敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 232 回 *** 第26番・その2 ***
***** 貞信公ー大井御幸と廷臣 *****
目 次
<行幸和歌>
<宇多帝と廷臣連>
<(参考)紅葉の名所>
百人一首・第26番 小倉山峰のもみぢ葉心あらば今ひとたびのみゆき待たなむ
百人一首歌かるた・貞信公画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月)
(左)光琳かるた(右)住吉具慶「百人一首画帖」

古里の紅葉風景(その1)
<行幸和歌>
貞信公の百人一首歌(拾遺集巻十七・雑秋・1128)は、宇多法皇の大井川御幸の時の詠歌です。
拾遺集の詞書きには、次のように附されています。
ー亭子院大井河に御幸ありて、行幸もありぬべき所なりとおほせ給ふに、
ことのよし奏せむと申して 小一条太政大臣
この時の和歌は「大井河行幸和歌」として、その一部分が勅撰和歌集や各歌人の私家集に留められて
いて、紀貫之による仮名序は「古今著聞集」に残されているのです。
(後述の参考メモ「大井河行幸和歌仮名序」参照願います。)
宇多法皇は延喜七年(907)九月十日に、重陽(9月9日)の後朝詩歌御会を催して、当時の文人
を召して漢詩(戸無瀬の眺望九題)を賦せしめられ、併せて当時の和歌文人である紀貫之、凡河内躬恒、
坂上是則、壬生忠岑、藤原伊衡等を召して和歌序を有する公式和歌御会も催されたことで、和歌歴史上
大きな出来事であったとされています。
大和物語第九十九段には、次のように貞信公(太政大臣)の話しを挿入しています。
亭子の帝の御ともに、太政大臣大井につかうまつりたまへるに、もみぢ小倉の山にいろいろ
いとおもしろかりけるを、かぎりなくめで給て、「行幸もあらむにいと興あるところになむ
ありける。かならず奏してせさせたてまつらん」など申し給て、つひに
お(を)ぐらやま峯の紅葉しこころあらばいまひとたびのみゆきまたなむ
となむありける。かくて、かへりたまうて、奏したまひければ、いと興あることなりとてなむ、
大井の行幸といふことはじめたまひける。
因みに大和物語では、第九十七段、第九十八段も貞信公の和歌挿話になっていて、貞信公シリーズに
なっています。
なお紀貫之の「古今著聞集」に残されている仮名序については、既に紀貫之の連載第40回その四
「京の邸宅」において言及していますように、「・・・序詞や対句をふんだんに使い」、その5年
前に編纂なったばかりの「・・・古今和歌集の仮名序そっくり和歌概論を引き合いに出してきて、」
「誇らかに寛平・昌泰・延喜年間の和歌文学を讃えて」いるのです。
目次に戻る

