敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 251 回  *** 第97番・その1 ***
***** 権中納言定家ー松帆浦(百人一首歌枕風景) *****

目    次
<淡路島の和歌世界> <淡路の北端> <参考・本四架橋>

百人一首・第97番 来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ



























権中納言定家画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)狩野探幽画(画帳)(右)百人一首歌かるたかるた

<淡路島の和歌世界>

 日本神話に於ける淡路島の世界は、大変興味のある話になっています。どうして、数多くある
日本列島周辺の島で、淡路島が「国生みの世界」なのでしょうか。
 「記紀神話」の最初の部分は、天地創造の神々の話、国土の出現、神生みの話、などが語られます。
 混沌の世界に現れた多くの神々のなかで、国土創成に関係するのが、男神の「伊邪那岐神」と
女神の「伊邪那美神」で、この二神の「国生みの神」によって「大八洲国」が誕生するのです。
 「(イザナギとイザナミの二神は)・・・天の浮橋の上に立って、・・・・
  天之瓊矛(あめのぬほこ)をさし下してかき探りたもうと、青海原が得られた。その矛の先から
  したたった潮水凝り固まって、一つの島となった。これを<オノコロジマ>という。・・・
  この二柱の神は、そこでこの島にお降りになって、夫婦として洲国を産もうとされた。・・・
  やがてお産の時が来て、淡路洲を胎盤(えな)として生まれた。・・・・・」

 因みに淡路島の南部、淡路国の国府近くには、「オノコロジマ神社」があることは、既に
百人一首第29番歌人凡河内躬恒の連載で言及したところです。

 藤原定家が、この国土創成の出発点である「淡路島」を自らの百人一首和歌世界として選んだ
ことに、何等かの思い入れがあったと思いたいところです。
 
 「記紀世界」のあと、万葉集の世界に入りますと、いろいろに「淡路島」が詠み込まれてゆきました。
 柿本人麻呂の瀬戸内海に於ける歌詠みの世界は既に探索したところです。
 万葉人にとって瀬戸内の船旅における「淡路島の島影」は、いつに大和の故郷への思いを募らせる
風景であったことが、歌(巻十五ー3627,3720,巻十七ー3894)から偲ばれます。
 それから1300年経った淡路島の北端地区は、明石海峡南北にわたる「阪神淡路大震災」の
震源地となってしまいました。万葉集中で柿本人麻呂が詠み残した「野島」(巻三ー250,251)も、
大地震によって大変な被害を被った地域です。
 藤原定家の百人一首における「淡路島への思い入れ」とは裏腹に「来て欲しくない事」を
「待つ(松)帆の浦」となりました。それこそ千年に一度の「震災という<来ぬ>こと」であって
ほしいところです。
 (注)最近、万葉集の旅で訪れた時の北淡町震災記念公園(北淡町野島断層保存館)の状況を
    リンクしておきましょう。

 「源氏物語」世界では、対岸の須磨や明石が言及され、後世における「和歌世界の淡路島」を
誘導し、提供しました。
  「友千鳥諸声になく暁は一人寝覚めの床も頼もし」(須磨)

 これらの古典の文芸世界は、勅撰八代集に継がれ、さらにそのあとを「百人一首」が、次の
ように淡路島を取り込んでいます。

  第78番歌 淡路島通ふ千鳥の鳴く声に幾夜寝覚めぬ須磨の関守 源兼昌
  第97番歌 来ぬ人を松帆の浦の夕凪に焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家

 このように淡路島は百人一首で二首詠い込まれ、定家の歌は万葉集巻六を本歌としています。また
万葉集中の多くの淡路島に関係した多くの歌があることを知るにつれ、淡路島の歴史の長さと
深さを改めて感じるところです。

 兼昌は、須磨にあって淡路島を望みながら詠歌したのに対して、定家はその対岸の淡路島の北端に
位置して万葉集歌の本歌取りをしました。その意味で、この二首は一対の百人一首歌ということも
できましょう。
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<淡路の北端>

 万葉の時代より、明石大門として詠まれてきた明石海峡は、大和への港難波津の玄関口として
また畿内の西の境界として、知られたところです。
 明石の門の北側は神戸市垂水区から明石市の海岸になり、南側は淡路島の淡路町、北淡町に
なります。現在明石港から淡路町の岩屋へは、約六キロメートルの海上を往来する渡し舟の便があり、
容易にわたることが出来ます。(この原稿部分は、平成7年9月に記す。)
 明石の門の最も狭まったところは約4kmで、現代の架橋技術によって本州四国連絡橋は可能に
なり、工事が進行して、平成10年(1998)4月に開通しました。
 (注)本四連絡橋については、後述の(参考)メモ書きを参照願います。

