|
![]() |
|
藤原定家卿の人生は、平安朝末期の一官人に終わらず、さらに新古今集時代の一歌人に留まらず、 現在で言うところの小説家の一端も見せたかと思うと、古典文学研究者およびその収集家的姿勢から、 さらには、それらを書写し続けることで、日本民族の文芸伝承事業推進者になり、加えて大いに 後世に貢献することになる日本歴史記録者ともなったのです。 頭の中で考えた世界を逍遥するかと思えば、現実世界を克明に徹底的に書き記すという才能を 持っていました。 この「記録魔的」貴族というべき定家の事績は、一族の末裔冷泉家によって現在までの800年間 継承されてきました。古代から江戸末期まで、何万人にもなるであろうと思われる貴族のなかにあって 日本民族の歴史に貢献した最たる人物ではないでしょうか。 現実世界は自らの「明月記」に納めて確認しつつ、一方では、妖艶なる和歌世界で恋の追随者に なり、虚の世界の極めつけとも言うべき「松浦宮物語」の筆者になったのではないか、と推測されて います。誠に多彩にして多能な人物像をこの二種の事績で概略を見たいと思います。
松浦宮物語の概略を解説資料(「新編日本古典文学全集40」(小学館))から引用しますと、 次のようになります。 鎌倉初期の物語。三巻(「松浦宮一、二、三」) 作者不詳なるも、「無名草子」(「松浦の宮」)によると藤原定家作。 成立年未詳なるも、文治年間(1180年代後半)から元久年間頃、すなわち 定家30歳代と推測されている。 弁少将氏忠が皇女との恋に破れて唐に渡り、唐帝の妹華陽公主と契りを交わし、 不思議を現じて、内乱を平定し、后と契りを交わし、帰国後、日本に生まれ 代わった公主と再会する。時代を藤原の宮にとり、舞台を日本と中国に構えて、 妖艶な夢幻的世界を展開している。書名は主人公の母の詠歌に因む。 因みにこの主人公は、その出だしの部分の描写を借りますと、まさに、「源氏物語」の 光源氏並みの世界を連想するわけです。 「むかし、藤原の宮の御時、正三位大納言にて中衛大将かけたまへる、橘冬明と聞こゆる 明日香の皇女の御腹に、ただひとり持たまへる男君、人にすぐれ、心魂世にたぐひなく 生ひ出でたまふを、父君はさらに聞こえず、時の人、いみじき世の光とめでたてまつる。」 漢籍の世界を頼りに、和歌の力量を基にして、文芸作品をものするとは、定家は現代で言う ところの「相当なる小説家」を目指したのでしょうか。「源氏物語」を意識しながらの文学活動で あったのでしょうか。 「松浦宮物語」解説書(新編日本古典文学全集40・小学館・1999年5月)の説明に よりますと、「無名草子」(藤原俊成卿の孫娘が作者とされる)に「定家少将作りたる」として 「松浦の宮」と言及されていること、昭和十年代から多くの国文学者が、和歌、登場人物、物語りの 記述、あるいは漢文学的素養などから、定家の作品と推定されているのです。その成立時期は 定家が二十代の終わりから四十になるころまでの壮年期の文学作品とされています。 これだけの「文芸作品を書けるだけの才能がある人物が創作意欲が漲っている30代にたった 一篇の小説だけで満足したとは思えません。「松浦宮物語」以外の物語名称が「無名草子」では、 単に「「あまたはべめる」とのみ言及しているので正確な作品数は不詳ですが、数編以上は存在 したのでしょうか。同じ記述の部分には、定家の異父兄にあたる藤原隆信の表したとされる 「うきなみ」物語りも言及されていますから、定家の親族の周辺には、多くの「小説家」気取りの 貴族が存在したと言うことになります。血筋の中に「小説家」魂が込められているのでしょう。 若き日の定家が思いのままに書き記した(一世一代的)小説も、ある国文学者の論評によりますと、 次のようにも評されるところでもあるのです。 