敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 246 回 *** 第83番・その3 ***
***** (参考メモ)平家の公達・忠度 *****
目 次
<忠度の人となり>
<忠度のその後>
<参考メモ・熊野別当>
百人一首・第83番 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
百人一首歌かるた・藤原俊成画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた
<忠度の人となり>
平忠度は天養元年・1144年生まれですから、藤原俊成とは、ほぼ一世代30年の年齢差があります。
育った所は紀伊国熊野の山地ですから、都からは遙かに遠い僻地ということになります。
父は平忠盛ですから、名前に親から一字頂いていることになります。母親は丹後守藤原為忠女
(為忠については連載第247回俊成と忠度の参考メモ・藤原為忠を参照願います。)
「忠」の名前の父親からだけでなく、母親の父からも頂いたことになります。両親からかなり愛情が
注がれる息子として期待されていたのでしょうか。
忠度が娶った女性は第18代熊野別当湛快の娘で、その兄弟には第21代熊野別当湛増がおり、
父親の兄弟系列である長範・長兼・湛快とも第16・17・18代熊野別当に就いており、
第17代熊野別当長兼の末裔には、江戸期の名奉行といわれた大岡忠相が繋がっているとの系図も
ありますが、真偽の程はわかりません。

平忠度と熊野別当係累との人物関係図
長じて都に在って平家一門の武将となり、 官歴としては、右衛門佐、伯耆守などを経て、正四位下
薩摩守になっています。 武將としての戦歴は、すべて源平争乱に関係していて、源行家を戦で破ったり、
都に攻め上ってきた足利義清を防戦しています。富士川の戦い、墨俣川戦、砺波山合戦、などに
大將軍として参戦しています。
寿永年間には一門と共に都落ちし、元暦元年2月7日、一ノ谷合戦で源氏方武将岡部六弥太
忠澄に討たれました。享年41歳という若さでした。
歌人としての忠度は藤原俊成に師事しました。寿永二年(1183)7月、平氏都落ちの際、和歌の師、
俊成卿に詠草一巻を託したことによって、勅撰集の千載和歌集に初出し、以降、新勅撰集・玉葉集・
風雅集・新拾遺集に計10首採歌されたことになります。私家集としては、「平忠度朝臣集」となって
残されています。
生前、平家武士文化層の厚さと深さを示すかのように、和歌世界にとどまらず師の藤原俊成と共に、
後年謡曲にまで残された平安末期の武将歌人ということになります。
故郷花「さざなみや・・・」、旅宿花「ゆきくれて・・・」などの名歌を、源平合戦の間にあって残して
逝きました。
武勇一徹の無粋な源氏武家文化と違って平家一門の文化レベルは大変高かったと見なければ
成りません。もっとも源頼朝も慈円大僧正と渡り合えるだけの歌詠力があったとされてはいますが。
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<忠度のその後>
「忠度のその後」とは、寿永三年(1184)都落ちの途上、京の五條三位俊成卿の舘にとって返して
後の運命の転々を意味します。
(その1)終焉の地
源平合戦一の谷の戦に於ける平忠度終焉の地といわれる明石に於ける縁りの地については、既に
次の連載に言及しております。
第46回・その2 源兼昌ー平氏の夢の跡
第173回・その4 柿本人麻呂ー瀬戸羇旅(その1)
したがって、ここでは神戸市長田区内の縁りの地を掲載いたします。
一ノ谷西手大將軍であった忠度は、鵯越から義経の奇襲作戦に遭い、戦陣は混乱に陥り、退却を
余儀なくさせられ、ただ一騎で西を目指して落ち行くときに、岡部六弥太に遭遇し、遂に戦わざるを
得ませんでした。その最後は平家物語巻第九・忠度最期に記されています。
さて、この戦闘の場所ですが、神戸市内では、次の二個所が旧跡とされています。

神戸市長田区の平忠度縁りの地周辺地図
(イ)「腕塚堂」(神戸市長田区駒ヶ林町4丁目)
駒林神社の西、海岸沿いの道から民家の路地の奥まったところに小祠があり、忠度の腕を埋めた
所とされています。お堂の周りは嘗ての海岸風景は想像すら出来ないほどの大都会の真ん中と
なってしまっています。
「摂津名所図会」に見られるように、海岸が間近に迫っている風景は全く伺えません。

腕塚堂(平忠度塚)(神戸市長田区駒ヶ林町4丁目)

