敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 243 回  *** 第98番・その3 ***
*****  従二位家隆ー日想観  *****

目    次
<夕陽丘> <西方浄土への日想観> <隠岐への思い>

百人一首・第98番 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける



























百人一首歌かるた・藤原家隆画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた

<夕陽丘>

 古今著聞集巻五第194話および巻十三第469話に藤原家隆の臨終と七首の和歌の逸話が挿入されています。
 「従二位家隆卿は、わかくより後世のつとめなかりけるが、嘉禎二年十二月二十三日、病におかされて出家、
  七十九にてなられける。やがて天王寺にくだりて、次の年ある人の教えによりて、俄に彌陀の本願に帰して、
  他事無く念仏を申されけり。四月八日、宿執や催されけん、七首の和歌を詠ぜられける。
  かくて九日、かねてその期をしりて、酉の剋に端座合掌して終られにけり。」
 その七首の和歌とは次のようなものです。
「契りあれば難波の里にやどりきて波の入り日を拝みつるかな」
「なはの海の雲井になしてながむれば遠くもあらず彌陀の御国は」
「ふたつなく頼む誓ひは九品のはちすのうへのうへもたがはず」
「八十にて有るか無きかの玉の緒はみださですぐれ救世の誓ひに」
「うきものと我ふる郷をいでぬとも難波の宮のなからましかば」
「阿弥陀仏と十たび申してをはりなば誰もきく人みちびかれなん」
「かくばかり契りましますあみだぶをしらずかなしき年をへにける」
 多くの人々が天王寺の西門から極楽浄土を祈願したように、家隆卿も毎日の修行で、夕陽に向かって祈念して
いたことでしょう。 家隆卿の「夕陽庵」(せきようあん)あるいは上記の七首の第一首より、当地の地名に「夕陽丘」が
伝承されてきたということです。

 海の彼方に沈んでいく入り日を拝むことは、浄土教が人々の間に拡がっていきました。極楽浄土のある西に向かって
念仏を唱えることが平安時代末期から鎌倉時代にかけて「日想観」ブームとなったようです。特に四天王寺の西門は、
極楽浄土の東門に通じると信じられ、春秋の彼岸には落日拝謁修行が盛んになったとのこと。
 四天王寺西門の石の鳥居は永仁二年(1294)建立され、その扁額には「釈迦如来転法輪所当極楽浄土東門
中心」と掲げられているのです。
 浄土宗の教祖法然や親鸞上人あるいは一遍上人、さらには後白河天皇も四天王寺に参籠しているのです。
 
 「あみだぶといふよりほかは津の国のなにはのこともあしかりぬべし」(法然上人)
 「なにはがた入りにし日をも眺むればよしあしともに南無阿弥陀仏」(後白河天皇)

 当然京の貴族も四天王寺に足を運ぶと供に、熊野詣の道中で四天王寺参拝しているのです。要領よく四天王寺の
南門には、熊野神社に対して遙拝する「熊野権現礼拝石」の石柱が建てられ、熊野まで遠い人には、四天王寺で
熊野も西方浄土もすべて参拝できますよという段取りです。藤原家隆卿がここに修行の庵を設けたのも当然と言え
ましょう。家隆卿の「夕陽庵」で詠んだであろう次のような歌もあります。

 ー雑歌詠みける中に
 「難波がた雲居にみゆる島隠れこぎゆく舟のよその浮き雲」(壬二集・巻下・2988)

 さて、「藤原家隆塚」は、天王寺区夕陽丘・上町台地の西丘陵上に位置しています。「摂津名所図絵」でも次の
様な挿し絵が記されて「家隆塚」が勝曼院や毘沙門堂の隣に描かれています。
 この塚は享保六年(1721)、秋野坊盛順が安井門主道如の撰文を得て、建立したということですから、「摂津名所
図絵」にも描かれているのでしょう。現在、家隆塚の北に位置している浄春寺が嘗ての家隆「夕陽庵」であったとされて
います。その後、昭和十九年三月になって大阪府が顕彰史跡として「藤原家隆墓」の石碑を建て、昭和50年に有志の
団体が塚周辺を整備し、さらに平成3年に家隆塚由来の説明板を増設しました。