「およそ、松浦宮物語ほど、変幻自在にして荒唐無稽、奇想天外にして、その実、正面切って 真面目に語るポーズをとっている物語りもあるまい。浜松中納言物語の作者が、乏しい唐知識を ふくらませて、真実、心に描いた唐土を披瀝して見せたのに対し、定家は、豊富な材料を、 時には、闊達に組み立て、時には放恣に積み上げて、しかも、あとは知らぬとばかりに とぼけたのである。これほど人を食った物語はない、と言ってもいいであろう。」 (池田利夫「見ぬ唐土の夢ー松浦宮物語を中心にー」「国文学」第26巻16号 (昭和56年12月号)学燈社、83頁) この物語名である「松浦宮物語」は、ある研究論文(錦仁「定家と物語ー「松浦宮物語」試論」 、論集「藤原定家ー和歌文学の世界代13集」笠間書院(昭和63年9月)所収)によりますと、 「・・・「待つ」という心理的機制は、人の心を二つに切り裂く。物語には四人の女性が出て来る が、いずれも「待つ」人であり「待たされる」人だ。・・・女達はつねに「待つ」人であり、 題名の意味はゴールまで貫かれているといえよう。・・・」 物語名「松浦宮」は、物語の最初の部分で、主人公橘氏忠が、遣唐副使で唐土に渡るので、母親の 明日香皇女は、月日の沈む唐土の方角を望んで待ち続け、氏忠の帰国を松浦の宮で待ち迎えたので、 「松浦」と命名されてきたようです。。 「けふよりや月日の入るを慕ふべき松浦の宮に我が子待つとて こぞより松浦の山に宮を造りて「帰りたまはむまでは、そなたの空を見む」と出で立ち・・・」 これに対する主人公は、初めて名前が明かされて、 「弁少将氏忠、 波路行く幾重の雲のほかにして松浦の山を思ひおこせん」 と応えています。 「松浦」といえば、万葉集の巻五に記されている「松浦県佐用姫」の物語を思わせます。 「松浦の宮は、夫の大伴狭手彦との別れを悲しみ松浦佐用姫が領巾を振った山に造られた宮で あり、夫の帰りを待つ佐用姫のイメージが明日香皇女にダブらせているのでしょう。 (注)宣化二年(537)新羅が任那を侵したとき、大伴金村息の磐と狭手彦を派遣して任那を 救った。夫狭手彦との別れを悲しみ、鏡山に登った松浦さよ姫が任那に向かう舟に領巾を 振ったという先例によっています。このことを万葉集では、山上憶良が天平二年(730) 七月に歌を詠んでいるのです。(巻五ー868〜875番) 「松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつをらむ」(868番) 「海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫」(874番) 「松浦宮」の「松浦(まつら)」といい、百人一首歌の「松帆の浦」の「松(まつ)」「浦(うら、 または、ほ)」といい、藤原定家は「松」「浦」がお好みのようです。「まつ」「うら」という よりも、万葉集の中に展開する恋の浪漫としての「まつ」「うら」に嗜好しているのでしょう。 なお、百人一首歌の本歌は、 「なきずみの ふなせゆみゆる 淡路島 松帆の浦に 朝凪に 玉藻刈りつつ 夕凪に藻塩焼きつつ あまおとめ ・・・・」(万葉集巻六ー935・笠金村) とされています。目次に戻る
「明月記」は藤原定家の日記で、自筆本は冷泉家に54巻現存します。治承四年(1180) 定家19歳から、嘉禎元年(1235)74歳まで、なんと56年間にわたる個人の記録です。 12世紀の終わりから13世紀の前半における一貴族の生涯を記しているだけでなく、 いろいろな当時の世相を伝えているところに価値があります。 彼の記録の対象は、ありとあらゆる分野に及んでいるようです。現代の社会になおしますと、 毎日「新聞、ラジオ、テレビで報道され見聞きできた情報」はもとより、社会生活の活動の場 すなわち会社(定家の場合は宮廷政界)で得た情報も書き及んでいることになります。 **************************
