敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 248 回  *** 第89番・その1 ***
***** 式子内親王ー賀茂斎院  *****

目    次
<斎院> <七野社> <参考メモ・葵祭>

百人一首・第89番 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする



























百人一首歌かるた・式子内親王画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)狩野探幽画帳(右)光琳かるた

<斎院>

 式子内親王は、鳥羽上皇四宮雅仁親王(のちの後白河天皇)の第三皇女として、藤原季成女成子(高倉三位)を
母とし、殷富門院(亮子内親王)、以仁王(高倉宮)などを同母姉・兄として仁平三年(1153)(あるいは久寿元年・
1154)に生まれました。

式子内親王関係の系譜
 姉亮子には保元元年・1156年内親王が宣下され、直ぐに斎宮に卜定され、兄守覚親王は仁和寺へ、続いて
次姉好子は同三年・1158年同じく内親王が宣下され、斎宮に卜定されます。二人の姉の跡を追うように翌年の
平治元年・1159年10月、平治の乱二ヶ月前6歳または7歳の時、式子に内親王が宣下され、第31代斎院に卜定されます。
 日本歴史上、平安王朝の貴族社会が崩壊し始め、続く武家社会へと変遷を遂げていくきっかけとなったのは、
この保元・平治の乱とされていますから、式子内親王はまさに時代が大きく変化していく端境期に、その人生を送った
ことになります。事実内親王の身辺では、宮中の深窓にあり、さらには斎院の斎王として身を処していながら、時代の
動いていく音が、耳をつんざくばかりにうなりを上げて聞こえ、また身に降りかかる日々であったのです。

 賀茂斎院は、天皇の代理として皇室の守護神である賀茂の神に、治世安泰を祈願し、奉仕する未婚の皇女の
役目です。その起こりは弘仁元年・810年藥子の乱に関わって嵯峨天皇が賀茂神社に祈願されたことによるとされ
初代の斎院には嵯峨天皇皇女有智子内親王(後述参考メモ参照)が就かれています。

 卜定後は、賀茂河原で御禊をして、初斎院として内裏の一隅の聖所で足かけ三年潔斎します。その後勅使の
大納言も派遣されて、お供100名以上で斎院御所である紫野野宮に移ります。
 いずれの斎院も皇女が自ら進んで就いた斎院ではないのですから、皇女としての運命と言うべきでしょうか。
 式子内親王の場合は、嘉応元年・1169年7月病により斎院退下するまで、十年間斎王を勤められました。

上賀茂神社の斎王桜(平成18年4月29日撮影)
 「式子内親王集」より、斎宮に関わる詠歌を抜き出してみましょう。参考文献に次のように要約されて
います。(奥野陽子「式子内親王集全釈ー私家集全釈叢書28」(平成13年10月)風間書房)

 「斎院時代に関する歌としては、」次の五首が挙げられます。
  *千載集三首
    (1)巻第三・夏歌・147番(退下後、賀茂祭当日、斎院時代の回想歌)
     賀茂の斎院(いつき)下りたまひてのち、祭のみあれ(後述の「御蔭祭」参照)
     の日、人の葵を奉りて侍りけるに書き付けられて侍りける
    「神山のふもとになれしあふひ草引きわかれても年ぞへにける」
    (神山の麓で慣れ親しんだ葵草よ。お互いに別れ別れになっても、年月が
           ずいぶん経ったことですね。)

  (2)巻第十六・雑歌上・973番(退下時、唐崎祓翌日、双林寺御子見舞いへの返歌)
     賀茂の齊院替り給うてのち、唐崎のはらへ侍りける又の日、双林寺の御子の
     もとより、昨日は何事かなど侍りける返事につかはしける
     「みたらしや影絶えはつる心地して志賀の波路に袖ぞ濡れにし」
     (御手洗川に映る和が姿がすっかり消えて無くなってしまう心地がして、
      息も絶える様な気持ちになり、志賀の船路で御禊の袖が浦波でも濡れた)

  (3)巻第二十・神祇歌・1272番(斎院として神を頼む心の神さびたことの神祇歌)
     百首歌の中に、神祇歌によみ給うける
     「さりともと頼む心は神さびて久しくなりぬ賀茂のみづ垣」
      (そうではあってもと神の御加護を頼みにする心は、神々しく清らかな心に
      なって長いときが経ちました。賀茂の瑞垣が神々しく厳かに古びて時が
      経ったように)