(左上)「家隆塚」(中央)毘沙門堂(中央上)勝曼院 (下)上町台地の西麓で、海側

(左)大阪市天王寺区夕陽丘地区(右)「藤原家隆塚」周辺の地図

「藤原家隆塚」(左)正面と(右)南面

(左)「藤原家隆塚」の石碑(右)説明板
 大阪市街の東に河内平野越しに臨める生駒丘陵は、西側の尾根が切り立っていて、奈良県側の裾野は大変
なだらかに奈良市街まで、続いています。したがって、生駒山の山頂から河内平野や大阪市街の展望は素晴らしい
景観となっています。
 同じように、大阪市街の中心を南北に走っている上町台地も、上町筋から西へ、谷町筋、松屋町筋、堺筋に
向かって断崖となっていて、口縄坂、愛染坂、清水坂、あるいは天神坂などの急な坂道が多く残っています。

上町台地の坂(左)急な口縄坂の上から西方を望む(右)周辺の史跡案内板
 また、上町台地から東側へ玉造筋、今里筋、内環状線に向かっては、なだらかな坂が続いています。
 生駒山から大阪湾に沈んでいく夕陽を眺めるのも、素晴らしい光景でしょうが、昔の人々は、わざわざ生駒山まで
のぼらなくても、上町台地の上から、茅渟の海を眺めれば、西国浄土へ向かう入り日を拝むことが出来たのです。
夕陽丘は正しく最適の瞑想地点であったでしょう。

 しかも、春秋の彼岸時、丁度遙かな西の海に沈んでいく太陽を拝めるところは、夕陽丘の地域でも、限られた所と
想定されるのです。すなわち、淀川の川口あたりから西を眺めますと、入り日は須磨あたりのせり出した丘陵に遮られ
ます。また、大和川の河口あたりになりますと、入り日は淡路島の島影に沈んでいくことになります。したがって、明石
海峡の狭間の丁度真東に当たるところが、彼岸の「日想観」に最適の場所と言うことになります。
 地図で当たってみますと、須磨明石地区の最南端にあたるのは、神戸市垂水区JR垂水駅付近になります。この
緯度を真東に延ばしますと、天王寺から約2km南側の阿倍野区文の里地区になります。ところがここでは、上町
台地の南端を外れることになり、あまり海を遥に望めないのでしょう。したがって、結局は四天王寺の西門の位置が
最適となるのでしょう。これで、どうして四天王寺はこの地に建立されたのか、どうして西門が設けられているのかが
分かったような気がします。(ひょっとしますと、住吉神社の造営場所も、この彼岸の入り日の観察地点に関係がある
のかもしれません。)

(左)JR垂水駅付近の地図(中)明石海峡と大阪市街地との関係(右)天王寺から阿倍野付近の地図
 現在、「家隆塚」地点から西方を望みますと、海岸は当然望めません。さらに海に沈んでいく入り日も望むことは
できません。遠望できるのは、車の洪水と林立する高層ビル群です。したがって、夕陽は高層ビルの中に沈んでいくの
です。とても「日想観」が得られるものではありません。
 家隆卿は、この地に永眠してから約800年、難波江の変貌を眺めてこられました。いつ頃から、夕陽丘での
「日想観」修行が出来なくなったのでしょうか。おそらくは、大阪の地の工業化が進んで、「東洋のマンチェスター」と
言われるようになる明治から大正時代にかけてではないでしょうか。としますと、おおよそ100年前となります。

