敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 242 回 *** 第98番・その2 ***
***** (参考メモ) 歌枕・阿波手杜と漬け物の神様 *****
目 次
<阿波手の杜>
<萱津神社>
<藪に香の物>
百人一首・第98番 風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
百人一首歌かるた・藤原家隆画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)百人一首歌かるた
<阿波手の杜>
家隆卿の歌枕百撰の一件として挙げられていた「阿波手の杜」(「あわで」のもり)の由来について
次のような故事が伝えられています。
(イ) 日本武尊が東征の折、伊吹山付近で豪族と戦いましたが、致命傷を負って、再起出来ない
と分かると、伊勢神宮にいる妻の宮簀姫(みやづひめ)に伝えの使者を立てました。しかし、
二人はすれ違いで、会うことが出来ないままになり、尊は、伊勢への出立に先立ち、
「後世、再びこのような「あわで」になることのないように」と、雌雄二本の榊を植樹された
ところ、榊は地上二メートルの所で連理の枝をだし、萱津神社のご神木になったのです。
(ロ) 他の伝承としては、宝亀十一年(780)奥州(信夫の里)の夫婦(夫恩雄、妻藤姫)が
京に住む父を訪ねて萱津の宿に泊まりましたが、妻藤姫は、次の歌を残して死に、父との
京での再会が叶わなかったことから、「あはでの森」と称されたという。
「わするなよわが身消えなば後の世のくらきしるへに誰をたのまん」
またこの森の東に藤姫の霊を招いた跡とされる「反魂香塚」(はんごうこうつか)が参考資料
(「尾張志」など)に記されています。
(引用資料:日本歴史地名大系23「愛知県の地名」平凡社(1990年12月))
(ハ) 又の資料(「尾張名所図会巻之七」)には、「反魂香塚」の由来を次のように説明して
います。
「光仁天皇の天応元年(781)、河内権守紀是広が子、七歳にて父を尋ね、東国に下らんとて、
この所まで来り、煩い失せけるを、父是広、出羽より登るとて、ここに来合わせ、我が子の
死せしをきき、智光上人を頼みて、反魂香を焚き、しばしの冥界をとげし跡、塚となり今も
残れり。・・・」 (以上は、名古屋・七ツ寺の伝承という)
この伝承から、社叢が「阿波手の杜」(あわでのもり)として、歌枕となり、平安期より紫式部
ほかの著名歌人が歌を残しているのです。
「かきたえて人も梢のなげきこそはてはあはでの森となりけれ」(新千載集・紫式部)
「かた糸のあだの玉の緒よりかけてあはでの杜の露きえぬとや」
(建保三年内裏名所百首・藤原定家)
「名にしおはば阿波手の杜の呼子鳥うきはためしの夜半の一声」(同・俊成卿女)
「ただ染めよ時雨も露も置く霜もあはでのもりの秋のくれがた」(同・宮内卿家隆)
また、「あはで」の背景として次のような挿話も、相模の歌の詞書きになっています。
「なげきのみしげく成り行くわが身かな君にあはでの杜にやあるらん」(色葉集・相模)
康平三年(1060)三月十九日、高倉の一宮にて、国所の名をあはせ給ひけるに、相模が詠める
歌なり。あはでの杜は尾張の国にあり。昔妻夫をみむとて、尋ね行きけるに、彼の森に行き尽きて、
あひ見ずして死ににけり。これによりてあはでの森とは名つけけり。さてその国ををはりといふは、
終(をはり)と書きてけるを、尾張とは注すなり。
以上「あはでのもり」の伝承に、三種の挿話を引用しましたが、いずれにしても、人が思う人に
会えなかった事に由来しての「会わで」すなわち「会えないで」の言葉を振り当てた話と思われます。
因みに、後年の江戸時代には、滝沢馬琴もこの杜のことを記しているようです。

(左)「阿波手の杜・藪香物の図」(尾張名所図絵・巻七より)(右)現在のご神木
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<萱津神社>
「阿波手の杜」がある萱津神社は、名古屋市の西隣、愛知県海部郡甚目寺町にあって、日本で
唯一の漬け物神社でもあるのです。
(1)所在地 愛知県海部郡甚目寺町大字上萱津字車屋19番地内 1800坪(下記地図参照方)
(名鉄津島線甚目寺駅下車東へ徒歩20分法界門橋袂・五條川右岸)
御祭神 鹿屋野比売神
(太古民族が沃野を求め、土地を開拓した頃、農耕の神として祭祀されたもので、その後
諸病免除神、縁結び神、さらに本邦唯一の漬物祖神となっている)