  *新古今集二首
  (1)巻第三・夏歌・182番(賀茂祭祭事思い出歌)
     斎院に侍りけるとき、神だちにて
     「忘れめやあふひを草にひき結び仮寝の野辺の露のあけぼの」
     (忘れることがあろうか、賀茂の斎院として葵を草枕として引き結んで
      仮寝をした野辺の神々しく清らかな露のしとどに置いた曙を。)


  (2)巻第十六・雑歌上・1484番歌(斎院回想歌)
     いつきの昔を思ひ出でて
     「ほととぎすその神山の旅枕ほのかたらひし空ぞわすれぬ」
     (ほととぎすよ、その昔、賀茂の神山で旅寝した時に、ほのかに鳴いた
      あの空の景色を今も忘れない。)

 「これらの歌から推測される式子の心境には、・・・(斎院の)役目を受け入れて勤めた矜持さえ
  感じられる肯定的要素の方が強いことは注意されてよい。」

上賀茂神社の斎王桜(平成18年4月29日撮影)
 斎院の特に重要な賀茂神社への祭祀は、毎年四月酉の日の賀茂祭で、あらかじめ御禊の上、上賀茂神社と
下鴨神社に参向して祭祀を行うことです。この時の斎院の華麗な行列が葵祭として平安の昔から人々の見ものの
代表であったわけです。中世の文学「枕草子」や「源氏物語」にも言及されているのです。
 また斎院の於かれた環境は宮中文化の中心となっていて、多くの平安文化の発信(後述参考メモ参照)が
見られるのです。
目次に戻る

<七野社>

 賀茂斎院跡とされている「檪谷七野神社」は上京区の北端で、堀河通沿い天神公園の小路を西に入った所で
大宮通を越した廬山寺通り北側社横町に当たり、周辺には民家が密集しています。
  (関連文献:角田文衛著作集4「王朝文化の諸相」法蔵館(昭和59年) 紫野斎院の所在地)
 この場所は下鴨神社の真西約2kmのところ、船岡山の東南麓にあたり、平安京内裏の真北になり、葵祭の日に
斎王の行列が進む一条大路まで丁度1km程離れています。

(左)七野社周辺の地図(右)七野社推定位置(上述の角田文献より)

(左)七野社参道正面(右)七野社拝殿

(左)七野社顕彰碑(右)七野社の解説板
 推定されている往時の紫野斎院の広さは約40丈(約150m)四方の広大な掲題であったものが、現在の七野社は
斎院諸殿舎の守護神七柱を合祀した神殿一棟のみの寂しい社に縮小されています。斎王が途絶え、斎院が消え
かかっても葵祭だけが残っている現在です。
 本殿のまわりは石垣が残されていて、稲荷社周辺は駐車場に変貌していて、駐車場の片隅に祠が設けられている
といった風景に変貌しています。石垣が辛うじて社の拝殿を守っているというべきでしょうか。
 毎年5月15日に挙行される葵祭は、京都御苑、朱雀門前を通り、堺町御門から河原町通りを下鴨神社へ向かい、
午後、下鴨神社から北大路通りを鴨川右岸沿い丹波街道を上賀茂神社へ進む催し物です。
 その昔の斎院である七野社へは、この葵祭に先立ち、その年の斎王代が参詣して祭の祈願をする神事があります。
数年に一度は昔の斎王が進んだ道筋を辿っても良いのではないでしょうか。祭の本来の意味合いを忘れないためにも。
目次に戻る

<参考メモ・葵祭>


(1)平成18年度の葵祭風景
  平成18年の葵祭は、斎王代以下の行列が京都御所を10:30に出立し、河原町通りを下鴨神社に向かいました。

(左)行列順路と先頭通過時間(右)腰輿に乗る斎王代(京都新聞2006・5・15(夕刊))


(右)御所・建礼門を出発する葵祭行列(左)御苑堺町御門での行列(京都新聞5・15(夕刊))
  葵祭(賀茂祭)の行列もさることながら、祭本来の儀式である神事は、下鴨神社社頭に於いて「社頭の儀」が
 行われるのです。神社の祭り案内手引きによりますと、
 「諸役、中門前および舞殿にて流鏑馬神事齊行の奉告、勧杯の儀、列立てを行って後、参道を南下する。」
 儀式です。続いて午後には「走馬の儀」(馬場を十頭の馬が走る儀式)、「狂言奉納」があります。
 
  行列の観覧場所としては、京都御苑内や下鴨神社境内には、特別席が設けられていますが、往時の趣が
 得られ、且つ間近に行列が観覧できる場所は、午後の下鴨神社から上賀茂神社に向かう加茂街道沿いでは
 ないでしょうか。