家隆卿の「夕陽庵」があったと推定されている浄春寺境内からの風景
(左)西方に広がる大阪市街のビルの波を望む(右)夕陽の方向に南の繁華街・通天閣を遠望する
 夕陽丘から「日想観」の修行は困難になりましたが、滝に打たれる行水修行場は、夕陽丘地区の寺院に残っている
ようです。上町台地に降った雨が地下水となって、夕陽丘の崖下の修行水となっているのです。
 家隆卿の塚がある周辺にはいろいろの歴史的な旧跡や寺院も多いのです。一例、「愛染さん」の勝院(愛染堂)、
大江神社、京都東山の清水寺が勧請され、この夕陽丘に建立された(新)「清水寺」、あるいは安居神社などです。
 特に「清水寺」には、京の清水寺の舞台と同様の「西に入り日を拝むための舞台」が設けられ、人々は夕陽に向かって
極楽往生を願ったのでした。清水寺界隈についてはすでに藤原清輔の歌枕(連載第193回第84番その2)のところで
言及しています。

(左)「夕陽岡」名称由来の石碑(大江神社境内)
(右)浄春寺境内から「家隆塚」とその南隣の勝曼院(愛染堂)を望んだ風景
(大阪市内最古の多宝塔・文禄三年建立)

「摂津名所図絵」の清水寺の舞台(上町台地の西麓に海岸に向かって舞台がせり出している)
(参考)「家隆塚」の東隣の「清地蔵」
外務大臣陸奥宗光・亮子夫人の娘清が20歳で早世し、
供養塔が設けられた。
夕陽丘の地に建立された理由は
多分に藤原家隆卿の「夕陽庵」と同様の
西方浄土欣求の思想に拠っているのでしょうか。
内務大臣原敬撰文の由来説明碑が建てられている。
(明治40年8月建立)

 夕陽丘から「日想観」修行が出来なくなった現代人はどうしたでしょうか。やはり、西方浄土を祈願する代替行為に
でました。夕陽丘を降りて、より難波江の海岸に近いところを探したのです。「新夕陽丘」と称して、大阪港の沖合に
埋め立てられた人口島の丘陵地の公園を新たに設定しています。

「新夕陽丘」の(左)所在地図(右)周辺の風景
(産経新聞 平成11年(1999)5月26日より) 目次に戻る

<西方浄土への日想観>

 仏教の最終目的の一つは、「ひとが極楽浄土に生まれ変わること」ではないでしょうか。では、その為の
具体的な修行は何かといえば、「仏典をよく読む」、読めなければ、読んで聞かせてくれる仏僧の話を良く聞く、
すなわち「説法を熱心に聞き入る」ことで、良く信心しているということになるのでしょう。仏道修行ばかりに
専念して居られない一般庶民が個人的にその修行実感を体験するには、簡単な日常の習慣を身に
つけなければなりません。そこで考えられることは「西方浄土」に向かって祈ることとなるのでしょう。

 家隆卿が夕陽丘の隠居庵にて、毎日仏道修行三昧の毎日に行ったであろうと思われる「日想観」とは、
観無量寿経に説かれる「十六観」の第一とされるものです。参考資料(中村元「仏教語大辞典」(縮刷版)
東京書籍出版(平成三年十月第七刷))によりますと、
 「阿弥陀仏の浄土に生まれるための十六の観法の第一で、日の没入する姿を観じて西方の極楽浄土を
想うこと」で、「日観」「日輪観」とも称されるもの。
 十六観とは日想観における「太陽」と同じように、瞑想する対象を「水、大地、宝樹、宝池、宝楼、蓮華台座、
阿弥陀仏像など」いろいろの修行対象物を設定するもので、例えば、「水想観、地想観、樹想観、宝池観、
宝楼観、蓮華想観、像想観など」と称されているのです。