古里の紅葉風景(その2)
<宇多帝と廷臣連>
連載第222回曽禰好忠以来、憂愁の廷臣団として、藤原興風(第225回)、紀友則(第226回
〜第228回)、源宗于(第229回〜230回)などを追ってきましたが、彼らに加わるべき歌人と
しては、百人一首第27番歌人藤原兼輔、第29番歌人凡河内躬恒、第30番歌人壬生忠岑らである
のです。
一方彼らの念頭に絶えずあったのが、廷臣連の一方の勝ち組みとしての摂関家代表である第25番
歌人三条右大臣(藤原定方)であり、当該連載の歌人貞信公・藤原忠平であるわけです。
したがって、百人一首歌に並んでいる歌人も順番に見ますと、第25番、26番の二人の「おとど
歌人」が第27番から以下、37番辺りまでの「憂愁歌人連」を引率していることになります。
貞信公が氏の長者になったのは、延喜九年(909)で、兄の左大臣藤原時平が30代で早世した
後を受けて、次兄の仲平をさしおいて昇格し、以後亡くなる天暦三年(949)まで、なんと40年間
氏の代表であったのです。功成り名を挙げた忠平は、人臣として最高の摂政太政大臣従一位から、
さらに天慶四年(941)関白となり、天暦三年(949)70歳での逝去に際しては、正一位を
追贈され、加えて「貞信公」の諡号を賜下され、信濃国を封ぜらるという、宮廷人としてこれ以上の
待遇はないというほどの恵まれた平安中期の政治家でした。その系譜を辿ってみますと、左大臣実頼
(小野宮流)、右大臣師輔(九條流)へと発展しており、「藤原中興の祖」とされる礎となったのです。
政治面の業績として、兄時平の事業を継いだ形で「延喜格式」を完成させ、法的社会体制の整備を
図った功績はありますが、現実の世相は、承平・天慶の乱(935〜941、平将門、藤原純友などの
乱)にゆれた不安定な中世貴族社会の真っ直中にあったことも事実です。
和歌の分野での功績としては、血族に百人一首歌人が19人も輩出している点が上げられましょう。
ご本人の歌人としての才能よりも、末代の歌人に代詠させているということになりましょう。
ちなみにご本人の歌は後撰集に6首採歌され、拾遺集の1首が百人一首に採られたのです。以下
勅撰和歌集に7首採られ、勅撰歌は計13首のわずかに終わっています。
大和物語に記されている貞信公の挿話を引用してみますと、二首も親族の死(北の方、子息実頼母)
を弔う歌になっているのです。
(その1)第九十七段(北の方一周忌の時の追悼歌)
「 太政大臣の北の方うせたまひて、御はての月(一周忌)になりて、御わざ(法事)などの
ことなどいそがせ給ころ、月のおもしろかりけるに、はしにいでゐたまて、物のいとあはれに
おぼされければ、
かくれにし月はめぐりていでくれどかげにも人はみえずぞありける 」
(その2)第九十八段(亡妻の形見の喪服の歌)
「 同じ太政大臣(忠平)、左の大臣(実頼)の御母(忠平の側室、順子)の菅原の君かくれ
たまひにけるとき、御服(喪に服する)はてたまひにけるころ、・・・(醍醐天皇から
弔慰の禁色が勅許され、)・・・后の宮にまいりたまうて、・・・さてよみたまひける、
ぬぐをのみかなしとおもひし亡き人のかたみの色はまたもありけり
「左大臣の母」の追悼歌ということになりますと、後撰集に採歌されている貞信公の歌にも次の
ようになっています。
ー七月許りに左大臣の母身まかりけるときに、おもひに侍りけるあいだ、后の宮より
萩の花を折りて給へりければ
女郎花かれにし野辺にすむ人はまづさく花をまたでともみず
(後撰集・巻第二十・哀傷歌・1402・太政大臣)
太政大臣の歌には「ふく」(服喪)に関係したものが多いと見えて、後撰集には、さらに兄時平を
追悼する歌もあります。
ー兄のぶく(服喪)にて一条にまかりて
春の夜の夢のうちにもおもひきやきみなきやどをゆきてみむとは
(後撰集・巻第二十・哀傷歌・1388・太政大臣)
(その3)第九十九段(大井河御幸)
そして大和物語第九十九段では、先に言及しましたように、大井河御幸の際の百人一首歌となる
わけです。さてそれに付き従った廷臣連の歌はどうであったか、一例は次のようになっています。
ー大井に紅葉のながるるを見侍りて 壬生忠岑
「いろいろのこの葉ながるる大井河しもは桂のもみぢとや見ん」(拾遺集・巻三・秋・212)
ーおなじ御時、大井に行幸ありて、人々にうたよませさせ給ひけるに つらゆき
「大井河かはべの松に事とはむかかるみゆきやありしむかしも」(拾遺集・巻八・雑上・455)
これらの廷臣連の歌もさることながら、やはり和歌歴史的に意義深いものは、公式和歌御会として
位置づける為の紀貫之による仮名序の存在ではないでしょうか。
(後述の参考メモ「大井河行幸和歌仮名序」参照方)
貫之の古今和歌集編纂の意気込みがそのまま未だ続いていた時期の「意気揚々たる和歌心」の
雄叫びともとれましょう。当時の公式詩歌としての漢詩に勝るとも劣らない和歌の意義を強調して
余りあります。
目次に戻る
<参考メモ事項>
<(参考メモ・その1)大井河行幸和歌仮名序>

古里の紅葉風景(その3)
古今著聞集には、第四七九・亭子院御時大堰川行幸に紀貫之和歌の仮名序を書く事として、次の
挿話を記しています。
亭子院御時、昌泰元年九月十一日、大井川に行幸ありて、紀貫之和歌の仮名序をかけり。
あはれわが君(宇多上皇)の御代、なが月(九月)のここぬか(九日)と昨日いひて、
残れる菊見たまはん、また暮れぬべき秋を惜しみたまはんとて、
<月の>桂のこなた、<春の>梅津より御舟よそひて(装ひて・準備して)、渡し守を召して、
<夕月夜>小倉の山の畔、<行く水の>大井の河辺に御幸し給へば、
<久方の>空には、棚引ける雲もなく、御幸をさぶらひ、ながるる水ぞ、底に濁れる塵なくて、
御心にぞ叶へる。
今御言のりしておほせたまふことは、
秋の水にうかびては、流るる木(の)葉とあやまたれ、
秋の山をみれば、をりひまなき錦とおもほえ、
紅葉の葉のあらしに散りて、漏らぬ雨と聞こえ、菊の花の岸に残れるを、空なる星とおどろき、
霜の鶴河辺に立ちて雲のおるかと疑われ、夕べの猿山の峡に鳴きて、
人の涙を落とし、旅の雁雲路に惑ひて玉札と見え、遊ぶ鴎水にすみて人に馴れたり。
入り江の松幾世経ぬらん、といふことをぞ詠ませたまふ。
我等みじかき心の、この面かの面に惑ひ、拙き言の葉、吹く風の空に乱れつつ、
草の葉の露ともに涙落ち、岩波とともに喜こぼしき心ぞたちかへる。
この言の葉、世の末まで残り、今を昔にくらべて、後の今日をきかん人、
海士のたくなわ繰り返し、偲ぶ草の偲ばざらめや。
太政大臣 貞信公
小倉山紅葉の色も心あらば今ひとたびの御幸またなん
躬恒
わびしらにましらななきそ足引きの山のかひあるけふにやはあらぬ
この行幸の年紀ならびに歌仙等の事、かたがたおぼつかなし。こまかにたづねてしるべし。
<(参考メモ・その2)紅葉の名所>