|
一例を天文学に取りますと、次のような天文学者(東京大学東京天文台教授、理学博士、
「古天文学」創設者)の「明月記」解説記録があります。 斉藤国治著「定家『明月記』の天文記録ー古天文学による解釈ー」(慶友社 1991.1) 「・・・定家卿は当時すばらしい天文記録者であったことが判明した。 ・・・定家卿は実に素晴らしい「明月の愛好者」であったことも定量的に証明できた。」 として、「明月記」原文と天文記録文の現代天文学検算結果とを合わせてみて、挿図を添えて 天文現象解釈を展開しています。また 「・・・『超新星』爆発のことも明月記にあり、20世紀始め話題になった。」 とのことで、当時世界の天文学者が「明月記」に注目することになったのです。 博士の解釈に依りますと、言及されている天文学現象は、日食(5件)、月食(28件)、 客星現象(8件)ほか、合計143件渉るとのことで、驚きの一言に尽きます。 | ![]() (読売新聞記事より 平成15年11月8日付) |
************************** 確かに現代人でも日記を付けている人は多人数存在するでしょう。が、物心が付いて、外界世界の 物事の実態を自分の目で自分の頭で判断できるようになる青年の日から、目が見えて、文字が書ける 年頃の晩年まで、書き続けた人は一体何人いるでしょうか。 定家の時代、すなわち12〜13世紀は日本の社会は律令社会から武家社会へと時代の変わり目に あって、その為に古代での社会情報と比べものにならないほど毎日の社会の動きが目まぐるしく、 伝達されてくる情報取り込む情報も、現代とは比べものにならないほど局所的、短時間のもので あったにせよ、書き記していくことは大変な努力が必要であったと思われます。 *************************** 「明月記」の研究者である辻文学博士の概説は、次のようになっています。 「・・・およそ今日に伝わる中世公家の日記中、・・・白眉のものを選ぶならば、 われわれは先ず、藤原定家の日記明月記を挙げるであろう。その理由は明月記ほど 史学・文学に限ることなく、芸術・医学・建築・園芸・作庭などの分野に至るまで、 頗る広範囲にわたり、おのおのの研究対象として、かつ重要史料として取り扱われる 記録は滅多に存在しないからである。 従って彼の曩祖(のうそー先祖)である藤原道長の日記御堂関白記などと並び わが文化遺産としての価値は実に大きいといわざるをえない。 (辻彦三郎著「藤原定家明月記の研究」 吉川弘文館 1977) **************************** (参考メモ)中世の歴史的史料としての日記類 平安期宇多天皇から後鳥羽天皇期に至る時代における史料「日記」には、大凡50点ほど 残されて保存されているようです。参考事典より抜粋しますと、後述の (参考メモその2)のようになります。 56年間書き続けた一貴族の「記録魔」的精神の骨太さもさることながら、更に重要なことは、 残された歴史的第一級史料としての個人「日記」を800年間綿々と伝えてきた定家の末裔達の 尽力や苦労の方が当人の何倍にもあたるものであったことを再認識しなければなりません。 日本歴史に関わる個人の手になった歴史的資料は、当該定家の「明月記」同様、多くの史料が 確認されていますが、それらの中にあって、特に綿密にかつ個人的な物の考え方も十重に書き 尽くしたものは、当該史料が第一等の物であると思われます。 **************************** 個人的情報の面から見ますと、「明月記」の研究者であるある歌人は次のように述べています。 「・・・克明にノオトをとりながら、「明月記」を再読するうちに、実に定家が身近に感じられ この憂いと焦燥に満ちた実生活の記録こそ、美しい詩藻を呼ぶものと思われた。