敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 247 回  *** 第83番・その4 ***
***** 皇太后宮俊成ー俊成と忠度  *****

目    次
<蒲郡所領の関わり> <忠度の和歌と謡曲世界> <参考メモ・藤原為忠>

百人一首・第83番 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる



























百人一首歌かるた・藤原俊成画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた

<蒲郡所領の関わり>

 前回の連載(第246回 皇太后宮大夫俊成ー「三河国・竹島」)で言及しましたように、俊成卿は
三河国竹谷・蒲形地区両庄を開発した領主とされています。この領地に関係して俊成卿と平家の
公達平忠度の接点があるのです。
 次の竹谷・蒲形庄地の伝承経歴とそれに関わっている人物系列図を御覧下さい。源平の時代とは
言いながら、両氏族の人脈が入り乱れて、庄地に関わっていることがわかります。

 俊成卿によって開発された蒲形庄・竹谷庄は、平治年間(1159年頃)に熊野神社に寄進され、
熊野別当湛快の所領となり、湛快はさらに両庄を娘に譲渡しています。この湛快女は、従兄弟の息子で
第22代熊野別当になる行快の妻となった後、平忠度に再婚したので、一時両庄は平氏一門の所領とも
成ったのです。
 ところが忠度が一ノ谷合戦で戦死したので、平家領没官となり源頼朝管轄下に入ります。そこで
湛快女は息子尋快のために前夫行快に両庄に関する鎌倉幕府への返還交渉を依頼します。行快は
頼朝の従兄弟にあたりました。すなわち行快の母親丹鶴姫(たつたわらの女房・鳥居禅尼とも言わ
れる)は源頼朝の伯母(父義朝の妹)に当たります。したがってこの申し出は了解されたようです。
第28代熊野別当になった尋快が所有権を継承したことになります。

三河国・竹谷蒲形庄園の伝承経歴と関係人脈図
 竹谷・蒲形両庄の中心的人物である熊野別当湛快なる人物は、人脈面や行動面ともに平家に顔を
向けていながら一方では源氏と手を結んでいるというなかなかの「やり手」であったことがわかります。
 加えて子息の湛増は熊野水軍を率いさせて壇ノ浦で源義経を支援させるといったぐあいに、源氏に
味方をする誠にややこしい歴史の流れになっているのが分かります。
 時流に如何に乗っていくか、それが当時、抬頭する武士社会における世渡り術であったのでしょう。

 因みに、熊野別当湛快が三河国守藤原顕広(俊成卿)から当国蒲形・竹谷両庄の寄進を受けたのも
俊成卿の熊野信仰が深かったこともありましょうが、和歌の世界において湛快は、俊成、西行、寂蓮などの
当時人々に知られた歌人連と親密な関係にあったのではないか、と思われるような背景が挙げられます。
それは、新古今和歌集中の西行法師歌(巻十八・雑歌下・1844番歌)詞書に伺えます。なお、この歌の
一番手前1843番歌は、藤原清輔の百人一首歌
  「ながらへばまたこのごろやしのばれむうしとみしよぞ今は恋しき」
となっています。
 「寂蓮、人々勧めて百首歌よませ侍けるに、いなび侍て熊野に詣でける道にて、夢になにごとも衰へ
  ゆけど、この道こそ世の末に変わらぬものはあれ、なをこの歌よむべきよし、別当湛快、三位俊成に
  申と見侍て、おどろきながらこの歌をいそぎよみ出だしてつかはしける奥に書き付け侍ける 西行法師
    末の世もこの情けのみ変わらずと見し夢なくはよそにきかまし 
    (意訳:何事も衰えてゆく末世において、この風情の道(敷島の道)だけは変わらないと、
        夢に見なかったら、あなたの百首詠めという言葉もよその聞き流したことでしょう。)」
となっているのです。すなわち、寂蓮法師勧進の百首歌歌会への参加を断って、熊野詣に出かけた途上の
夢の中に、今から出かけようとする熊野三山の別当湛快が出てきて、何事も衰え行く末世にあって、唯一
衰えぬ物は、和歌の道に励むことであると俊成卿に進言しようと、言ったので、はっと目が覚めて歌を
詠んだというのです。よほど普段からこれらの夢に登場した人物と親密に親交を結んでいなければ、
このような夢にまで関わってくることはないと思われます。
 果たして湛快は歌人としてどのような歌を残したのでしょうか。あるいは「詠まない歌人」としての
つきあいであったのでしょうか。いずれにしても「歌心」を持ち合わせた人物であり、知人関係で
あったことが想像されます。
    (引用文献:阪本敏行「熊野三山と熊野別当」清文道出版(2005年8月)248頁)
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<忠度の和歌と謡曲世界>

 忠度の父、平忠盛(永長元年・1096〜仁平三年・1153)は讃岐守正盛息として生まれ、
白河法皇の寵を得ます。官歴は検非違使を初めとして、各国の国守(伯耆国、越前国、備前国、
美作国、尾張国、播磨国など)を歴任し、山陽や南海道の海賊を退治し、鳥羽上皇の近臣になり、
院別当として、造営にも財力を発揮したので長承元年(1132)には、昇殿を勅許されています。
朝廷の重臣として相応しく行動し、評価されるようにと、武力、財力以外にも和歌などの宮廷必須
教養をも身につけ、平家の宮廷に於ける地位を高めました。私家集に「平忠盛集」も編纂されて
いるのです。
 このような文化面の素質も持ち合わせる人物でしたから、忠度も武力以外の教養も身に付けることが
出来たものと思われます。それ以上に、和歌世界への活動は、母親の血筋を引くのかもしれません。
お祖父さんにあたる藤原為忠なる人物(後述の参考メモ・藤原為忠を参照願います。)からは、名前の
「忠」の一字を貰っていることにもなるわけですから、偶然の事ながら、両方の親から「忠」を頂いている
ことになります。