駒ヶ林忠度塚付近の絵図(摂津名所図会より)
(ロ)「胴塚」(神戸市長田区野田町8丁目)
駒林町の更に西に大凡400mほどいったところ野田町の一角に胴塚があります。この塚の関係で
みますと忠度の体は、腕と胴がばらばらに埋葬されたことになります。出来るならば首級も腕も胴も
一緒に葬ってやりたいところです。

胴塚(首塚)(神戸市長田区野田町8丁目)
(その2)岡部六郎太と慰霊碑
「忠度」を討ち取った関東武者岡部六弥太「忠澄」は、その後どのように人生を辿ったのでしょうか。
よほど忠度は自分の名前「忠」には、縁が深かったと見えて、生まれた時、親の名前の一字を貰って
「忠」がつき、結婚した女性の父親がこれまた「為忠」で、更に人生のお終いの幕引きに係わった人物も
「忠澄」という、何とも念の入った「忠」字とのおつきあいの人生であったことでしょうか。
さて、その岡部忠澄は、一ノ谷の合戦後故郷の武蔵国岡部の地(現在の深谷市岡部町)に帰り、
忠度の冥福を祈り、領地内で一番眺めの良い萱場の岡部原に五輪塔を建立し、慰霊したのです。
深谷市の東隣は、熊谷市でここからは平敦盛を討ち取った熊谷次郎直実の生国となります。周辺は
源平合戦世界に大変関係深い土地柄ということになります。
天文十八年(1549)、深谷上杉氏家臣岡谷加賀守清英(法号清心)が清心寺を創建しました。
後年、慶安二年(1649)岡部原の忠度供養塔は、JR高崎線の線路脇に位置する清心寺境内に
移され、「史蹟平忠度の墓碑」となって、伝えられてきました。
境内には桜の古木があり、「忠度桜」といわれ、忠度の辞世の歌となった
「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵の主ならまし」
に因んで植えられたものでしょう。
因みに岡部六弥太の墓は、深谷市西隣本庄市よりにある普済寺境内にあります。この寺は六弥太
自身の開基とされているものです。

(左)深谷市周辺の地図(右)忠度供養塔がある清心寺の地図

(左)清心寺山門(右)忠度供養塔正面

(左)清心寺の平忠度供養塔(右)普済寺の岡部六弥太墓所
摂津国須磨の地から東方へ隔たること凡そ100里、遙かな東国関東の地で、戦った二人の武将は
石碑として向かい合い、お互いを慰霊しているのでしょうか。
私家集「平忠度集」には、大凡100首余りの歌が収められています。
春(立春〜苗代)20首、夏(卯花〜夕氷室)10首、秋(立秋〜山家秋暮)20首、冬(初冬〜
除夜)10首、恋(初恋〜絶後悔恋)20首、雑(閨冷夢驚〜祝)23首、計103首
忠度を偲ぶために、「さざなみや・・・」あるいは「行き暮れて・・・」の歌と同じく、桜の詠を
抜粋しておきましょう。
桜ーをしみかね散る花ごとにたぐふれば心も風に誘われにけり(12番歌)
美吉野の花咲きにけりつねよりもあさゐる雲のはるるまもなき(13番歌)
賀茂歌合に、花をよめる
ー木のもとをやがてすみかとなさじとておもひがほにや花はちるらん(14番歌)
東山の花み侍りけるに、家づとはをらずやと、人の申し侍りければ
ー家づともまだをりしらず山桜散らぬにかへるならひなければ(16番歌)
平家物語の中に採られた「故郷花」の歌は、その15番歌として収録されています。
この歌を俊成卿の手元に預けて心おきなく西国の戦場へと立ち去っていきました。
次のように朗詠しながら。
前途程遠 ゼントホドトホシ
馳思於雁山之暮雲 オモヒヲガンサンノユフベノクモニハス
後会期遥 コウカイゴハルカナリ
霑纓於鴻臚之暁涙 エイヲコウロノギョウルイニウフホス
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<参考メモ・熊野別当>
薩摩守忠度は紀伊国育ちと「平家物語」にあります。紀伊国に如何なる地縁があるのか、
父親忠盛の官歴か、母親の系譜藤原為忠の官歴が関係しているのか。紀伊国との
関わりは明確ではありませんが、ひとつの接点は忠盛が宮廷世界へ接近し、当時
典型的な「白河院・鳥羽院」の近臣として隠然たる実権を握っていた藤原為忠との
出逢いと関わりがあったのでは、と思われます。
紀州育ちの関係か、後年成人してから娶った女性は、紀伊国熊野別当の娘ということになります。
子供の時の世界が大人になっても何等かの影響があったのかもしれません。
忠度が生涯に於いて深く関わった「源平合戦時代の熊野別当系譜」を追ってみます。

