敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 245 回 *** 第83番・その2 ***
***** 皇太后宮大夫俊成ー玉津島神社 *****
目 次
<玉津島町と新玉津島神社>
<住吉町の住吉神社>
<和歌の浦・玉津島神社>
百人一首・第83番 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる
百人一首歌かるた・藤原俊成画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)狩野探幽「百人一首画帳」(右)百人一首歌かるた
<玉津島町と新玉津島神社>
皇太后宮俊成は、俊成邸のあった五條通り周辺の変貌よりも、最も気にしていたであろう事は、
歌道の衰微ではないでしょうか。藤原基俊と俊頼より引き継いだ敷島の道については、定家・
家隆・良経・慈円・寂蓮などの後継者を育成し、次の世代の中世新風和歌として「千載集」
「新古今集」の世界を形成する道を拓いたわけですが、50年や100年先の見通しを立てることは
容易くとも、800年先の和歌世界を予測することは容易ではなかったのです。
僅か31文字の文学に91年の生涯をかけた歌人の脳裏を過ぎった和歌の未来とは、いかなる
ものであったのでしょうか。800年後の世界でも厳然として歌の道は残っている以上に、むしろ
俊成の時代よりも、より多くの人々が、すなわちより広い年齢層の男女が歌を詠み、歌に生きて
いるのを知ったならば、中世の時代に於いて和歌の伝統を繋いだ責任を果たしたことに安心して、
後世の隆盛を自負の念で納得するのではないでしょうか。
俊成卿の墓がたとえ風雨にこぼれて貧粗な碑になろうとも、御子左家として、その時代の和歌を
背負った名誉は消えることなく、ますます後世から賞賛が送られるであろうと考えます。
91年の生涯をかけた「賭け甲斐」があったというべき和歌の隆盛が、時代と共に彼への御礼と
して、その背中に贈り物として上積みされて行くような気がします。
さて、俊成卿が存命中に和歌世界を如何に構築したかということですが、現在玉津島町に
伝承されてきた新玉津島神社を訪ねてみましょう。

玉津島町の「新玉津島神社」位置
俊成卿は文治二年(1186)和歌の神様衣通姫の御霊を紀州の和歌浦から邸内の社に
勧請しました。その伝統が玉津島町の新玉津島神社ということになります。祭神は稚日女命、
息長帯日女命、衣通郎女とされます。
玉津島神社が勧請された頃の俊成邸は現在の俊成町から烏丸通りを挟んで玉津島町まで
占められていたと考えられています。
この神社の伝統は鎌倉時代の後も継続され、貞和二年(1346)再建され、和歌所が於か
れたとのこと。室町幕府の足利尊氏にも引き継がれ、社殿が修復され、応永二十四年(1417)
足利義満により復興されたとされています。
ところが応仁の乱により社殿は悉く荒廃してしまい、後年、正親町天皇の時、永禄十一年
(1568)勅命により玉津島町の西側、醒ヶ井通付近の住吉町に住吉神社が遷座されました。
それにつれ、元の玉津島神社も玉津島町に再興されました。特に、江戸時代の国学者北村
季吟は、神官として天和年間の社殿修復に尽力されたようで、現在でも参道入口に「北村
季吟先生遺蹟」の石碑が建立されています。

(左)松原通から望んだ「新玉津島神社」全景(2006年3月13日)
(右)おなじ松原通から(1995年12月18日)参道入口左に「北村季吟」顕彰石碑
「新玉津島神社」は民家に建て込まれて僅かに鳥居と参道が松原通りに押し開けられて
います。そのわずかに構えた鳥居さえも注意してみないと忘れ去られそうです。上述の写真から
分かるように、10年間で神社参道脇を見ても、東隣の民家は壊されて更地になったことが
分かります。それだけ、一般市街地の変貌ははげしく、神社域のみが、時の流れに耐えている
ようです。
俊成卿の五條京極第は新玉津島神社と同じ松原通(旧五條通り)を東へ数分歩いた
桝屋町辺りと推定されています。いずれにせよ、松原通沿いに河原町通から烏丸通から
玉津島町にかけてあったことになります。
現在はいろいろの一般庶民の商売店舗がびっしりと軒を連ねていて、部分的に前世紀の
構築物も見かけるものの、大半はコンクリート製の高層ビルに変貌を遂げています。いずれの
建造物もその高さは高くなく威圧感はありませんが、それでも、新玉津島神社をビルの谷間に
押し込めていることには変わりありません。もはや貴族の邸宅の跡を偲ぶよすがは何一つ
残されていないと見て良いでしょう。

(左)「新玉津島神社」社殿への参道、
「新玉津島神社」石碑は「定家様」書体で明治九年(1876)建立。
(右)拝殿前の「新玉津島神社」石碑も「定家様」で刻まれていて、
冷泉家の家司三人の名前が刻まれている。

「新玉津島神社」拝殿前左と拝殿前右
目次に戻る
<住吉町の住吉神社>
俊成卿が紀伊国和歌浦より五条室町邸内に勧請した歌道の神「玉津島神社」も、
応仁の乱により衰微したので、正親町天皇の勅命により復興され、住吉神社となりました。
その現在の社屋は、江戸時代・天明大火後に再建されたものですが、境内にある
末社「人麿社」ともども参拝してみましょう。

「住吉神社」正面(左)と由緒説明板(右)

