敷 島 随 想
「連 載」 第 60 回 ***第42番・その1***
***** 清原元輔ー多賀城の末の松山 *****
<多賀城市の松山>
仙台駅を出るとJR東北本線と仙石線は、つかず離れず平行して松島海岸あたりまで走っています。
そのほぼ中ほどに、仙石線多賀城駅があり、多賀城市の中心街を形成しています。
今から千二百年前、この地方の中心地は、駅より北方約3kmの旧址多賀城であったわけです。
現在駅の北側には市役所、文化センターや東北学院大学工学部さらに天満宮、多賀神社、
多賀城廃寺址
などがあります。
砂押川を渡って市街地の脇道に入りますと、鎮守嶋(きじらしま)観音を本尊とする
不りん(石扁に隣の旁)禅寺があり、この
地区の巡礼寺として17番札所ご詠歌に、次のように末の松山の案内があります。
「程とおく末の松山霞む日は沖の石にもかかるしらなみ」
近くにある「沖の石」と「末の松山」それに元輔の歌の「波」を詠み込んでいます。
不りん(石扁に隣の旁)禅寺の隣寺が末の松山を山内に有する「末松山宝国寺」です。

清輔の歌(後拾遺集)の本歌は、古今和歌集巻第20・東歌、陸奥歌・1093番として最後に
おかれている次の歌です。
「君をおきてあだし心をわがもたば末の松山波も越えなん」
本歌、本歌取りともに末の松山を越える波は決してあり得ないという意味を込めて詠まれていますが、
果たしてそのような地形になっているのでしょうか。

宝国寺山門から末の松山を望む
宝国寺山門前に立ちますと、末の松山にある樹齢450年の黒松の大樹は、山門やその奥にある
本堂にのしかかるぐらいの感じを受けます。
末の松山は宝国寺霊園の奥に位置していて、せいぜい20〜30m程の高さしかない小山とはいえ
山頂からは宝国寺さらには寺の南方海岸方向に住宅街や工場の煙突群を遠望することができます。

末の松山の黒松
かって末の松山からは仙台港がある海岸までは、田畑だけであったのでしょうか、今やこの地区は
仙台市の衛星都市とおして、JR仙石線で20分の好位置にあります。なおかつ仙台市の海の玄関で
ある仙台港は、多賀城市に隣接していて、西日本方面へは名古屋へ、北日本は苫小牧への航路が
開かれていますから、仙台市の中心街と同じほどに賑わいのある市街地であるわけです。
もはや沖の波もこれだけの市街地では末の松山を越えようにも越えられない環境になってしまい
ました。
末の松山下の説明板には、末の松山の地を訪れた人物として、源信明、源重之、橘為仲などの
平安朝の歌人・官人に加えて、近世では「奥の細道」の松尾芭蕉さらにはその芭蕉を慕って明治
26年に当地を訪問した正岡子規や与謝野鉄幹も記されています。
引き続き日本人の中に百人一首の歌が生きている限り、これら昔の著名人の末の松山訪問に引き
つけられて、これからも多くの人々が訪問し、末の松山は伝承されていくことでしょう。

「末の松山」麓の名所説明板
しかしながら、いずこの縁の地にも見られるように周辺の環境変化が甚だしく、少しづつ昔を
偲ぶ趣などますますすり減らされて行くことでしょう。
末の松山でもかっては現存の黒松の上の台地にも松が一本あったものの、今や黒松一本となった
ようです。かって辺りは一面松山であったものでしょうに。
このままでは、「末の松山」は、「の」も「松」も抜けて「末山」だけになるのではないでしょうか。
末のまつやま地区にも住宅が押し寄せてきており、さらに、周辺の環境もざわついて、趣をそぎ
落とす悪環境ばかりが目立ちます。
<歌枕・末の松山>
陸奥の代表的な歌枕である「末の松山」は、勅撰和歌集以下にどのように詠われてきたのでしょうか。
次の分類で、「国歌大観」より、収録してみます。
まず、21代集(古今集から新続古今集まで)の中では、前の八代集で12首、後の集で16首、
合計28首になっています。
私撰集(万葉集より夫木和歌抄まで)では、夫木和歌抄に16首で、その他に8首です。
また、私家集(人丸集から拾遺愚草まで)では、16歌人の歌が採集されていますが、最も多用して
いる歌人は、慈円(拾玉集)で、10首、定家4首、家隆3首、能宣3首となっています。
(八代集より代表歌)
「浦ちかく降りける雪は白浪の 末の松山 越すかとぞみる」
(古今集・巻六・冬・326・藤原興風)
「浦ちかく降りくる雪はしらなみの 末の松山 越すかとぞみる」
(拾遺集・巻四・冬・239・人麻呂)
「いかにせん 末の松山 なみこさば峰の初雪きえもこそすれ」
(金葉集・巻四・冬・284・大蔵卿匡房)
「君が代は 末の松山 はるばると越すしらなみのかずもしられず」
(金葉集・巻五・賀部・313・永成法師)
「秋風は浪とともにや越えぬらんまだきすずしき 末の松山」
(千載集・巻三・夏・220・藤原親盛)
「霞み立つ 末の松山 ほのぼのと波にはなるる横雲の空」
(新古今集・巻一・春上・37・藤原家隆)
「おいのなみこえける身こそあはれなれ今年も今は 末の松山」
(新古今集・巻六・冬・705・寂蓮法師)

(資料入手もと:インターネット「歌枕・末の松山」より)
清原元輔を始めとして、松尾芭蕉でさえ、現在の「末の松山」風景を見れば落胆のほども、多分
はななだしいことでしょう。
その「奥の細道」では、「末の松山」はどのような風景として叙述されていたのでしょうか。
元禄2年5月8日(1689年)のことです。
「・・・・それより野田の玉川・沖の石を尋ぬ。
末の松山は寺を造りて末松山といふ。
松のあひあひみな墓原にて、はねをかはし枝を
連ぬる契りの末も終は斯くの如きと悲しさもまさりて、・・・・」
「寺」とは、「末松山宝国寺」のことで、松は枝を交わすぐらいに大きな松であったことが想像
されます。
当時は廻りの平地からは末の松山の松林だけがこんもりと盛り上がった小丘に見えたのではない
でしょうか。
芭蕉の訪れた末の松山周辺での故地としては、沖の石、野田の玉川、多賀城の壺の碑などがあり
ます。

現在の野田の玉川
野田の玉川は、日本六玉川のひとつで、月の名所としての歌枕で、例えば、能因法師の次の
歌があります。
ーみちのくにに罷りける時、よみ侍りけるー
「夕されば汐風こしてみちのくの野田の玉川ちどりなくなり」
(新古今和歌集・巻第六・冬歌・643)
なお、多賀城の碑とは前述の天平宝字元年(762)藤原朝狩が建立した多賀城の位置を示す
例の「つぼのいしぶみ」です。
平成14年3月4日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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