敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 242 回  *** 第98番・その2 ***
*****  従二位家隆ー壬二歌枕  *****

目    次
<壬二集> <家隆歌碑めぐり> <歌人活動略歴>

百人一首・第98番 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける



























百人一首歌かるた・藤原家隆画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた

<壬二集>

 家隆卿の私家集である「壬二集(玉吟集)」3200首から、彼の歌枕世界を想像しうるところを抜粋してみたいと
思います。家隆卿名所100撰とも言うべき「順徳院名所百首」、および「寄名所」や「最勝四天王院御障子和歌」の
部分に各地の歌枕が詠み出されています。一覧表にしてみますと、次のようになります。
国別歌枕寄名所順徳院
名所百首
最勝四天王院
御障子和歌
陸奥阿武隈川あぶくま河(653)あぶくま川(750)あぶくま川(1882)
陸奥塩竈浦しほがまのうら(711)塩がまのうら(1886)
陸奥信夫山忍ぶの山(716)しのぶの山(716)
陸奥末松山すゑの松山(720)
陸奥安達ヶ原阿達の原(758)あだち(1883)
陸奥安積沼あさかのぬまあさかの沼(1885)
陸奥松島まつ島(775)
陸奥緒断橋をだえの橋(776)
陸奥名取河名とり川(780)
陸奥白河関しら河の関(747)しら川の関(1881)
陸奥宮城野宮ぎの(735)みや木の(1884)
陸奥袖浦袖の浦(765)
上野佐野船橋さののばし(773)
上野伊香保いかほのぬま(725)
常陸筑波山つくば山(655)つくば山(764)
常陸霞浦霞の浦(762)
武蔵武蔵野武蔵野(744)むさしの(1880)
武蔵多摩川たま河(792)
武蔵三芳野三芳野(1842)
信濃菅の荒野すがのあら野(654)
信濃更科更科の里(659)更科の里(746)更科(1877)
駿河宇津山うつの山(712)宇津の山(1876)
駿河田子の浦田籠浦
駿河清見関清見かた(743)きよ見がた(1879)
駿河富士の嶺ふじの嶺(663)富士(783)ふじのね(1879)
駿河浮島うきしまが原(757)
駿河小夜の中山さやの中山(794)
遠江浜名橋はまなの橋(770)はまなのはし(1875)
三河しかすがの渡り志賀須加渡り(769)
三河鳴海浦なるみ(778)鳴海がた(1874)
尾張阿波手杜あはでのもり(768)
伊勢伊勢海い勢のうみ(708)
伊勢御裳濯河みもすそ河(724)
伊勢大淀浦おほよど(718)大淀のうら(1873)
伊勢生浦をふの浦(793)
伊勢鈴鹿河鈴鹿河(782)鈴鹿山(1871)
伊勢二見浦ふたみがた(779)二見の浦(1872)
若狭のちせの山のちせの山(665)
若狭還山かへる山(784)
若狭有乳山あらちやま(756)
近江逢坂相坂山(668)あふ坂の関(701)、
あふさかの関(799)
あふ坂山(1869)
近江志賀しがの夕暮(674)しがのうら(1870)
比良の山(1870)
近江伊吹山伊吹山(745)
近江鏡山鏡の山(760)
近江守山もる山(772)
近江水茎の岡水茎のをか(734)
大井川おほ井河(721)大井川(1864)
さがのやま(1864)
小倉山をぐらの山(736)
常盤山ときはの森(738)
清滝河清滝(751)
小塩山をしほの山(752)をしほ山(1868)
鳥羽鳥羽田(787)とは(1865)
小野をのの浅茅生(656)
嵯峨野さがの(795)
山城井手ゐでのしがらみ(669)
山城三室山みむろ(672)三室(739)
山城宇治宇治の河(675)うぢの河(737)八十宇治川(1863)
山城音羽音羽河(701)
山城美豆御牧水のみまき(729)
山城泉河泉河(1867)
大和初瀬山はつせの山(651)泊瀬山(731)はつせ山(1845)
大和高間山高間の山(652)、
かつらき(652)
大和伏見の里ふしみのさと(658)ふしみの里(761)ふしみ(1866)
大和檜隈河ひのくま河(667)
大和吉野芳野河(781)
大和春日野かすがの(703)春日の(1841)
大和三輪山みわの山(705)三輪のひばら(1843)
大和葛木山かづらき山(706)
大和手向山手向山(707)
大和香具山あまのかぐ山(726)
大和竜田山竜田山(732)立田山(1844)
大和高円野たかまど(740)
大和辰市たつの市(788)
大和石瀬石瀬の杜(763)
大和益田池ますだの池(766)
大和飛鳥河あすか河(786)
摂津依網の原よさみの原(662)
摂津御津の浜御津の浜松(671)みつの浜松(800)なにはづ(1846)
みつのうら(1846)
摂津三島江みしまえ(710)
摂津芦屋葦屋の里(713)あしのや(1848)
摂津水無瀬河水無瀬河(717)みなせ川(1854)
摂津猪名野ゐなのささ原(723)
摂津難波江難波江(728)
摂津須磨浦須磨の浦(733)すまのうら浪(1855)
摂津生田池生田池(742)生田の杜(1850)
摂津住吉浦すみよし(753)すみよし(1847)
淡路島(1847)
摂津田蓑田蓑の島(755)
摂津布引の滝布引きのたき(790)布引きの滝(1849)
摂津長柄橋ながらの橋(791)
摂津野中の清水野中の清水(1861)
摂津高師浜高師の浜(767)
河内生駒山伊駒山(741)
河内交野かたの(754)かたの(1853)
和泉信田社しのだの森(722)
和泉吹飯浦ふけひのうら(789)
紀伊あべのしまあべのしま(666)
紀伊吹上浜吹上の浜(714)吹上げの浜(1852)
紀伊由良三崎ゆらの三崎(715)
紀伊磯間浦磯まのうら(771)
紀伊三熊野浦みくまのの浦(777)
紀伊角太河角太河(796)、
まつちの山(796)
紀伊和歌浦わかのうら(798)わかのうら(1851)
紀伊かたみの浦かたみの浦(670)
淡路野島野島崎(748)
播磨高砂高砂の松(703)高砂(1860)
播磨明石明石潟749)明石がた(1856)
播磨飾磨しかまの市(796)しかまの市(1857)
丹後大江山大江山(727)
丹後天橋立あまの橋立(785)海橋立(1862)
因幡因幡山いなばの嶺(759)いなばの山(1859)
筑前玉島玉しま(702)
筑前企救きくの浜松(657)
筑前思ひ川おもひ川(660)
肥前松浦山松浦山(730)松浦のうら(1858)
壱岐壱岐島ゆきしま(673)
涙川涙かは(661)
 家隆卿歌枕集は全国に行き渡っています。鎌倉初期に著名な歌人が抱いていた「歌枕世界」とは、どのような
ものかが、大凡分かるような気がします。また「歌枕百撰」とは、このような各所であったかも知ることが出来ます。
 「壬二歌枕世界」の特徴として次の数点が挙げられましょう。