 この修行の内容を見ますと、「十六観とは、修験者が大自然を思い描き、それと一体になることを目指して
いるのではないか」と推し量れそうです。日常生活の周辺にあるものを修行の対象にしている点は、神道でも
山、岩あるいは大樹を神が宿るところとして人々が祭祀したことと同じ事でしょう。
 また、古代の人々の墓陵には死者の死後の世界を思い描く物として、星座、あるいは星宿の天体図が
描かれていることも良く知るところです。

 家隆卿の歌の先輩になる西行法師の場合は、「桜」や「月」が入道した法師の瞑想観の対象ではなかった
でしょうか。言ってみれば西行の「桜想観」「月想観」が彼の毎日の修行であったのではないでしょうか。
 こういう観点から、百人一首歌人各々の「日想観」に代わる「迷(瞑)想観」を尋ねてみますと、面白いかも
知れません。 

 「地想観」 天智天皇(秋田)、光孝天皇(春野)、源宗于朝臣(山里)、文屋朝康(秋野)、源兼昌(淡路島)、
        殷富門院大輔(雄島)
 「月想観」 素性法師(有明月)、大江千里(秋月)、清原深養父(夏月)、紫式部(夜半の月)、
        赤染衛門(かたぶく月)、三条院(夜半の月)、右京大夫顕輔(雲間の月)、後徳大寺左大臣(有明月)、
        西行法師(物思はする月)
 「山想観」 持統天皇(天の香具山)、山辺赤人(富士の高嶺)、奥山(猿丸大夫)、安倍仲麿(三笠山)、
        喜撰法師(宇治山)、蝉丸(逢坂山)、筑波嶺(陽成院)、因幡山(中納言行平)、菅家(手向山)、
        三条右大臣(逢坂山)、貞信公(小倉山)、清原元輔(末松山)、藤原実方朝臣(伊吹山)、
        清少納言(逢坂関)、皇太后宮俊成(山の奥)、前大僧正慈円(比叡山)
 「岩想観」 二条院讃岐(沖の石)
 「水想観」 参議篁(わたの原)、在原業平朝臣(竜田川)、藤原敏行朝臣(住の江)、伊勢(難波潟)、
        元良親王(難波)、中納言兼輔(泉河)、春道列樹(山川)、曽祢好忠(由良のと)、源重之(岩打つ波)、
        大納言公任(名古曽滝)、小式部内侍(天の橋立)、権中納言定頼(宇治川)、能因法師(竜田川)、
        祐子内親王紀伊(あだ波)、法勝寺前関白太政大臣(沖つ白波)、崇徳院(滝川)、
        皇嘉門院別当(難波江)、鎌倉右大臣(渚)、権中納言定家(松保浦)、従二位家隆(ならの小川)
 「火想観」 大中臣能宣朝臣(衛士の焚く火)、
 「樹想観」 藤原興風’(高砂の松)、寂蓮法師(真木)
 「楼想観」 恵慶法師(八重葎茂れる宿)、大納言経信(芦のまろや)、
 「風想観」 文屋康秀(山風)、大弐三位(猪名笹原風)、源俊頼朝臣(山おろし)、僧正遍昭(天津風)、
        参議雅経(秋風)
 「夜想観」 柿本人麻呂(長々しき夜)、右大將道綱母(ひとり寝る夜)、周防内侍(春夜)、良暹法師(秋の夕暮)、
        俊恵法師(物思ふ夜)、後京極摂政前太政大臣(霜夜)
 「観音想観」 藤原基俊(させもが露の命)
 「星想観」 中納言家持(鵲橋)、
 「花想観」 小野小町(桜花)、凡河内躬恒(白菊花)、紀友則(桜花)、紀貫之(梅花)、伊勢大輔(八重桜)、
        前大僧正行尊(山桜)、前中納言匡房(尾上桜)、入道前太政大臣(桜花)、順徳院(しのぶ)
 「天想観」 壬生忠岑(暁)、藤原道信朝臣(朝ぼらけ)、
 「雪想観」 坂上是則(白雪)、
 「時想観」 藤原清輔朝臣(憂き世)、
 「心想観」 右近(誓ひてし人)、参議等(人)、平兼盛(恋人)、壬生忠見(おもひそめし人)、
        権中納言敦忠(物思ふ人)、中納言朝忠(逢ふことの絶えてし人)、謙徳公(あはれともいふべき人)、
        藤原義孝(命をしからざりし人)、儀同三司母(忘れじの人)、和泉式部(今一度逢ふ人)、
        左京大夫道雅(人づてならでいふ人)、相模(恨み詫び人)、待賢門院堀河(長からむ人)、
        道因法師(思ひわび人)、式子内親王(玉の緒)、後鳥羽院(をしくうらめし人)
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<隠岐への思い>