私は定家と ともに、正治百首に加えられたく思い、水無瀬殿の後鳥羽院に出仕して、洪水に浸されながら 子の為家の病悩を案じる定家の身の上に、一喜一憂するまでになった。 父俊成の温かい薫陶を一身に受けてひととなった定家は、気むずかしく、我が儘な反面、 家庭を大切に、他人に思いやりの深い人である。後鳥羽院や家司として仕えた九條家の 兼実や良経にも、ひたすら献身し、わが家の家司たち、その他女房牛童等従者たちにも、 細やかな心づかいをしたことがうかがわれる。次第に私の心の中で成長していく定家像に 感歎した。」 (出典:山中智恵子著「明月記をよむー藤原定家の日常」三一書房 1997.2) **************************** しかしながら、その膨大な個人が残した史料には、余りにも色々な分野の色々の情報が記録されて いるため、小説を読むように通読すること、しかも、原文のままの通読は誰しもが出来ることでは なく、まして内容を読み解くことは、至難の業です。そこで、「明月記」愛読家の文人をして 次のように言わしめることになっています。 「(明月記は)・・・「幻の書」で、だれも通読できていない。・・・引用される為にある 文書なりや?」(堀田善衛著「定家明月記私抄」筑摩書房 1996.6) という皮肉になってしまうのです。目次に戻る
藤原定家卿は、日本歴史の中では古代王朝時代から中世武士社会に変遷していくきっかけに なったとされる保元・平治の乱の時期に生まれ、源頼朝から北条氏族の鎌倉幕府の成立時期に 一貴族としての人生を歩みました。 しかし彼の人生活動は、政権の動向に関与せず、専ら日本文化の伝承に貢献したという活動でした。 彼の動向を和歌世界と参考として宮廷での位職の動きで追ってみますと次の一覧のようになります。 (注)参考資料 久松潜一他「日本歌人講座3ー中世の歌人T」弘文堂新社 (昭和43年) 久保田淳「王朝の歌人9−藤原定家」集英社 (1984年10月) 和歌文学会「和歌文学の世界 第13集ー論集 藤原定家」笠間書院 (昭和63年9月) 村山修一「人物叢書ー藤原定家」吉川弘文館 (昭和42年6月)
| 活動区分 | 和暦(西暦) | 年齢 | 和歌活動 | 官位官職経歴 |
| 修学期 | 応保二年(1162) | 1 | (父顕広(俊成)49歳) | ー |
| 仁安元年(1166) | 5 | ー | 従五位下 | |
| 仁安二年(1167) | 6 | ー | 紀伊守 | |
| 安元元年(1175) | 14 | ー | 侍従 | |
| 治承元年(1177) | 16 | 六条藤家・藤原清輔(74)没。 (御子左家・俊成64) | 侍従 | |
| 治承二年(1178) | 17 | 「別雷社歌合」 | 侍従 | |
| 治承四年(1180) | 19 | (9月・明月記書き初め) | 従五位上・侍従 | |
| 歌人時代 | 治承五年(1181) | 20 | 「初学百首」(千載集へ2首入集) | 侍従 |
| 寿永元年(1182) | 21 | 「堀河院百首」 | 侍従 | |
| 寿永二年(1183) | 22 | (俊成千載集撰) | 侍従 | |
| 元暦元年(1184) | 23 | 「賀茂社歌合」 | (長子光家出生) | |
| 文治二年(1186) | 25 | 「二見浦百首」 | 侍従 | |
| 文治三年(1187) | 26 | 「殷富門院大輔百首」「閑居百首」 | 侍従 | |
| 文治四年(1188) | 27 | (千載集撰進)8首入集 | 侍従 | |
| 文治五年(1189) | 28 | 「早率露胆百首」「重奉和早率百首」、<宮河歌合判詞> | 左近衛権少将 | |
| 建久元年(1190) | 29 | 「花月百首」「一字百首」「一句百首」 | 左近衛権少将 | |
