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平重衡 (保元二年・1157 〜元暦二年・1185) 平清盛(39歳)五男、母平時子、 宗盛、知盛の同母弟。 妻は藤原邦綱娘 安徳天皇乳母、大納言佐局。 極官 正三位左近衛権中将 (本三位中将) |
![]() (引用冊子:日下力ほか「平家物語を知る事典」 東京堂出版2005年5月発行) |
応保二年・1162 6歳 従五位下叙爵。
長寛元年・1163 7歳 一月 尾張守叙位。
仁安元年・1166 10歳 従五位上・左馬頭を歴任。
仁安三年・1168 12歳 従四位叙位。
承安元年・1171 15歳 従四位上昇進。
承安二年・1172 16歳 正四位下・中宮亮兼任。
承安三年・1173 17歳 姉中宮(前年1172年女御徳子の称名、1181年には
建礼門院を称名)徳子に仕える中宮亮になる。
治承二年・1178 22歳 中宮御産で、安産祈願に厳島神社に奉幣使として下る。
治承三年・1179 23歳 一月 左近衛権中将叙位。
(平氏一門近衛中将は、
本三位中将・重衡(清盛五男 保元二年・1157生)
小松三位中将・維盛(重盛長男 保元二年・1157生)
新三位中将・資盛(重盛次男 保元年間生まれか)
等が仕官していた)
中宮徳子の子言仁(ときひと)東宮にたち、東宮亮となる。
十一月 遷都した福原より清盛が入京し、朝廷人事にクーデター
強行。天皇への上申文の使者となる。
治承四年・1180 24歳 一月 三才の東宮着袴(はかまぎ)、譲位儀式に東宮を抱いて
列席の活躍。蔵人頭。
五月 以仁王・源頼政を園城寺攻撃の大將軍となり、
宇治平等院で討滅。
十二月 興福寺・東大寺焼き討ち、大仏殿焼亡。
養和元年・1181 25歳 二月 清盛病死。(仏罰による横死と人々の平氏非難や怨嗟の
声高まる。平氏の命運暗転。)
三月 病気の兄知盛に代わり、墨俣川戦で勝利。
十一月 備前東川で源行家を撃破。
非参議・従三位叙位、左近衛中将昇進。
寿永元年・1182 26歳 三月 公卿に列する。但馬権守。
寿永二年・1183 27歳 八月 解官。
閏十月 水島合戦(木曽義仲軍武将足利義清・海野幸広を撃破。)
十一月 播磨国室山合戦にて源行家軍を迎え撃つ。
寿永三年・1184 28歳 二月 一ノ谷の合戦で、生捕りになる。
源平の和平工作(三種神器返還交渉)失敗。
元暦元年・1184 三月 鎌倉へ移送される。
元暦二年・1185 五月 宗盛父子も鎌倉へ囚虜の身として送られてくる。
29歳 六月 9日、宗盛共々、鎌倉から西へ送還される。
文治元年・1185 29歳 六月 23日 泉木津にて処刑、奈良坂で首を曝される。
人柄を伝える記述としては「建礼門院右京大夫集」に、重衡は女房たちを冗談で笑わせたり、
怖がらせたりするかと思えば、人への気配りを忘れなかった、とあります。
重衡の人生に於いてその生涯を圧縮している年は、治承四年ではないでしょうか。東宮亮として
誠に晴れがましい機会に名誉な役目をこなして人生いきに感じたことでしょう。それから一年経たぬ
うちに、生涯最大の痛恨事の失態を演じてしまうとは。人生変転きわまりないとは彼の治承四年の
ことをいうのではないでしょうか。
重衡の「平家物語」における登場場面を追いますと次のようになります。
巻 三 御産 姉中宮徳子の言仁親王(安徳天皇)誕生の第一声を発している。
巻 五 奈良炎上 興福寺・東大寺襲撃の明かり取りの火が折からの強風に煽られて、大仏を
延焼してしまったことで、彼は生涯その責めを負わされることになる。
巻 九 重衡生捕 一ノ谷戦で生死を共にすべき乳母子にも逃げられ、生け捕りになる。
生田の森の副将軍重衡(名馬童子鹿毛騎乗)も武運尽き、乳母子(めのとご)
後藤兵衛盛長(中将秘蔵の名馬夜目無月毛騎乗)と湊河、苅藻河、蓮の池、
駒の林、板宿、須磨と落ちのびてゆくを、梶原源太景季と庄の四郎高家に
追いつかれ、弱った重衡の童子鹿毛を見て、盛長は、「鞭を上げてぞ落ち
行きける。三位中将是を見て、「如何に盛長、年比日比さは契らざりし者を、
我を捨てていずくへ行くぞ」と宣へども、・・・唯逃げにこそ逃げたれ。」
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一ノ谷の合戦で生け捕りになってからの「本三位中将平重衡」の人生は、平氏の面々の歩んだ
いろいろな人生の中でも最も波乱に富んだ、また屈辱の後半生であったと思われます。奈落の底へ
転がり落ちてゆく平家の運命を一身に受けて、悲劇的な人生の幕引きを果たすまでの平家物語での
記述を追いますと次のように、巻十は、「重衡の巻」ともいうべき語りが続きます。
巻 十 内裏女房 囚われの身で出家も許されず、恋人(民部卿入道親範女)とも生き別れを
強いられる。
「あふ事も露の命も諸共に今宵ばかりや限りなるらん」(重衡)
「かぎりとて立ち別るれば露の身の君より先に消えぬべきかな」(女)
戒文 三種神器とわが身の交換交渉に失敗し、法然に懺悔する。
海道下 鎌倉へ護送される。頼朝から南都炎上の罪を糾弾され、責任は一身で受ける。