 歌人藤原家隆の生涯は、後鳥羽院との和歌世界の共有を抜きには語れないものであったといえましょう。
 歌壇での家隆卿の経歴を少し追ってみて、後鳥羽院との関わりを振り返ってみましょう。
 建久九年(1198)頃、「守覚法親王家五十首」などに出詠した後、後鳥羽院歌壇に迎えられて、正治二年(1200)
「後鳥羽院初度百首」ほかに出詠し始めました。建仁元年(1201)には、新古今集撰集和歌所寄人に勅命が下され、
定家、寂蓮、雅経、有家、源通具等と供に撰者に選任されました。建仁二年(1202)の大々的な歌合「千五百番
歌合」にも出詠でき、後鳥羽院歌壇でますます重さを増してゆきました。

 建久元年(1206)家隆は歌道の精進の栄によって宮内卿に任ぜられ、その思いを次のように詠んでいます。
 「おほかたの秋の寝覚めの長き夜も君をぞいのる身をおもふとて」(新古今集・1760番)
 (お恵みに浴するわが身の光栄を思い、君を祈るばかりです。)

 そして、承久三年(1221)、後鳥羽院と家隆卿の間にとって衝撃的な「承久の変」が起こされます。藤原定家が
その前後から後鳥羽院との関係に間を置いていたのに反して、家隆卿は隠岐へ流された後鳥羽院との関係を絶ち
きらず、むしろこれまで以上にこまめに隠岐へ歌を送り、後鳥羽院を励まします。後鳥羽院もその心やりに応えて、
遠島での傷心の心を癒すため、一人だけの歌壇を展開し、「定家・家隆両卿撰歌合」等を作成することによって、
都ではどちらかというと定家の後塵を拝する家隆の地位を盛り返そうと努めます。

 もともと後鳥羽院の家隆卿に対する歌人評価は、大変高く、既に言及しましたように、「後鳥羽院御口伝」には
次のように述べられているのです。
 「家隆卿は、若かりし折はきこえざりしが、建久のころほひより、殊に名誉もいできたりき。歌になりかへりたるさまに、
  かひがひしく、秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐまさりたり。たけもあり、心もめづらしく見ゆ。」

 嘉禄二年(1226)後鳥羽院が隠岐から送ってきた自歌合「家隆後鳥羽院撰歌合」の判者を勤め、判事詞を書きます。
 隠岐へ配流になって十五年経った嘉禎二年(1236)、後鳥羽院は自身が判者となって「遠島歌合」を作成します。
この歌合には忠誠心を失っていない在京の歌人十五名の歌各十首計150首が編集されました。この十五名とは、
後鳥羽院下野を初めとして、家隆を筆頭に、基家、通光、忠信、隆祐、家隆女、親成、友茂、小宰相、信成、秀能、
長綱、家清、善清の面々です。
 
 隠岐の後鳥羽院への思いを綿々と綴っています。方や隠岐の島にあって、後鳥羽院の心境や如何に。
 (連載第118回 第99番・その4 後鳥羽院ー隠岐の島守 を参照願います。)