古里の紅葉風景(その4)
十世紀初め、900年前後の紅葉の名所は、「古今著聞集」中の貞信公の挿話より、嵯峨野大井川
周辺の小倉山周辺であったことが解ります。三代集における「紅葉」の歌枕を抜き出してみました。
************ 古今和歌集 巻第五 秋下 ***********
(1)神奈備山 254番(読人不知) 300番(清原深養父)
(2)音羽山 256番(紀貫之)
(3)守山 260番(紀貫之)
(4)笠取山 261番(在原元方) 263番(壬生忠岑)
(5)佐保山 265番(紀友則) 266番(読人不知) 267番(坂上是則)
(6)竜田川 283番(読人不知) 284番(読人不知) 294番(在原業平)
302番(坂上是則) 311番(紀貫之)
(7)三室山 296番(壬生忠岑)
(8)北山 297番(紀貫之) 309番(素性法師)
(9)小野 299番(紀貫之)
(10)志賀山 303番(春道列樹)
*********** 後撰和歌集 巻第七 秋下 **************
(1)佐保山 366番(読人不知)
(2)石上 368番(在原元方)
(3)竜田山 376番(読人不知) 377番(読人不知) 378番(読人不知)
382番(紀友則) 383番(読人不知) 385番(紀貫之)
386番(紀貫之) 389番(読人不知)
(4)竜田川 413番(読人不知) 414番(紀貫之)
(4)入佐山 379番(源宗于)
(5)守山 384番(紀貫之)
(6)妹背山 380番(読人不知)
(7)葛城山 391番(紀貫之)
(8)鏡山 393番(素性法師) 405番(紀貫之)
(9)宇治山 440番(ちかぬが女)
************* 拾遺和歌集 巻三 秋 **************
(1)佐保川 186番(壬生忠岑) 193番(恵慶法師)
(2)三室山 188番(曽禰好忠)
(3)小倉山 195番(大中臣能宣) *1128番(巻十七・雑秋・小一条太政大臣)
(4)大井川 197番(健守法師) 200番(源延光) 212番(壬生忠岑)
(5)長等山 198番(源順)
(6)東山 199番(恵慶法師)
(7)竹生島 203番(法橋観教)
(8)粟田山 204番(恵慶法師)
(9)嵐山 210番(藤原公任)
以上三代集の範囲で「紅葉の名所」を見るかぎり、平城京周辺の「佐保地区」が挙げられましょう。
貞信公が詠んだ小倉山や大井川は、拾遺集に初めて歌われていることになります。
因みに平成に紅葉の名所は、次のような所が挙げられましょう。
(その1)京都周辺 毘沙門堂、宇治川、東福寺、清水寺、高台寺、永観堂、下鴨神社
京都府立植物園、上賀茂神社、八瀬地区、岩倉実相院、貴船地区
三千院門跡、高雄山神護寺、知恩院、城南宮、妙心寺、嵐山
天竜寺、常寂光寺、宝筐院、二尊院、清滝、保津峡、光明寺


光明寺の紅葉風景あちこち
(その2)奈良周辺 笠置山、浄瑠璃寺、奈良公園、正暦寺、長岳寺、談山神社、
長谷寺、竜田川

白毫寺境内の紅葉風景
千年に渡って「紅葉の名所」の名を継いでいるところは、宇治川、嵐山、天竜寺、常寂光寺、
二尊院、保津峡、竜田川などと言うことになります。紅葉する樹木の種類や環境は変遷を重ねて
きていることでしょう。
また、紅葉を鑑賞する人々の集団も変わってきました。嘗ては王侯貴族の時節の行動であったものが、
現今、一般庶民がこぞって頻りに足を運ぶような「観光」の対象となり、時節の移り変わりを
しみじみと体感するといった心のゆとりは乏しいものになりつつあります。
肝腎の小倉山の紅葉風景写真が手元になく、若干目線を小倉山の南に逸らして、嵐山と大井川の
「紅葉の風景」と「桜の風景」にて、我慢願います。

大井川と嵐山の春の景色
目次に戻る
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第二六話ー行幸と国際親善ー
併せて御覧願います。
平成17年7月25日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。