 忠度の和歌世界は、藤原俊成を師とすることによって更に歌人としての足跡を残し、加えて後世の謡曲
世界でもその名前が記されました。
 謡曲世界に於ける俊成と忠度の物語展開は、「忠度」「俊成忠度」などに留められています。

(その1)「忠度」 
     世阿弥作とされる二番目複式夢幻能で、時は鎌倉初期春、場所は摂津国須磨に設定して
     ワキ僧(俊成身内の者)がシテ(前シテ忠度霊の老樵夫、後シテ忠度)に会って、忠度が僧に
     都落ちの時、俊成に和歌を託したこと、一ノ谷合戦で岡部六弥太と戦ったこと、箙に和歌短冊を
     残したことなどを語り、回向を頼むというもの。

 和歌がどのように謡いに取り込まれているかを見ますと、
 ワキ「げにげにこれは花の宿なれどもさりながら。誰を主と定むべき
 シテ「行き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵の主なれましと。『詠めし人はこの苔の下。
    痛はしやわれ等がやうなる海士だにも。常は立ちより弔ひ申すに。お僧たちはなど逆縁ながら
    弔ひ給はぬ。おろそかにましますひとびとかな
 ワキ「行き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵の主ならましと。『詠めし人は薩摩の守
 シテ「忠度と申しし人は。この一の谷の合戦に討たれぬ。ゆかりの人の植ゑ置きたる。しるしの木にて
    候なり

 さらに曲の最後の部分でも次のように謡い出されてゆきます。
 地 「・・・・時雨ぞ通ふ村紅葉の。錦の直垂はただ世の常によもあらじ。いかさまこれは公達の。
    御中にこそあるらめと。御名ゆかしき處に。箙を見れば不思議やな。短冊をつけられたり。
    見れば旅宿の題をすゑ。行き暮れて。木の下蔭を宿とせば
 シテ『花や今宵の主ならまし。忠度と書かれたり

(その2)「俊成忠度」
     内藤藤左衛門作とされる二番目劇的夢幻能で、時は寿永三年三月とし、所は京都五條
     藤原俊成邸に設定され、一ノ谷合戦で平忠度を討ち取った岡部六弥太(ワキ)がその箙の
     中から取り出した短冊を持って藤原俊成(ツレ)を訪ねると、忠度の霊(シテ)が現れて、
     千載集に読み人知らずとして入れられた怨みを述べ、和歌に係わる物語をして、戦死で
     修羅道に堕ちている忠度は、修羅王の部下となって梵天の帝釈を攻める苦しさを語ると
     いうもの。

 この曲においても和歌がどのように謡いに取り込まれているか抜粋してみます。
 (ワキから忠度の短冊を受け取って)
 ツレ『げにや弓馬の道ならねど。いつしか世に名を残し置き給ふ事のあはれさよ。
   「なになに旅宿の花といふ題にて。『行き暮れて木の下蔭を宿とせば。花や今宵の主ならまし
     
 (ツレが忠度の霊の出現にあって)
 ツレ『引くや詠歌も心ある
 シテ『故郷の花といふ題にて
 地上歌『ささ波や。志賀の都は荒れにしを。志賀の都は荒れにしを。昔ながらの。山桜かなと。詠みしも
      永き世の。誉れを残す詠歌かな。     
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<参考メモ・藤原為忠>

 平忠度の義父にあたる藤原為忠は、平安後期歌人としての人物像が描かれています。
 家筋は藤原長良流で、祖父は白河院乳兄弟藤原知綱で、父は郁芳門院乳母子で、白河院・
鳥羽院に寵愛された知信です。母は近江守藤原有佐(常磐丹後守)女です。
 永久年間(1113〜1118)従五位下に官位を得てから、受領を歴任して巨富を蓄え、造寺造塔を
重ね、さらには、長承三年(1134)鳥羽院三条烏丸御所新造もして、正四位下木工権頭を叙任して
います。
 常磐三寂と言われた寂念(為業)、寂然(頼業)、寂超(為隆)の父親でもあります。特に寂超の
息子は隆信であり、歌人である以上に似せ絵描きの名人で、建礼門院右京大夫の愛人であった
ことが「建礼門院右京大夫集」からも推定されています。隆信の画才は末裔に順次引き継がれ、
信実、為信、豪信などの名画家を輩出しているのです。

藤原為忠の系譜
 官位は低いが隠然たる権力を行使するという典型的な院近臣でした。肥満で口が渇く病気
(糖尿病か?)で籠もりがちになり、保延二年(1136)40歳前後で亡くなっています。
 歌人としての為忠の動きを時系列的に見ますと、
 元永元年(1118) 藤原顕季の人丸影供会出席 
             (主として六条藤家の顕季・顕輔の歌合で活動していた。)
 保安二年(1121) 藤原長家(道長男で藤原俊成曾祖父)歌合出席
 長承三年(1135) 一族や縁者を中心に丹後守為忠百首(初度百首)
 保延元年(1135) 木工権頭為忠百首(後度百首)
            (自らも名所歌合を主催していた。若き日の藤原俊成や源頼政らに和歌世界を
             提供していた。)
 勅撰和歌集では、金葉集が初出で、両度百首、歌合他、約230首が残されている。自身の
和歌は特別すぐれていたわけではないようですが、むしろ後進を指導する立場としての功績が
大きいようです。

 このような歌人の娘を母とした平忠度も和歌の環境としては申し分のないものであったといえそうです。

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「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八三話ー道理ー
併せて御覧願います。

平成18年4月8日(27日一部訂正)・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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