敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 244 回  *** 第83番・その1 ***
*****  皇太后宮大夫俊成ー五條三位邸  *****

目    次
<平家物語と五條京極邸> <五條烏丸の俊成社> <天寿全うの墓所>

百人一首・第83番 世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる



























百人一首歌かるた・藤原俊成画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)狩野探幽画帳(右)百人一首歌かるた

<平家物語と五條京極邸>

 平家物語巻第七「忠度都落」の個所に、和歌の師藤原俊成と子弟平忠度の有名な最後の別れの場面が
あります。東国から攻め寄せ来る木曽義仲の軍勢に押されて、平家一門は寿永二年(1183)七月、西国へ
都落ちしてゆきます。時に俊成70歳、忠度40歳。師の俊成は、それから源平合戦の戦後20年間を
生き抜き、91歳で生涯を終えますが、年齢的には一世代も若い子弟の忠度は、別れた年の翌年寿永三年、
一ノ谷の合戦で戦死し、僅か40年の生涯を閉じざるを得なかったのです。
 二人を繋ぐ人生の絆は、和歌一首の「山桜の詠」ということになるのでしょう。謡曲「忠度」に語られるに
足る文人と武将の人生模様です。
 (後述の(参考メモ「平家の公達・忠度」を参照願います。)

 「薩摩守忠度は、・・・・・・五條の三位俊成卿の宿所におはしまして
    ・・・・・・・秀歌とおぼしきを百余首集られたる巻物を・・・・・俊成卿に奉る。
    ・・・・・・・其後世静て千載集を撰せられけるに、・・・・・・故郷花といふ題にて、
  詠まれたりける歌一首ぞ、読み人知らずと入られける。・・・・・・・」

 この「歌一首」とは、
  ー故郷花といへる心をよみ侍りける  読み人知らず
   「ささ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山桜かな」(千載和歌集・巻第一・春歌上・六六番)

 この歌の碑が「ささ浪の志賀の都」を遠望するところに建立されています。それは逢坂の関を越えて
「ささ浪の志賀」に入ったところの丘陵の一画です。
    (唐崎詣の第53番歌人右大將道綱母の連載参照方)
 いにしへの都「近江大津宮」を偲ぶ思いを「山桜」に添えて詠んだところが忠度歌の鮮やかさでしょうか。
「唐崎の松」あたりを読み合わせたいところですが、忠度は「山桜」を選びました。「松」の渋さより、
「桜」の華やかさを活用しつつ、嘗ての栄華の都を浮かび上がらせたかったのでしょうか。常磐の松より、
華やかに散り果てる桜を似つかわしいとした勅撰和歌集撰者俊成の考えも分かるような気がします。

 (参考)千載和歌集 「さざなみ」三首と「山桜」三首
     「さざ浪や 志賀のみやこは あれにしを 昔ながらの 山ざくらかな」
                                                                (66番・読み人知らず)
     「さざなみや 志賀のはなぞの 見るたびに 昔の人の 心をぞ知る」
                                                               (67番・祝部宿禰成仲)
     「さざなみや 長等の山の みねつづき 見せばや人の 花のさかりを」
                                                                     (75番・藤原範綱)
     「やまざくら たづぬと聞くに さそはれぬ 老の心の あくがるるかな」
                                                (43番・京極前おほきおほいまうち君)
     「山ざくら にほふあたりの 春がすみ 風をばよそに たちへだてなむ」
                                                                  (48番・中納言女王)
     「山ざくら かすみこめたる ありかをば つらきものから 風ぞしらする」
                                                                   (57番・前参議教長)

 ところで、ここに記された「五條」の宿所とは、どの辺りであったのでしょうか。長門本の平家物語では、
上述の部分は、
 「・・・・忠度乗りかへ、四五騎かほど相具して、四塚の辺より帰りて、彼俊成卿の五條京極の
    宿所の前にひかへて・・・・・・」
となっていて、五條通沿いの場所をより具体的に書き記していることになります。
 五條京極宿所とは、東西の通りとしては松原通に、南北の通りとしては御幸(ごこう)町通の交差する
地域一帯で、現在の桝屋町全域、京極町、鍵屋町、石不動之町、茶磨屋町の各一部を含んだ
地域一帯であろうと推定されています。因みに子息藤原定家の邸宅は御幸町通りの筋一本東側、
寺町通り沿いの二条と三条の間に在ったとされていますから、ある期間、比較的近くに親子が生活して
いたことになります。

(左)松原通り(旧五条通)沿いの町地図(右)桝屋町周辺の町並み


(上)御幸町通り沿いの桝屋町を北に望む
(下左)松原通の東方・河原町通りを望む(下右)石不動院町内石不動社
 桝屋町一帯で、俊成卿縁りの建造物を確認することは出来ません。しかしながら、旧五条通とされる
松原通に沿っては、各所に俊成卿縁りの世界を辿れるところがあります。現在、探索できる史蹟としては、
烏丸通り沿いの俊成町の西側にある「俊成社」、それから烏丸通りを挟んで西側に対している玉津島町の
「新玉津島神社」、さらには、堀川通り近くの醒ヶ井通り沿いにある「住吉神社」などになります。
  (和歌の神様である玉津島神社や住吉神社については
      次回の連載「第245回 皇太后宮大夫俊成ー玉津島神社」に言及します。)