京から鎌倉への、正に「死出の旅路」の道行き文は、平家物語中の名文中の
名文です。「四ノ宮河原になりぬれば、・・・・鎌倉へこそ入り給へ。」
千手前 駿河国手越宿遊女(吾妻鏡では北条政子付女房)と心を通わせる。
巻十一 重衡被斬 奈良で処刑される護送途上、妻大納言佐局と日野で最後の逢瀬を悲しむ。
「・・・守護の武士に給うで、木津の辺にて切らすべし。」とて、京から
斬首の間際に駆けつけた嘗て召し使った木工右馬允(じょう)知時の介助で
急遽取りそろえた阿弥陀仏と「狩衣の袖のくくりで引へつつ」最後の願文を
声高に誦します。人生最後の懺悔表明というべきでしょうか。
「傳聞く、調達が三逆を作り、八万蔵の聖教を焼滅したりしも、終ひには天王如来の記べつに預かり、
所作の罪業誠に深しといへども、聖教に値遇せし逆縁朽ちずして却って得道の因となる。今重衡が
逆罪を犯す事、全く愚意の発起にあらず、唯世に随ふ理を存ずる計り也。命を保つ者誰か王命を
蔑如する。生を受くる者誰か父の命を背かん。彼といひ是といひ、辞するところに所なし。理非
仏陀の照覧にあり。抑罪報たち所に報い、運命唯今を限りとす。後悔千万悲しんでも余りあり。
ただし三宝の境界は、慈悲を心として、済度の良縁区なり。唯縁楽意、逆即是順、此の文肝に銘ず。
一念弥陀仏、即滅無量罪、願くは逆縁を以て順縁とし、唯今最後の念仏に依って、九品託生を
遂ぐべし。」
本三位中将重衡がこの世で見た最後の風景は木津の河原で、現在では付近に「安法寺」という
寺院があり、その境内に供養塔が建立されています。
JR木津駅前の国道24号線(奈良街道)を京都方面へ上り、木津川辺に到るとJR奈良線の
線路脇に安法寺がり、その境内に平重衡卿の墓(十三輪石塔)があります。「平家物語」にいう
木津の辺りにて斬殺された現場に近いということでしょう。既に、810数年前ということに
なります。旧都(奈良)と京を往来する現代人にも脇を通る列車の窓から、見下ろされていることに
なります。あはれ重衡卿かな!
因みに重衡卿の供養塔から歩いても十五分ぐらいの所に和泉式部の墓(供養塔か)があるという
のもなんとも奇妙な組み合わせと言うべきでしょうか。


大納言典侍藤原輔子(ほし・藤原邦綱女)は安徳天皇乳母として、安徳帝東宮時、五条局と称し、 治承三年(1179)三月九日、安徳帝の践祚・即位の時、大納言局の女房名で典侍に任命されて いたのです。 一ノ谷の合戦後、京都の日野と醍醐の辺りに住む姉の元に寄寓していたので、鎌倉から奈良へ 護送されていく夫に再会することが出来たのです。不幸中の幸というべき、まさに劇的な別れと なったのでした。 「重衡卿の北の方と申すは、鳥飼中納言惟実の女、五条大納言国綱の養子、先帝の御乳母、大納言の 佐殿とぞ申しける。三位中将一ノ谷で生け捕りにせられ給ひし後も、先帝につきまいらせて おはせしが、壇の浦にて海にいらせ給ひしかば、武士の荒気なきにとらはれて、旧里に帰り、 姉の大夫三位(成子)に同宿して、日野といふところにおはしけり。」 護送中の重衡卿は、日野を通過する際に 「今一度対面して、後生のことも申しおかばやと思ふ也」 護送の武士は、気を利かせて、面会の便宜を図ります。 「大納言の佐殿の御局は是に渡らせ給ふ候やらん。本三位中将殿の唯今奈良へ御通り候が、 立ちながら見参に入らばやと仰せ候」 北の方聞きもあへず、「いづらや、いづら」とて、走り出でて見給へば、 「如何に夢かや、現か、是に入らせ給へ。」と夫の声。妻に「先立つものは涙也」 重衡卿に出来ることは、 「額の髪をすこしひきわけて、口の及ぶところをくひ切りて、是を形見に御覧ぜよ。」 「せきかねて涙のかかるから衣後の形見にぬぎぞ替えぬる」(夫) 「ぬぎかふる衣も今は何かせんけふをかぎりの形見とおもへば」(妻) 「北の方御簾の際ちかく伏しまろびをめき叫び給ふ御声の、門の外まで遥に聞こえければ、駒をば 更にはやめ給はず、涙に暮れて行き先も見え」ない別れであったのです。 重衡卿がすでに斬首されたと聞いた北の方は 「首をはねられたりとも屍をば取り寄せて孝養せんとて、輿を迎へに遣はす。」 「さてもあるべきならねば、其の辺に法界寺といふ処にてさるべきさるべき僧どもあまた語らひて 孝養あり。」「頸も屍も煙りになし、骨をば高野へ送り、墓をば日野にぞせられける。」 「北の方も様をかへ、後世菩提を弔らはれけるこそあはれなれ。」 落飾して尼となった北の方はその後、如何に人生を送ったのでしょうか。建礼門院の許を訪ね、 侍尼として仕えたのでした。 さらに建礼門院の往生を見送った彼女は、阿波内侍ともども 「此の女房達は、昔の草のゆかりも枯れ果てて、寄る方も無き身なれども、・・・・・ 皆往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。」 と平家物語は締めくくっています。彼女の人生も夫重衡卿とともに、波乱に満ちた生涯であったと 言わねばならないでしょう。目次に戻る
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