(左)明石大門の松帆浦(右)明石海峡大橋を往来する自動車の列
   岩屋港でフェリーを降りて、淡路島の北端に向かいますと、本州四国連絡橋の巨大な南端アンカー ブロックが望めます。陸橋部分の下を潜り抜け、淡路島の最北端に至りますと、 そこが松帆浦です。
 平成6年の時点ですでに本州と淡路島は二本の太い架橋ロープで結ばれていました。いかに狭い 明石海峡とはいえ、架橋ロープが架けられていないときは、遙かな海上に眺めた淡路島であり、 明石地区であったのですが、一旦ロープという人工物で繋がれてみますと、明石海峡はいかにも 狭く見えます。潮の流れは速く、行き交う船舶も多くは、速い潮に流されているように見えます。
フェリー船上からも小さい赤い鳥居と小祠が見えました。「松帆之浦」の石碑越しに本四架橋の 巨大な橋脚と橋柱二本を望むことができます。
万葉の人々や藤原定家らは、このような「松帆の浦」の風景を想像できたでしょうか。平安朝に おける畿内の橋といえば、勢多の唐橋であり、山崎橋、あるいは、長柄橋などであったのです。 当時の人々にとって、さらには現代の我々にとっても巨大な本四架橋はまさに別世界の構築物と しか思えません。「藻塩を焼く松帆浦」の和歌の世界は、確かに「別世界」というべきでしょう。

須磨・明石側から明石海峡と明石大橋を挟んで淡路島の北端「松帆浦」方面を望む

開通三ヶ月前、平成10年(1998)1月、須磨・明石側アンカーブロック周辺建設工事状況
 現在の松帆浦には祠と石碑以外にこれといった建造物はありません。もっともすこし西側の北淡町
海岸には、民間企業の保養所が一二棟建っています。
 本四架橋の工事中には、明石側の海岸のアンカーブロック付近には、架橋工事見物の遊覧展望塔や
展示館が開設されました。南端の松帆浦海岸では、その種の観光施設は設けられなかったのです。
しかし松帆浦も現在は、ほとんど荒らされていない一寒村の風情も何時観光拠点に変貌するやも
しれません。

 松帆浦の石碑の傍らには「松帆浦台場跡」の説明板も見かけられます。この砲台は、文久三年
(1863)、淡路の蜂須賀藩が外国艦隊の襲撃に備えて造築したものです。
 この台場跡の一画に藤原定家の百人一首歌碑が建てられています。

定家の百人一首歌碑と松帆浦台場跡
 定家はこの松帆浦を訪れたことはないと思われますが、没後750年経ってから自身の訪問に
替わって自分の歌が石碑となって現地を踏むことになろうとは思ってもみなかったことでしょう。
百人一首の歌群が日本人の中に継承されてゆくかぎり、定家の歌は永遠の命を保ち、それによって
この松帆浦の知名度も保たれてゆくことでしょう。
 徳川幕府による沿岸の国防大工事の130年後、同じく、国を挙げての世紀の大工事として
本四架橋が松帆浦の地に展開しようとは、定家も蜂須賀家の人々も、さらには「明石大門」自身も
与り知らぬことであったのです。

 架橋が完成した平成の時代から、今度は130年後の世界では、どのような大工事がこの淡路島に
展開しているのでしょうか。次の世紀の大プロジェクトとされているのは、紀州と淡路島を結ぶ
「紀淡海峡鉄道トンネル」)が、さらには、西の九州の地へ至る国家的大動脈が描かれているのです。  
  
 難波の茅渟海でも、すでに関西空港事業が展開し、さらにはいろいろな開発事業がすでに立案され
検討を重ねているところです。そこから飛び立ち、そこへ降り立つ飛行機から鳥瞰することができる
明石海峡周辺の風景もすこしずつ景観を変えていくことでしょう。
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<参考メモ・本四架橋>

 平成11年(1999年)5月1日に本州と四国を結ぶ三本目の連結ルートである尾道ー今治線が
開通しました。これにより瀬戸内三橋時代が出現しました。三橋の概要は次の通りです。
 藤原定家の「松帆浦」詠歌より800年。定家の歌の世界からは全く想像できない瀬戸内の
百人一首世界情景です。逆に百人一首が伝承されることによって、瀬戸内の万葉期や平安朝の
情景が伝承されていくことになるのでしょう。


 神戸淡路鳴門自動車道は平成10年の開通以来、八年経過しました。
 1970年(昭和45年)に本州四国連絡橋公団が発足して以来、28年の歳月を掛けて世紀の
一大プロジェクトを完工させた事になります。現在は、一民間企業形態をとる本州四国連絡高速道路
株式会社が当該高速道路を運営管理しています。
 因みに、明石海峡(垂水ー淡路間)を自動車で渡りますと、11.3km区間を8分で通過でき、
通行料金は2300円ですから、1km当たり200円、1分当たり300円弱かかることになります。
 しかしながら、約1兆4700億円かかった工事総額を精算できるのは、一日の交通量が1万台と
見積もってもなおかつ何十年と掛かる建造物ということになります。
 800年以上にわたり人々は対岸の淡路島を、また須磨明石を遠望してきました。架橋への長い
長い願望が漸くにして実現できたのですから、次世代、次世紀での効用に期待して行かざるを得ない
でしょう。万葉集、勅撰和歌集や百人一首の世界とはちがった観点での21世紀の瀬戸内情景という
ことになります。
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関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第九七話ー明石大橋ー
併せて御覧願います。

平成18年6月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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