敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 246 回 *** 第83番・その3 ***
***** 皇太后宮大夫俊成ー三河国・竹島 *****
目 次
<三河国守>
<竹島の銅像>
<俊成の和歌世界>
百人一首・第83番 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
百人一首歌かるた・藤原俊成画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた
<三河国守>
父・権中納言藤原俊忠、母・伊予守藤原敦家女として、永久二年(1114)生まれた藤原俊成は大治年間
(1127)美作守の叙任後、加賀守、遠江守などを歴任の後、久安元年(1145)十二月三河国守に叙任され、
同五年(1149)四月丹後守になり離任するまでの四年ばかり、三河国にかかわりました。
兼官がなかったので、現地へ赴任した可能性も考えられますが、現地への赴任がなかったとしますと、遥任とし、
目代らに命じて現在の蒲郡市街中心部とその周辺を占めていたであろうと思われる蒲形・竹谷両庄の開発を
元暦二年(1185)に行い、地券を得て、荘園を所有したのです。(吾妻鏡元暦二年・1185・二月十九日條)
三河国の国府は、現在の豊川市内に位置していました。三河国と百人一首歌人で思い出されるのは、かの
文屋康秀の小野小町にふられた「三河国下向」の歌のやりとりです。連載100回 文屋康秀ー三河の県見を
参照願います。
因みに、俊成卿が当地で詠んだとされる歌は、
「大島や小島が崎のほとけ島すずめの森に恋の松原」
とされているのですが、地名を連ねていること、「島」の用語を重ねて詠んでいること、など、どうも「ご当地ソング」的な
歌である点、歌人藤原俊成作かどうか、疑わしいところであり、また私家集「長秋詠藻」には、含まれていないようです。
三河国守を勤めた後は、丹後守(1149)、左京大夫(1170)、さらに正三位皇太后宮大夫(1172)に
就いて「五條三位」と言われています。

(左)三河国蒲郡(愛知県蒲郡市)周辺(右)蒲郡市竹島周辺の地図
三河国守藤原俊成によって開発された蒲郡地区の中世荘園としては、蒲形庄・竹谷庄以外に西郡庄や
宮内庄も存在したのですが、現在の蒲郡市域中心部はほとんど熊野神社の社領であったことになります。
その後当地は熊野に関係深い鵜殿氏族が支配し、南北朝期は南朝に所属して吉良氏に攻撃された
竹島合戦以降、足利氏の配下に下っていくことになります。
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<竹島の銅像>
久安年間(1145年頃)三河国守藤原顕広(俊成卿)によって開発が進められた蒲郡郡内の地域開発も、
それから800年ほど後、今度は荘園開発に変わって、一般大衆のための共同広場開発として、竹島遊園地
整備計画が進められました。
竹島は蒲郡市府相町にあり、海岸から400m沖合の花崗岩島(周囲680m)で、コンクリート橋で連絡
されています。又海流の関係から温暖地特有の常緑樹林が島内の八百富神社社叢にあり国指定天然
記念物になっています。島内には市杵島姫命を御祭神とする八百富神社が養和元年(1181)国守藤原顕広に
よって、琵琶湖・竹生島から勧請されています。ご本尊は鎌倉末期の木像弁財天像(市指定文化財)で、
後年「三州竹島の弁天」として日本七弁天の一社に挙げられています。国守藤原顕広伝承の唯一の
関係事物ということになりましょうか。

竹島(愛知県蒲郡市)と連絡橋(左)(京都新聞平成16年12月20日「冷泉家歌のいのち」より)
(右)(津久井氏撮影)

竹島内の八百富神社への参道(中)本殿(右)八大龍神社拝殿(津久井氏撮影)
「蒲郡市三十年史」(昭和59年4月刊行)冊子によりますと、
昭和31年 7月、観光協会が中心となり水族館を開館(昭和35年まで開館)
昭和34年 竹島弁財天を琵琶湖竹生島より勧請。
藤原俊成を祀る千歳神社で俊成の後裔である冷泉家を招いて千歳祭が執り行われました。
昭和37年 三河湾国定公園の玄関口として、竹島を中心とする一帯に遊園地を計画して、新たに水族館を
建設し、道路を整備しました。
昭和38年 竹島ヘルスセンターを建設。
以来、蒲郡市(昭和29年発足、人口8万1千人、平成16年末現在)では、毎年春4月29日に「俊成祭」を
開催し、時代行列と短歌大会を竹島園地周辺で催し、「蒲郡開発の祖」として、その偉業を讃える行事を継承
されているのです。
因みに平成18年は第21回蒲郡俊成短歌大会〜俊成の里短歌大会〜は、4月29日午後1時より
蒲郡市民会館で開催されるとのこと。
これらの地域開発整備計画の推進から大凡30年立った平成3年(1191)には、「ふるさと創生事業」の一環と
して竹島への連絡橋前の広場に「藤原俊成卿若き日の銅像」を建立して、俊成卿の事績を顕彰したわけです。
顕広国守赴任後約825年経過しています。

