原元輔自身、家はなくなっても、娘清少納言の父として、さらには後撰和歌集の選者の一人として、
名誉と名前を後世の日本人に残し、千年後の日本でも彼は、生き生きと命を永らえているのです。
<元輔縁りの寺>
 平安王朝史学の第一人者角田文衛(つのだぶんえい)氏の著書「平安の春」には、藤原帥輔以下
多彩は平安朝の人物像が描かれていて、大変興味深い読み物になっています。
 もちろん「紫女と清女」(紫式部と清少納言)についても言及されていて、清原元輔については、
次のような人物描写を展開されています。

 「清原元輔は、村上朝に於ける傑出した歌人であって、「梨壺の五人」の一人として、
  「後撰和歌集」の撰進にあずかった。彼の歌才は天才的であって、口に任せて、たちまち
  歌を詠んだ。また彼は軽妙洒脱な性格で人を笑わすことが得意であった。」

 また墓地を「西山の神明寺の近く」と推定しておられます。根拠は、「拾遺和歌集」(巻第八・
雑上・502番歌)の元輔の歌の詞書きに次のようになっているからです。

 ー神明寺の辺に無常所まうけて侍りけるが、いとおもしろくはべりければー
 「をしからぬ命や更にのびぬらむをはりの煙しむる野べにて」

 また、「小右記」(しょうゆうき・後小野宮右大臣藤原実資)に、神明寺とその近傍の寺院と思われる
白雲寺の話が言及されており、、さらには「今昔物語」巻き第十二・第三十五話にも神明寺の僧侶の話が
載せられているのですが、残念ながら、その創建や現在比定地については明確になっていないという
ことです。

 ここで近隣寺院として挙げられている「白雲寺」は、愛宕権現に関係した別当寺とされています。
 結局、愛宕山麓のいずれかの地に白雲寺、神明寺等があったということで、元輔は少しでも京の
都から西方浄土に近くと、西山の地で永眠していると云うことになります。

清原元輔画像(佐竹本「三十六歌仙切)(出典:吉川弘文館「国史大辞典」p。409)
平成14年3月6日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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