 (1)歌枕集とも言うべく、その世界は陸奥から、壱岐まで、全国に行き渡っています。しかしながら、東日本の
   歌枕の方がより多く挙げられています。その件数と割合は、次の通り。
   畿内49件(43%)、近畿17件(15%)、西国12件(10%)
   中部18件(16%)、関八州7件(6%)、陸奥12件(10%)
 (2)名所が多く挙げられているところは、陸奥、京・山城、大和、摂津です。京の周辺、山城、大和の歌枕が
   多いのは当然でしょうが、特に摂津が多いことは、家隆卿の終焉の地でもあることも関係しているかも知れません。
   平素から、摂津には大いに関心があったことになるのでしょう。摂津国内の名所は三島江から須磨まで、
   万遍なく抽出されています。
 (3)「名所百首」以外に「寄名所」「御障子和歌」三集ともに採りあげている歌枕は次の八地点です。
   阿武隈川、更科、富士、逢坂、宇治、初瀬、伏見、および関心の高い摂津国からは、御津を挙げています。
 (4)特色のある歌枕としては、陸奥(緒断橋、袖浦)、武蔵(三芳野)、信濃(菅の荒野)、駿河(浮島)、
   三河(しかすがの渡り)、尾張(阿波手杜)、伊勢(生浦)、近江(水茎の岡)、大和(辰市)、紀伊(あべの島)
   筑前(思ひ川)などが挙げられましょう。

 尾張の歌枕・阿波手杜については、参考メモ「阿波手杜と漬け物の神様」を参照願います。
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<家隆歌碑巡り>