竹島園地内の藤原俊成卿若き日の銅像(左)(京都新聞平成16年12月20日「冷泉家歌のいのち」記事より)
および(右)銅像台座の歌碑文(津久井氏撮影)
(銅像は平成三年四月文化勲章受章彫刻家富永直樹氏製作による)
また、この銅像の建立を記念して、蒲郡市博物館では、平成3年11月に愛知県教育委員会や財団法人冷泉家
時雨亭文庫の後援を受けて「特別展・藤原俊成の古典」という展示会を開催し、藤原俊成に関わる古典史料を収集し
俊成とその文化を鑑賞する機会を作っています。その主な展示物の部分を引用します。

(左)「古来風躰抄上」自筆本臨写(中)日野切 千載和歌集断簡(右)古今和歌集 建久二年俊成本

(左)藤原俊成卿御像 (財)冷泉家時雨亭文庫 (中)藤原俊成卿画像 京都 永明院
(右)藤原俊成翁姿画像 蒲郡・八百富神社
(以上いずれも蒲郡市博物館「特別展藤原俊成の古典」(平成3年11月1日刊行)冊子による)
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<俊成の和歌世界>
歌人としての藤原俊成卿は、歌論書や歌学書として「古来風躰抄」「万葉集時代考」などを、また家集と
しては「長秋詠藻」「俊成家集」を残し、勅撰和歌集には、詞華集を初出として、千載集36首、新古今集72首、
新勅撰集33首、玉葉集59首、風雅集28首など十六勅撰集に採歌され、その総数は416首になるという
中世歌人の巨匠です。この勅撰和歌集入集和歌総数は子息定家の456首に近い数字となっています。
父子そろって中世和歌の巨匠であることがわかります。
俊成の和歌人生は保延元年22歳の時、父の十三回忌鳥辺山墓所の帰りに詠んでから、大凡70年間に
及んでいます。中でも最も歌人として充実した時期は、35,6歳より76,7歳の大凡40年間とされ、加えて53歳の
ときから90歳に至る間に21回の歌合に判者になり、加えた判詞の数は1930余になるという、大変な歌人である
ことがわかります。
その俊成の和歌世界にあって重要な原典は自ら撰者に勅命の下った二十巻・1287首からなる千載和歌集の
編纂ではないでしょうか。その千載集に対する後白河院からの院宣下命は寿永二年(1183)二月という、
奏覧の時期は、その序文によって文治三年(1187)九月になっています。
この五年間の間に何があったのでしょうか。寿永二年四月には、北陸へ木曽義仲追討にでかけた平氏大軍が
大敗して、七月には都落ちの運命に暗転します。文治三年には、その平氏を壇ノ浦に沈めた源義経自身が、
今度は追討宣旨が発せられているという目まぐるしい世の移り変わりの数年であったのです。源平合戦戦乱の
世界の中にあってじっと和歌集の編纂に没頭した藤原俊成の別世界を感慨深く思いやられます。
千載集には源俊頼の52首に継いで、俊成自身36首の歌を選定しています。36首の歌に詠み込まれた
和歌世界を当たってみますと、
越の白根(76番)、須磨の浦人(183番)、清滝川(284番)、玉川の里(443番)、野島が崎(531番)、
藐姑射(はこや)山(626番)、室の八島(703番)、菅原の伏見の里(839番)、飾磨(857番)、
武蔵野の堀兼の井(1241番)、住吉の松(1263番)、貴舟河(1274番)
これらの歌枕のうち、藐姑射(はこや)山は中国の仙人が住むという想像上の山ですから、この山を別にして、
俊成卿独特の歌枕は、「菅原・伏見の里」あるいは「武蔵野・堀兼の井」というところでしょうか。
(1)菅原・伏見の里 大和国の歌枕、添下郡(奈良市)菅原町
伏見は「伏し水」に由来するといわれ、秋篠川支流域の菅の群生する原野であった地域。古くは土師氏
所領で菅原道真の曾祖父の代、土師から菅原へ改称したもの、同地は奈良期は、貴族官人達の
住居地であったという。
藤原俊成の歌 「忘るなよ世々のちぎりを菅原や伏見の里の有明の里」
源俊頼の歌 「なにとなく物ぞかなしき菅原や伏見の里の秋の夕暮れ」(千載集・巻四・秋上・260番)
(2)掘兼の井 武蔵国の歌枕
埼玉県狭山市掘兼にある井戸。他所にも伝承有りという。枕草子でも「井は」で言及している。
藤原俊成の歌 「武蔵野の掘兼の井もあるものをうれしく水の近づきにける」
源俊頼の歌 「浅からず思へばこそはほのめかせ掘かねの井のつつましき身を」(散木奇歌集・恋下・1202)
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