賀茂川右岸沿いの加茂街道を北上して上賀茂神社に向かう葵祭の行列風景
  因みに恒例の「葵祭」に先立つ諸行事として毎年5月の初めに、次のような儀式も執り行われています。
   3日 流鏑馬神事(下鴨神社)
   4日 斎王代・女人御禊神事(上賀茂神社)
   5日 歩射神事(下鴨神社) 競馬会神事(上賀茂神社・菖蒲根合之儀)
  12日 御蔭祭(御蔭神社)
      「葵祭(賀茂祭)」の原型とされる御蔭祭の最近の新聞記事を引用します。
      (平成18年4月18日付朝日新聞より)
  祭の日の朝、下鴨神社の氏子や神職らは神社を出発し、北東約3kmの高野川上流、八瀬比叡山口近くにある
  御蔭神社に向かい、神の力が最も強くなるとされる正午に神の降臨の儀式「御生(みあれ)神事」を行うのです。
  二本の榊の枝に降臨した神を神霊櫃に納め、神社へ招き入れる行事が御蔭祭です。午後3時頃から、(略式として)
  下鴨神社近く(セルフィ下鴨)から、神が乗るとされる白馬を誘導しつつ祭りの行列が参道を抜けて本殿へと
  向かうのです。御蔭祭が最高潮を迎えるのは、午後3時半ごろから参道の近くで行われる「東あそび」と称される
  歌舞音曲(和琴、篳篥、笛を奏し、音楽に合わせて、六人の男が舞う踊り)が行われます。この祭の意義は、
  「新緑の頃、若葉が萌え、虫や動物が生まれ、自然全体が息を吹き返すように感じるのは、全て神の力のお陰」と
   神に感謝の心を捧げることにあるようです。祭の行列の進行に合わせて行われる参道の歌舞音曲は、その神えの
  感謝の気持ちの表れとされているのです。

(左)御蔭神社の位置(中)御蔭祭の行列コース(右)御蔭祭りの行列(いずれも、前述の朝日新聞記事より)
          
(2)初代斎王有智子内親王と嵯峨野の墳墓
  歴代賀茂斎院は初代の漢詩人著名な嵯峨天皇皇女有智子内親王(810〜831)に始まり、後鳥羽天皇
  皇女礼子内親王(1204〜1212)まで、大凡400年35代にわたりました。
  有智子内親王の墳墓は、嵯峨野の二尊院と常寂光寺の間、江戸期の俳人向井去来の落柿舎の西隣に
  位置しています。訪れた五月新緑のむせかえるよう木々の中よりほととぎすの声が聞こえました。
    「霧雨の嵯峨野の里のほととぎすほの語らひし有智の皇女(すめらめ)」


有智子内親王嵯峨野墳墓と嵯峨野周辺の地図
  因みに、平安朝文化面から注目される斎院としては
   第16代 村上天皇皇女 選子内親王 975〜1031 
         大斎院・五代(円融天皇〜後一条天皇 56年間)に務める。
         「枕草子」に中宮定子との文の交流が言及される。中宮彰子に「源氏物語」のきっかけを与えた。
         「紫式部日記」に言及されている。
   第19代 後朱雀天皇皇女 ばい(示扁に旁は某)子内親王 1046〜1058
         六条斎院 数多くの歌合わせを催した歌人。
目次に戻る

関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八九話ー玉の緒ー
併せて御覧願います。

平成18年5月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。
あなたの悩み解決します 低金利でお得なローン探し 低金利でお得なローン探し
[PR] | RMT葬式 費用高崎浦安大井町新越谷esta ハワイ中国SEO対策消費者金融車 買取テンプレート沖縄旅行免許合宿二輪引越しプレゼントゴルフ会員権留学レーシックマッサージFXアフィリエイトFXホームページ制作デイトレード海外現地情報ハワイ旅行タイバンコクハワイ レンタカーベスト ハワイ ホテル レーツバリ島Hawaii hotelsHawaii Activitiesbhhrハワイホテルテキスト広告
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 ハワイ現地オプショナルツアーリラックマ) - ビジネスクラス航空券 - 格安航空券(1) - 格安航空券(2) - 海外ホテル - 韓国旅行 - タイムシェア - ホテル 予約
無料ホームページ - 携帯ホームページ - 無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - ブログ - ヴィラ - ハワイ コンドミニアム - バリ島 ホテル - プーケット ホテル - タイムセル - 口コミ - 格安国際電話 - ホノルルマラソン - サイトパトロール - 誹謗中傷 - 宿泊料金比較 - 口コミ