(左)名古屋市西部周辺の地図(右)甚目寺町周辺の地図

萱津神社(左)参道正面の鳥居(右)香物殿

萱津の惣図 尾張八景 萱津夜雨(手前・五條川、右端上萱津村、左端下萱津村の全景を描く)
(2)萱津神社の由来と漬け物の起源(「漬け物祖神・ゑんむすびの神」萱津神社資料より)
当社は、その昔、草ノ社(かやのやしろ)または、種の社(くさのやしろ)といわれ、和歌で
知られた「阿波手の杜」(あわでのもり)(参考メモ・その1参照)に鎮座する社として祀られて
いたもの。
その後、土地の人々が神前に瓜、茄子、大根などの野菜をお供えしました。当地は、昔、海浜で
あったので、海から摂れる塩とこれらの野菜もお供えしたところ、ほどよい塩漬けになり、人々は
神からの賜物と頂き、万病を治すお守りとしても、人々に重宝がられました。漬け物の始まりです。
景行天皇御子日本武尊御東征の道すがら、当社を参拝し、村人が献上した漬け物を
「藪二神物」(参考メモ・その2参照)とめづらしがられたという。
それ以来、漬け物は広く知れ渡り、のちの「香の物」になったとのこと。
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<藪に香の物>
(1)ことわざ「藪に香の物」の由来について
漬け物の神様「萱津神社」のあたりには、昔からの歌枕「尾張の阿波手の森」があり、そこに
大きな「かめ」が埋まっており、ここを往来する商人たちは、熱田神宮へのお供え物として瓜、
茄子、あるいは塩をその「かめ」に投げ入れる習慣があったという。瓜茄子商人が供物せずに
通ろうとすると荷物が重くなって動けなくなったという。そのため、瓶の中では、塩加減のいい
漬け物ができ、よって二月の初午その他に熱田神宮の神膳に供えたという。こうして当地が
「香の物」の発祥地となったと。
おなじ様な伝承を別の資料(林英夫編「日本名所風俗図会6/東海の巻」角川書店
(昭和59年10月))に次のように名所案内されています。
「むかし萱津の里に市ありし時、近里の農夫、瓜・なすび・大根の類の初めなりを、熱田宮へ
奉らんとせしかども、道遠ければ、阿波手の森の竹林の中に瓶を置き(今もなほその旧姿を存せり)
(引用資料例参照方)、
あらゆる菜蔬(さいそ)を諸人投げ入れ、塩をも思ひ思ひに撮(つま)み入れなどせしが、自ら
混和して、程よき塩漬けとなりしを、二月・十一月・十二月、彼の社へ奉献せしなり。これを
藪の香の物と名付け、名産とす。・・・・」
(引用資料例)参考として、紹巴(里村)は、「富士見道紀」に次のように書き残しています。
「森の東に反魂香焼跡、また森下に社あり。藪の香の物入り瓶あり。
野分にやあはでの森の初もみぢ(木扁に色の旁)」
因みに、江戸期(寛文十一年・1671)の俳楷書に、清水春流著「藪香物」という題名ありという。
(引用資料:平凡社「大辞典」24より)

「竹藪に置かれた漬け込みの瓶」(東海道名所図絵より)
(2)ことわざ「藪に功の者」の由来について
この諺は、”藪医者の中にも巧者がいる”ということで、言い換えれば「大したことはないと
思っていた者の中に、案外使える者が混じっていること”ということになります。
また「野夫に剛の者」という言い方でやはり、”田舎者の中にも豪傑がいる”という譬えに
使われるという。この譬えの出典ははっきりしていて、諸葛孔明が司馬仲達に「あにしらんや
野夫に功者有るなり」(三国志)と言ったことに由来しているという。
なおこの参考資料では、「阿波手の森の竹林の漬け物」に関しては、次のように言及しています。
「熱田神社に神供として供える香の物を名古屋市の西郊にある阿波手の森という所の
竹林の中で漬けるが、藪の中の桶に、茄子・瓜・大根などを入れておくと、自然に良く
漬かるという言い伝えがあって、それから生じたことわざというが、諺が前にあっての
付会であろう。・・・」
(引用資料:鈴木棠三(とうぞう)著「新編故事ことわざ辞典」創拓社(1992年8月)
(3)特殊神事「香の物祭」(漬け込み神事)と熱田神宮への奉献
毎年8月21日に漬け物祭礼が行われ、各地から漬け物業者(近年組織された「漬け物祖神萱津
神社奉賛会」会員2000人)が集まり、漬け物や大根などの野菜が奉納され、本殿での祭礼の後、
「香の物殿」に供えられた 瓶に野菜を漬け込む儀式が神官や参拝者によって進められます。
現在この神事は、昭和60年に町無形民族文化財に指定されています。
また、8月21日は、「漬け物の日」だそうです。
(全日本漬物協同組合連合会事務局のホームページより)
日本武尊が熱田神宮に鎮座された後、当地の人々は縁の深い「香の物」をお供えしたという。以来
恒例の神事となり、二千年近くに渡って、熱田神宮の元旦祭ほかの祭礼には特殊神饌として奉献され
ているとのこと。
室町期には、国守萱津頼益が神田を寄進し、江戸期藩主徳川義直は香の物領を献進し、
皇室へは、度々「香の物」が献上されています。近世、大正天皇、昭和天皇ご即位のときも
献上されたという。
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