| 建久二年(1191) | 30 | 「十題百首」「伊呂波四十七首」 | 左近衛権少将 | |
| 建久四年(1193) | 32 | 「謌合百首」 | 左近衛権少将 | |
| 建久六年(1195) | 34 | ー | 従四位上行左近衛権少将兼安藝権介 | |
| 建久七年(1196) | 35 | 「韻歌百二十八首」「三十一字歌」 | 左近衛権少将 | |
| 建久九年(1198) | 37 | 「仁和寺宮五十首」 | (為家出生) | |
| 正治元年(1200) | 38 | 「左大將家冬十首歌合」 | (源頼朝没) | |
| 正治二年(1200) | 39 | 「院初度百首(正治百首)」(定家・家隆など23名) | (俊成・正治奏上)正四位下安藝権介 | |
| 建仁元年(1201) | 40 | 「千五百番歌合」和歌所開所(注1) | 正四位下行左近衛権少将安藝権介 熊野御幸供奉 (式子内親王没) | |
| 建仁二年(1202) | 41 | 「三体和歌会」「水無瀬釣殿当座六首歌合」「水無瀬殿恋十五首歌合」 <千五百番歌合加判> | 左近衛権中将 源通親没 九條兼実親幕政策 | |
| 建仁三年(1203) | 42 | (新古今集上進)「俊成九十賀屏風歌」 | (俊成九十賀下賜) | |
| 元久二年(1205) | 44 | (新古今集竟宴) 源実朝に新古今集献進 | 左近衛権中将 | |
| 歌論展開 | 建永二年(1207) | 46 | 「最勝四天王院名所御障子歌」 | 正四位下行左近衛権中将 |
| 承元元年(1207) | 46 | (後鳥羽院・新古今集切継)、「賀茂歌合」 | (藤原兼実没) | |
| 承元三年(1209) | 48 | 「近代秀歌」献上(東鑑) | ー | |
| 承元四年(1210) | 49 | ー | 中将辞任 為家左権中将 | |
| 建暦元年(1211) | 50 | ー | 侍従・従三位 | |
| 建暦三年(1213) | 52 | <内裏歌合判詞> | 従三位行侍従 | |
| 建保二年(1214) | 53 | 「後仁和寺宮花鳥十二首」、<内裏歌合判詞> | 参議 | |
| 建保三年(1215) | 54 | 「内大臣家百首」「内裏名所百首」 | 参議(兄成家出家) | |
| 建保四年(1216) | 55 | 「建保四年院百首」「百番歌合」、「拾遺愚草」三巻編纂(注2) | (鴨長明没(60歳台)) | |
| 承久元年(1219) | 58 | 「毎月抄」 「詠歌大概」も建保末年から承久年間か。 | 民部卿、(源実朝横死) | |
| 承久二年(1220) | 59 | 「内裏和歌御会」にて勅勘 | (兄成家没) | |
| 古典研究期(注3) | 承久三年(1221) | 60 | 「顕註密勘」 | (承久の変) |
| 貞応二年(1223) | 62 | 「古今和歌集」書写 | ー | |
| 嘉禄元年(1225) | 64 | 「源氏物語」書写 | 民部卿、(北条政子没(69歳)) 慈円寂 | |
| 嘉禄二年(1226) | 65 | 「古今和歌集」書写、「僻案抄」著作 | ー | |
| 安貞元年(1227) | 66 | ー | 民部卿を辞し、正二位 | |
| 安貞二年(1228) | 67 | 止観十巻書写 | ー | |
| 寛喜四年(1232) | 71 | <石清水若宮歌合判詞> | ー | |
| 貞永元年(1232) | 71 | 「関白左大臣家百首」 | 権中納言 | |
| 天福元年(1233) | 72 | (良経三十六人撰、隠岐へ) | 出家、明静 | |
| 文暦元年(1234) | 73 | (新勅撰集奏覧) | ー | |