 家隆卿の私家集「壬二集」に展開する和歌世界は全国に行き渡っていますが、その中で、北の地の白河関に
於ける歌碑と彼の終焉の地摂津国における歌碑を尋ねてみましょう。

(その1)白河関の歌碑代りの「従二位杉」
 藤原家隆の歌人として主たる活躍の舞台は都を中心とした地域で,すなわち晩年を過ごした難波の地など
でしょうが、実際に足を踏み入れたか否かは別にして伝承されている彼の関係する最北端地は福島県の白河関で
あるようです。

(左)福島県境付近の地図(右)白河関蹟上空の航空写真

白河関址そぞろ歩きの見取り図

(左)白河関跡(右)白河関の森公園入口
(引用資料:白河観光協会発行「白河」観光パンフレットより)
 JR東北新幹線新白河駅より南西方向、栃木県との県境に向かう途中の山間地が嘗ての白河の関跡と
されています。現在白河関は国指定史蹟として白河神社が祭祀され、白河市が管理しています。指定地域内には
江戸中期白河藩主松平定信公による「古関蹟」碑が建てられ、かってこの関に関係した人物として、能因法師、
平兼盛、梶原景時らの歌碑を建てています。これらの歌碑については、能因法師の歌枕に言及しております。

 伝承の遺物としては、源義家前九年の役時の「幌掛け楓」や源義経の平家追討時の「旗立ての桜」の傍らに
「従二位の杉」という藤が絡みついた大木があり、樹齢800年、幹廻り5mの大樹です。江戸後期松平定信公が
文化二年(1805)編纂を命じた「白河風土記」には、

 「囲リ一丈三尺ト相傳フ従二位家隆卿住吉明神ニ奉ルトテ昔植玉ヒシ杉ナリト伝フ」

と記されています。
 家隆略年表を見ますと、建久九年(1198)上総介に叙されていますが、常陸や下野より以北の東山道・陸奥に
赴任したことはないのでは、と思われます。訪れているとすれば、白河関が置かれて既に400年以上後のことで、
八幡太郎義家が清原氏を後三年の役で討伐してからでも100年以上経っているわけです。彼の時代の先代として
律令体制下の旧跡を訪れたとして、どのような感慨を抱き、どのような歌を残したのでしょうか。あるいは、杉が残って
いるところからみますと、和歌で後世へのしるしを残すより、杉の木で何かを語らんとしたのでしょうか。

従二位の杉
「雲のいろは まだしら川の関の戸に
明けぼのしるき うぐひすの声」
夫木和歌集 巻第二
 建仁元年影供歌合
「しらかはの せきのしろ地に からにしき
月にふきしく 夜半のこがらし」
壬二集(玉吟集)747番歌

白河関蹟の案内板
(その2)津の国の昆陽の里に建つ歌碑
 摂津国(伊丹市)の昆陽池周辺には多くの歌碑が建立されています。その中にある家隆卿の歌は、

 「たちかへり みちあるみのよに あはむとや をなしこやのの まつむしのこゑ」 (壬二集より)

 摂津国昆陽池は、家隆卿の関心高かった国柄であり、一度は実地に出向いている可能性があります。この付近の
西国街道を通った歌人としては、一昔前の能因法師や藤原基俊、同時代では、藤原定家卿が有馬温泉への
道すがら、立ち寄っている可能性大です。都を出て、摂津国もこの付近になりますと、異郷の雰囲気を感じるように
なったのではないでしょうか。


(左)伊丹市昆陽池付近の地図(右)家隆歌碑(昆陽池一丁目・市民病院入口)
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<歌人活動略歴>

 家隆卿八十年の生涯(保元三年・1158〜嘉禎三年・1237)において歌人としての活動振りを追ってみましょう。
 彼の和歌の才能は如何なる血筋から来るものでしょうか。血統を追いますと、藤原兼輔の末裔にあたり、かつ紫式部の
祖父雅正の八代の孫になります。人生の出だしが寂蓮(藤原定長、幼少時藤原俊成の養子となった歌人)の聟(むこ)
となり、親子揃って俊成の門下に入ったという、歌人としては恵まれた環境と言えましょう。子供の隆祐や土御門院
小宰相も著名な歌人であったことを考えますと、家隆卿の血には歌人の遺伝子が流れていると思わざるを得ません。