 ー遠所にて御歌合侍りしに、山家
 「さびしさは未だ見ぬ島の山里を思ひやるにもすむ心ちして」(壬二集・巻下・3005)
  (まだみたこともない隠岐の島に自ら「すむ心ちして」しまう思いに陥っています。)

 ー述懐歌あまたよみ侍りしとき
 「なにかのこる君のめぐみのたえしより谷の古木のくちもはてなん」(壬二集・巻下・3051)
  (老骨の身の「古木」も君のもとへ伺うべく「朽ち果てなん」でしょうが、家隆卿の実態としては、自分だけ都に
   残っている口惜しさに、「くちはてなで」の無念の気持ちを詠みたかったのではないでしょうか。)

 「もののふの新島守も心あらば君にかなしき月やみるらん」(壬二集・巻下・3063)
  (注)「我こそは新島守よ隠岐の海の荒き波風心して吹け」(後鳥羽院)

 「たどりこしおどろの道もおとろへて昔の跡の名をやうづまん」(壬二集・巻下・3068)
  (注)「奥山のおどろの下もふみわけて道ある世とぞ人に知らせむ」(後鳥羽院・増鏡おどろの下の一)

 「波間より都は辰巳ながめてもなほ宇治山の方や恋ふらん」(壬二集・巻下・3072)
  (注)「わがいほはみやこのたつみしかぞすむよをうじやまとひとはいふなり」(喜撰法師)

 「なげきわび十年にむかふ冬の日の夕暮ればかりかなしきはなし」(壬二集・巻下・3097) 
  (注)後鳥羽院は隠岐への配流十九年にして無念の客死となりました。家隆卿の述懐の歌からさらに九年
     配流の涙を流されたことになります。)
 「かへる山あるらんみちも待ちわびぬ宿をへだつる浮き雲の空」(壬二集・巻下・3111)

 ー承久三年七月以後、遠所へよみて奉り侍りし時(壬二集・巻下・3161〜3170)
 「たのみこし八雲のみちもたえはてぬ君もいつものうらめしの世や」(3161)
 「如何にしてあまの釣り舟たずねみん八十島いでし人やつげしと」(3162)
  (注)わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと人にはつげよあまの釣り舟」(百人一首歌・参議篁)
 「いかばかり都はたつみながむらん月も憂き世のおきつ島人」(3163)
 「かかるよのなみのさわぎにしく風のいかなるうらの月をみるらん」(3164)
 「おもふかたあなしのかぜにこととへど涙ばかりぞ袖にこたふる」(3165)
 (注)「あなし(あなじ)のかぜとは都から北西の隠岐からの風に耳をすましているのでしょう。)
 「うき秋の山田のいねもほしわびぬこきたれてなくそでの涙に」(3166)
 (注)「秋の田の刈り穂のいほの苫をあらみ我が衣では露に濡れつつ」(百人一首歌・天智天皇)
 「寝覚めして聞かぬをききてかなしきは荒磯波の暁のこゑ」(壬二集・巻下・3167)
  (後鳥羽院を思う心が押し詰まって、ついには自分も隠岐の島にいるような錯覚に囚われてしまうのです。)
  (注)この歌は、「増鏡ー新島守」につぎのように引用されています。
     「家隆の二位は新古今の撰者にも召し加えられ、大方歌の道につけて、むつまじく召し使ひし人なれば、
      夜昼恋ひきこゆる事かぎりなし。かの伊勢より須磨にまゐりけむもかくやとおぼゆるまで、まきかさねて書き
      つらねまゐらせたり。「和歌所の昔の面影かずかずに忘れがたう」など申して、つらき命の今日まで侍る
      ことのうらめしき由など、えもいはれずあはれ多くて
       ねざめして聞かぬをききてわびしきは荒磯波のあかつきのこゑ
      とあるを、法皇もいみじとおぼして、御袖いたくしぼらせ給ふ。」

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関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第九八話ー水無月祓へー
併せて御覧願います。

平成18年2月20日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

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