| 嘉禎元年(1235) | 74 | (新勅撰集精選本清書)、「小倉百人一首」 | ー | |
| 仁治二年(1241) | 80 | ー | 没年 |
(注1)和歌所(建仁元年)のメンバー 左大臣 藤原良経 内大臣 源通親 座主 慈鎮(慈円) 三位入道 俊成 頭中将 藤原有家 寄人連 定家 家隆 雅経 具親 寂蓮 以上 11名 (注2)「拾遺愚草」の概略(新編国歌大観による) 初撰 建保四年(1216) 増補 天福元年(1233) 上巻 初学百首(養和元年、侍従)以下、関白左大臣家百首(貞永元年、権中納言)まで 百首歌15篇 計 1600首 中巻 韻歌百二十八首(建久七年、左近衛権少将)以下、寛喜女御入内後屏風和歌(寛喜元年、民部卿) までの定数歌 525首 下巻 部類歌(四季別、賀、恋、雑などの部立)歌合、歌会出詠歌、贈答歌など 860首 総歌数 2985首 「拾遺愚草員外」雑歌 770首 一字百首、一句百首、伊呂波四十七首、三十一字歌、四季題百首など、歌語遊びとして 興味のある定家の試みが盛り込まれています。 (注3)定家の書写による古典典籍関係 物語類 伊勢物語 建仁二年(1202)から天福二年(1234)にかけて4回 源氏物語 元仁二年(1225) 寛喜二年(1230) 大和物語 寛喜三年(1231) 枕草子 安貞二年(1228) 土佐日記 嘉禎元年(1235) その他 更級日記 和歌集 秋篠月清集 建永元年(1206)安貞二年(1228) 久安百首 承久元年(1219) 古今和歌集 承元三年(1209)から嘉禎三年(1237)にかけて15回 後撰和歌集 承久三年(1221) 貞応二年(1223) 天福二年(1234) 相模集 嘉禄三年(1227) 散木奇歌集安貞二年(1228) 和漢朗詠集 寛喜二年(1230) 拾遺和歌集 寛喜三年(1231) 天福二年(1234) その他 入道大納言資賢集 讃岐入道集 定頼集 一ノ宮紀伊集 基俊集・登蓮集 公忠集 歌論類 古来風体抄 天福二年(1234) 俊頼髄脳 嘉禎三年(1237)目次に戻る
| 日記名(別称) | 執筆者名 | 記録年代(年数) |
|---|---|---|
| 宇多天皇御記(寛平御記) | 宇多天皇 | 仁和三年(887)〜寛平九年(897)(11年) |
| 醍醐天皇御記(延喜御記) | 醍醐天皇 | 寛平九年(897)〜延長七年(929)(33年) |
| 貞信公記 | 藤原忠平 | 延喜七年(907)〜天暦二年(948)(42年) |
| 九暦(九條右丞相記、九記) | 藤原師輔 | 延喜十五年(915)〜天徳四年(960)(46年) |
| 水心記(清慎公記、小野宮殿記) | 藤原実頼 | 延長二年(924)〜安和二年(969)(46年) |
| 小右記(小野宮記、小記、ほか) | 藤原実資 | 天元元年(978)〜長元五年(1032)(55年) |
| 権記 | 藤原行成 | 正暦二年(991)〜寛仁元年(1017)(27年) |
| 御堂関白記(法成寺摂政記) | 藤原道長 | 長徳四年(998)〜治安元年(1021)(24年) |
| 江記(江匡房記) | 大江匡房 | 治暦四年(1068)〜天仁元年(1108)(41年) |
| 中右記 | 藤原宗忠 | 応徳三年(1086)〜保延四年(1138)(53年) |
| 法性寺殿記(玉林) | 藤原忠通 | 元永二年(1119)〜応保元年(1161)(43年) |
| 玉葉(玉海、後法性寺関白記) | 九條兼実 | 長寛二年(1164)〜元久二年(1205)(42年) |
| 明月記(照光記) | 藤原定家 | 治承四年(1180)〜嘉禎元年(1235)(56年) |
| 後鳥羽天皇御記(林鳥御記) | 後鳥羽天皇 | 建暦二年(1212)〜建保四年(1216)(5年) |
|
|||
|
|