 公的な花壇活動は二十代後半文治年間の「二見浦百首」「殷富門院大輔百首」「閑居百首」などから始まり、
勅撰和歌集には千載集4首を初出として、新古今集には43首、新勅撰集43首、続古今集41首、と多くの歌が
採歌されていて、全勅撰和歌集には282首も入集しています。
 家隆歌風は三年代に分けられるとされます。まず、30歳頃までの習作期における古風の歌を読んだ時期で、成果は
千載和歌集への入集です。

 次に、50代半ばまでの20年間に於いては、「六百番歌合」などの新風の歌を詠み出した時期で、成果は新古今
和歌集に集約されています。「六百番歌合」は中世に於ける代表的な且つ大規模な歌合で、当時の歌壇における
著名歌人連の読み上げた六百番・1200首の題は、春十五題、夏十題、秋十五題、冬十題、恋五十題で、
膨大な歌の集大成ということになります。
 十二世紀末鎌倉幕府が成立した頃、九條家の権大納言兼左大將藤原良経が当代の著名歌人「御子左家」
「六条藤家」から12名を集め、判者に藤原俊成を起用して、大々的な歌合わせを催しました。参加歌人は次の通り、
錚々たるメンバーになっています。
                   「六百番歌合」詠進歌人一覧表
               判者 藤原俊成(1114〜1204)79歳(御子左家)
              左方                          右方
藤原良経(1169〜1206)24歳(藤原北家・主宰者)     藤原家房(1167〜1196)26歳(藤原北家)
藤原季経(1131〜1221)62歳(六条藤家)          藤原経家(1149〜106)44歳(六条藤家)
藤原兼宗(1163〜1242)30歳(藤原北家師実流)      藤原隆信(1142〜1205)51歳(御子左家)
藤原有家(1155〜1216)38歳(六条藤家)          藤原家隆(1158〜1237)35歳(御子左家)
藤原定家(1162〜1241)31歳(御子左家)          慈円(1155〜1225)38歳(藤原北家)
藤原顕昭(1130?〜1209?)63歳(六条藤家)       寂蓮(1139?〜1202?)54歳(御子左家) 

 さらに最晩年までの20数年間における「高風の歌」(長高体の歌、あるいは高寂風の歌)という「人生や生活に即した
抒情的歌風」を示した時代で、成果は新勅撰和歌集以降の勅撰和歌集に多く採歌されていることからもわかります。
 特に歌人としての華やかな時代は、40〜50歳代の後鳥羽院歌壇での活躍であり、和歌所の寄人としての新古今
和歌集の編纂活動でしょう。後年の「高風歌時代」でも、承久の変で隠岐島に流された後鳥羽院とも連絡を絶たず
引き続き、「家隆後鳥羽院撰歌合」(嘉禄二年・1226)、「遠島歌合」(嘉禎二年・1236)にも深く関わっています。
このあたりは、新古今集仲間の藤原定家卿とは別の道を歩みました。
 したがって定家卿とやや違って後鳥羽院の覚え目出度く、「秀歌ども詠み集めたる多さ、誰にもすぐ勝りたり。たけも
あり、心もめづらしく見ゆ」(後鳥羽御口伝)とお褒めに与っています。

 生涯に詠んだ歌は「詠歌六万首」(井蛙抄)とも言われます。家集「壬二集」(壬生二品集、玉吟集とも)では、
伝本によって約2700首(六歌集本系)、約2800首(古本系)とされますが、広本系(「新編国歌大観」)では、
3201首が採歌されています。
 (注)新編国歌大観「壬二集(玉吟集)」巻上 1141首 巻中 964首 巻下 1098首 計 3201首
    特徴としては、「初心百首」に始まる百首詠歌のまとまりが多いことでしょう。

 歌人としての活動の伝承はいろいろの関係資料に言及されています。
 「後鳥羽院御口伝」、「古今著聞集」(巻五、巻十三など)、「増鏡」、「今物語」、「十訓抄」、「井蛙抄」、
 「さざめごと」、「兼載雑談」、「正綴物語」など。
 ここでは、「古今著聞集」から歌人評を引用しておきます。

 「かの卿(家隆)、非重代の身なれども、よみくち、世のおぼえ人にすぐれて、新古今の撰者に加わり、重代の
  達者定家卿につがひてその名をのこせる、いみじきことなり。まことにや、後鳥羽院はじめて歌の道御沙汰あり
  ける比、後京極殿(藤原良経)に申し合わせまゐらせられける時、かの殿奏せさせ給ひけるは、「家隆は末代の
  人丸にて候ふなり。彼が歌をまなばせ給ふべし」と申させ給ひける」
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