<五條烏丸の俊成社>


(左)烏丸通り沿いの俊成社付近地図(右)烏丸松原交差点を俊成町より西を望む

(左)「俊成社」の烏丸通からの眺め(右)その小祠

「俊成社」から烏丸通りを望む
 「俊成社」は烏丸通りに面してビルの壁に囲まれた小祠として祀られているものです。
現在は、隣接する俊成町内の旧家四軒(玉虫家、梅津家、中村家、熊谷家)で支えられているとのこと。
俊成卿は建仁四年(1204)没後、800年後の世界で、「五条三位邸」の地域が京の町中でも最も繁華の場所となり、 門前を「自動車という鉄の自動牛車」が頻繁に往来しようとは、思ってもいなかったでしょう。烏丸通りは京の町の中でも 最も人や車の往来が多い賑やかなところですから、俊成卿も「俊成社」でゆっくりと休めないかも知れません。
(「京都新聞」ー冷泉家・歌のいのち・その一「俊成社」平成16年7月26日付より)

手洗鉢と案内板
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<天寿全うの墓所>

 俊成卿91年の天寿を全うし、長い人生の永眠の地は藤原忠通公の法性寺址に当たる東福寺塔頭の
一寺で「南谷の四ヶ寺」の一寺でもある南明院飛び地境内墓所になっています。この墓所は住宅開発された
地域内にあって土塀で仕切られ、妻(藤原親忠女)と並んで京の町を見下ろしています。
 因みに南明院は東山三十六峰の一山である秋山(一名、南明院山)の南谷四ヶ寺(正覚庵、光明院、
永明院、南明院)では、俊成墓所の秋山に因んで、「秋山会」を営み、俊成卿命日の十一月三十一日に
法要を挙行しているとのこと。
     (冷泉為人「冷泉家・歌のいのち・3」浄如禅尼と東福寺・京都新聞(平成16年9月27日付))
 南明院は東福寺の南約500mの山麓にあり、丁度南の伏見稲荷大社との中間に位置しています。稲荷 大社からの道程としては、社務所北側の産場稲荷の鳥居を潜り抜けて「権大夫の滝道」を真っ直ぐ北に上り ますと、俊成卿の墓参の道しるべの碑に突き当たります。
 墓地は民家に囲まれた西向きの傾斜地にあり、石碑がなければ見過ごしてしまいそうな飛び地になっています。  南明院境内は俊成卿の墓地の北約100m離れた所にあり、南明院、永明院、光明院の三明院の門前を 通過しますと、東福寺境内の南の正門(勅使門)に達することが出来ます。勅使門の南は正覚庵(筆の寺)で、 その北東隅には「俊成卿の墓」への道案内石碑が植え込みの角に建てられています。
 東福寺から稲荷大社にかけては、稲荷山の西麓に当たり、西の方には、北から愛宕山や小塩山を望む ことができる見通しの良い丘陵地になっています。この地は東山の南陵として、平安京建都以前から開けて いたようです。東福寺は1236年藤原道家の創建になるものですが、伏見稲荷の歴史は更に古いとされています。

(左)東福寺勅使門前の案内碑(右)五條三位俊成卿墓への案内碑

(左)南明院飛び地墓所内の俊成卿墓石(土塀際)(右)俊成卿夫妻(浄如禅尼)の墓碑
 俊成卿の墓は、今でこそ、民家に囲まれていますが、昔は丘陵斜面の見晴らしの良い場所で、眼下には
鴨川や桂川の流れも望めたのではないかと想像します。この地は果たして南明院飛び地墓所として今後
どれほど存続出来るのでしょうか。俊成卿没(1204)から800年大遠忌が過ぎました。墓所南の
稲荷大社が益々賑わいを見せるのに反して東福寺の塔頭の諸寺院は、一層ひっそりとして、忘れ
去られてしまいそうな気配です。稲荷大社の繁盛のお裾分けがあれば俊成卿も寂しい思いをしなくても
良いのですが。


 (参考メモ)稲荷大社
   伏見稲荷は711年(和銅四年)秦公伊呂具(きみいろく)が鎮守神として創始したわけですから、
  平安遷都に先立つこと83年前になります。全国に散らばっている稲荷神社の総本社になっており、
  特に毎年新年の初詣の人数は、近畿一円では、住吉大社と一、二を争うほどの賑わいです。
   この賑わいは近年になって益々高まっているのですが、これは、多分に日本の企業、特に製造業の
  分野では、工場の守り神として、稲荷社を祀る習わしが一般化しているためではないでしょうか。  

伏見稲荷大社本殿
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ー第八三話ー道理ー
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平成18年3月20日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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