「住吉神社」拝殿と拝殿右の「人麿社」
住吉神社は住吉町の東北角に位置し、町の真ん中を南北に通っている醒ヶ井通に
面しています。
御祭神は、住吉本社と同じく、三男神(底筒男神・中筒男神・表筒男神)さらに
天照大神、田霧姫神、神功皇后、武内宿禰まで、祀られています。
冷泉家で住吉神社に深く関わった人々は、十五代為村(明和六年・1769)二十一代
為紀(明治三十二年・1899)などでした。
目次に戻る
<和歌浦・玉津島神社>
玉津島神社の和歌の神に信心を深くし、歌道世界に生きた藤原俊成の確認されている
最初の歌は、保延元年二十二歳の時、父俊忠十三回忌に鳥辺山墓所に参っての帰途、
詠んだと言われる
「分け来つる袖の雫か鳥部野のなくなく帰る道芝の露」
であり、勅撰集初出歌は
「心をばとどめてこそは帰りつれあやしや何の暮れをまつらむ」
(詞華和歌集 巻八・恋下・236番・藤原顕広朝臣)
当時の歌壇で歌人として本格的な和歌集と考えられているのは保延六年(1140)二十七歳の
述懐百首とされます。この歌集の中に後年子息定家がその百人一首に採歌した歌が入って
いるのです。
「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞなくなる」
(千載和歌集・巻十七・雑歌中・1151番歌)
七十年ほどの和歌人生にあって、大凡五十年経った文治二年(1186)に、これまでの
歌道修行の集大成をするように和歌の神を自邸内に勧請したのです。五十歳になる前年応保二年
(1162)生まれた子息の定家も、俊成自身歌を読み始めた年齢に達していましたし、さらなる
熟年の和歌人生出発への心意気を示したかったのでしょうか。
因みに後年、孫の藤原為家は、この玉津島神社に毎月六回も詣でて歌道の精進を祈願した
といいます。
藤原俊成卿によって、京の町中に勧請された紀伊国和歌浦の玉津島神社は何故の
「和歌の神様」なのでしょうか。
和歌浦の玉津島神社については、既に連載第179回山部赤人ー赤人の和歌世界にて言及いたしました。

(左)和歌浦周辺の地図(右)玉津島神社付近の景観(紀伊名所図会より)
昔の和歌浦の地形を見ますと、玉津島神社は、嘗て美しい島であった玉津島に有ったことが
万葉集の歌からも想像されます。
「玉津島見れども飽かずいかにして包み持ちゆかむ見ぬ人のため」(萬葉集・巻七・1222番歌)
干潮時には玉津島の周辺は干潟になったのでしょう。したがって、萬葉時代には山部赤人が
「わかのうらに潮満ち来れば潟をなみ芦辺をさして鶴なきわたる」(万葉集・巻六・919番歌)
と詠んだことがわかります。
玉津島神社の御祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)・息長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)・
衣通姫尊(そとおりひめのみこと)・明光浦霊(あかのうらのみたま)(和歌浦の土地の神)の
四柱とされます。
衣通姫は第十九代允恭天皇の后で絶世の美女であり、衣を通して光り輝く美人であったというのです。
仁和二年(886)九月十三日、病床にある光孝天皇の夢枕に立った衣通姫は、
「立ち帰りまたもこの世に跡垂れむ名もおもしろき和歌の浦波」
と一首を詠まれたため、天皇は源隆行を遣わして玉津島に祀らせたということです。以降、「衣通姫は
和歌の神様」になり、玉津島神社は和歌の神社になったというわけです。
(衣通姫の関係メモは、後述の参考事項を参照願います。)


(上)玉津島神社境内の奠供山(標高40m)から和歌浦湾を望む
(下左)片男波海岸の遠望(下右)和歌浦漁港から奠供山を望む
玉津島が和歌浦地区の中心であり、その神が和歌浦の地霊とされていたことは、萬葉の時代の
聖武上皇の詔にも確認されます。それは当時この浜が「弱浜(わかのはま)」であったのを、明光浦
(あかのうら)と改名させ、かつその御霊を祀らせたのです。神社の奠供山は、天皇の祭事に用い
られた祭具(奠供)よるとのこと。
神社の伝承としては、聖武天皇の時代になっていますが、玉津島神の鎮座が奈良時代以前に
遡るであろう事は充分考えられます。
また、玉津島神が衣通姫であることは摂津国住吉神社神主で歌人でもある津守国基の歌にも
あるとおりです。
「年ふれど老いもせずして和歌浦に幾代に成りぬ玉つ島姫」
後世に和歌三神として玉津島神社(和歌浦)、住吉大社(大阪住吉)、柿本大神(明石)と
称されました。
したがって、かの中世女流歌人の代表小野小町も参詣したというのです。和歌の上達を祈願して
玉津島神社を参詣した小町は参拝前に羽織っていた衣を掛けたという「袖掛けの塀」まで、伝承
されているのです。
(参考メモ)「衣通姫」について
日本書紀では允恭天皇の妃、皇后忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の弟姫となって
いますが、古事記では、允恭天皇皇女軽大郎女(かるのおおいらつめ)とも言われています。
ここでは、参考として日本書紀の記述を引用しておきます。
「允恭天皇七年、新室に宴し、皇后自ら舞い、舞終わって当時の風俗のままに、
やむなく妹の弟姫を天皇に献した。天皇は喜んで、姫を近江坂田より召し上げ
ようとしたが、姫は皇后の心情を畏れて、七度召されても参向しなかった。人を
使わして懇請すること七日、ついに姫を倭の春日に至らしめ、藤原に屋を構えて
姫をおらしめたが、皇后の嫉妬はやまず、さらに河内茅渟に別宮を造らしめた。」
目次に戻る
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八三話ー道理ー
併せて御覧願います。
平成18年3月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。