熊野別当系譜と三河国・竹谷蒲形庄園の伝承経歴
熊野別当とは紀州熊野三山(本宮・新宮・那智)を統括管理する長官職のことで、「熊野
別当代々次第」(熊野別当補任記)に詳細が記されているとのこと。この別当は名誉総裁
熊野三山検校の指揮の下にあって同山の実質的管理事務を主管する僧職で、代々妻帯僧が
世襲し、極位(上れる僧位の最高位)は法印、大僧都といいます。
初代別当は快慶で、812年(弘仁三年)と伝えられますが、史料では、1000年頃(長保年間)
増皇なる別当が記されていて、力を持ち始めたのは1090年(寛治四年)白河上皇熊野御幸時、
先達となった園城寺増誉僧正が熊野三山検校に補任され、以降園城寺系統の寺門派
修験僧が補任され、別当を配下に於いて霊場を支配して行くことになります。
熊野三山検校の配下で実務執行者熊野別当には、平忠度内室のお祖父さんにあたる
第15代別当長快なる人物が法橋に叙任されてから、熊野三山信仰が隆盛し、と共に多くの
荘園支配に関わり、さらに最も力を持った時代は源平合戦頃で、後述する湛快は熊野水軍を
率いて、本宮系の田辺一分派(田辺別当)を派生させ勢力を振るいました。
承久の変を経て、寛元四年(1246)後鳥羽天皇の皇子覚仁法親王が熊野三山検校に
就任し、以降親王や摂関家の子弟が任じられることが通例になり、さらには聖護院や三宝院門跡が
兼職するに及び、ほとんど実権は別当に移管されたことになり、戦国下剋上時代に別当傍系という
堀内氏が実権を握り、紀州戦国大名へと変貌を遂げていくことになります。
1.第十一代別当 快真
熊野別当快真の藤原系譜を遡りますと、百人一首第51番歌人藤原実方に至り、さらには
藤原氏族・小一条流の藤原師尹家祖ということになります。因みに師尹兄弟に実頼・師輔が
おり、師輔の末裔には、道長から長家への系譜と繋がり藤原俊成に至ります。
2.第十五代別当 長快(長懐とも称す)(長暦元年・1037〜保安三年・1122)
第十一代別当快真の嫡子、子息に第16〜18代別当を勤めた長範・長兼・湛快あり。
承保二年(1075)別当になり、白河上皇熊野御幸を迎え、法橋・法眼・法印と昇進していった。
3.第十八代別当 湛快(湛海とも称す)(康和元年・1099〜承安四年・1174)
第十五段別当長快の四男、久安二年(1146)熊野別当に就任し、以後26年間その座にあり、
20度も鳥羽・後白河上皇の熊野御幸を迎えています。平治元年(1159)平清盛熊野詣中に
都で源義朝が挙兵したので清盛を援助しています。娘は清盛の弟の忠度に嫁がせています。
4.第二十一代別当 湛増(大治五年・1130〜建久九年・1196)
第十八代熊野別当湛快の子。父親は平清盛との関係が深く、1159年平治の乱では、
平氏方に就いています。治承・寿永の乱でも平氏につき、妹の夫である平忠度が攻めに出かけた
源行家の挙兵や以仁王の挙兵を知らせているし、自らも源氏方の新宮・那智を攻撃しています。
源頼朝の挙兵以降、源氏・平氏の融和を工作しますが、それもならぬまま源平合戦に突入し、
判断しかねた挙げ句、田辺宮(現在の田辺・闘鶏神社)で紅白の闘鶏で神慮を占い、
源氏方に就いたという。内実は頼朝挙兵によって源氏の世界へ転換して行くであろうと判断した
ものと考えられます。
「平家物語」では、以上の源平合戦への関わりが「巻四・源氏揃」「巻十一・鶏合」あるいは
「巻十二・六代誅斬」に言及されています。
(重要参考文献)
次の文献に熊野三山や熊野別当に関する歴史的事項が克明に記されています。
阪本敏行「熊野三山と熊野別当」 清文堂出版(2005年8月)
なお、三河国守藤原顕広(三位俊成卿)と湛快の関わりについては、
三章 熊野別当湛快の生涯とその時代(240頁)
に言及されています。
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忠度と共に、平家物語の悲劇の武人「平重衡卿」のメモ書きを追記します。
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八三話ー道理ー
併せて御覧願います。
平成18年4月4日(27日一部訂正)・
平成19年3月11日(平重衡追記)
磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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