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宗于集は40首からなるささやかな私家集です。それがすなわち宗于は生涯でたったの40首しか 和歌を読まなかったということになりませんが、後世の関係者が古今集その他あちらこちらから 宗于の詠歌を寄せ集めると、40首になったということでしょう。 この40首の中で読まれている歌枕で最も多いのは「山」で、次の六山になります。何故宗于が 山に拘ったのかは定かではありませんが、六山が八首の歌に詠まれているのです。 「さよの中山」(小夜の中山)1番歌 :静岡県小笠郡と掛川市の間にある峠 「かさとり山」(笠取山) 17・18番歌:京都府宇治市北東部の山。 「いるさの山」(入佐の山) 23番歌 :兵庫県出石郡出石町の此隅山説が有力。 「ふじのね」 (富士の嶺) 26・32番歌:静岡県・山梨県に跨る富士山。 「いもせの山」(妹背の山) 27番歌 :和歌山県伊都郡かつらぎ町にある二つの山。 「あふさか山」(逢坂山) 28番歌 :滋賀県と京都府の間にある峠。 これらの六山のうち、宗于朝臣が実地に見分したり、踏破した山は「あふさか山」のみではないかと 想像するところです。「さよの中山」「ふじのね」は参河権守在任時、「かさとり山」は伊勢権守 赴任時、「いるさの山」は丹波権守在任時、その時々に見聞きする機会があったのでしょうか。 「いもせの山」は単なる歌枕に終わっているのではないかと思われます。 なお、それぞれの山については、これまでの連載に於いて次のように言及しました。 「あふさか山」:「蝉丸」の連載(第143回 逢坂の関) 「ふじのね」 :「山部赤人」の連載(第177回、178回 富士の高嶺) 「いもせの山」:「柿本人麻呂」の連載(第172回 歌集の紀伊) 因みに「さよの中山」「いるさの山」は次の歌に言及されています。 「さよの中山」:「西行法師」詠の和歌「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山」 「いるさの山」:「梓弓入佐の山は秋霧の当たる毎にや色まさるらむ」(後撰集・秋下) また、「かさとりやま」は、京の都からわずかに10kmほど、宇治橋から約6kmの近接地に なっています。すなわち逢坂関南にある音羽山南麓峰続きになり標高200mですから、宇治市街地 の温度と比較しても大凡2〜3度低いという山里となります。周囲の環境としては、山科・醍醐寺 裏山になる醍醐山とその南東に位置する岩間寺の岩間山(標高433m)の間に挟まれた「山里」 地域で、宇治川に流れ込んでいる笠取川を抱えている地区になります。一説に、「かさとりやま」は 醍醐寺の霊峰である醍醐山そのものではないかと推定されています。 宗于の百人一首歌は「冬の山里」を詠んでいますが、この「かさとりやま」の環境こそ、この歌に 相応しいところではないでしょうか。「笠取の山里」は一時期ほどほどの村落であった(笠取小学校 創立明治6年)ものの、近年過疎化の波(地区住民約200名)がこの山里にも押し寄せて、宇治市の 「特別過疎化地区」の指定を受けているようです。
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名勝笠取八景(昭和30年代初期制定) 地区農業青年団有志による (笠取小学校創立百十周年記念誌より) 笠取山(379m)山麓・笠取川沿岸の笠取の里 横峰の展望 宝けん塔の時雨 清滝宮の月見 御旅の青楓 御霊の瀧 毘沙門峡の清流 岩分 夕映えの一本杉 |
![]() 岩分の岩壁 |
「宗于集」の最後に挿入されている三対の歌の応答は、宗于と紀貫之との間のものです。いずれの 歌も「すこしの間でも会わないと寂しいですね。」という遣り取りで、二人の親しさが滲み出ている 友人世界を表しています。 なぜ友人である二人が、いつも会いたいときに会えないのかと想像しますに、両人とも同じ時期に 同じ都に在住していなかったということによるのでしょう。貫之が地方に下ったのは、かの土佐守と しての延長八年(930)〜承平五年(935)の官歴以外は殆ど都に留まっていたようですが、 一方の宗于の方が寛平六年(894)〜承平三年(933)の間、丹波・摂津・三河・相模・摂津・ 信濃・伊勢と地方周りしていたわけですから、晩年一緒に都にいたのは、承平五年(935)から 宗于が亡くなる天慶二年(939)のたったの4年間だけということになります。 二人の友人関係成立の時期を想像しますに、二人の若いとき、すなわち元慶・仁和年間(880年代) から寛平六年(894)までに昵懇になり、これから一層親密に交遊しようと思っていたところ、 宮仕えの都合上、離ればなれになって、ますます、お互いが会いたくなっていったのではないかと おもわれます。 年長者と若年者という関係ではないと思われる二人の和歌のやりとりですから、多分に同年に近い 二人ではなかったかと想像します。二人の生没年は次のように比較できます。 紀貫之 貞観十年頃(868)〜天慶八年頃(945)(77歳) 源宗于 (不詳・貞観年間か)〜天慶二年(939) ですから、源宗于の没年を60歳〜70歳としますと、貞観十一年(869)〜元慶三年(879) 頃の生まれということになります。いずれにしても紀貫之とはあまり年齢に差がなかったと想定して のことです。因みに「大和物語」(第39段)に言及されている源正明(みなもとただあきら)は (893〜958)ですから、14〜24歳年下の弟ということになります。 次に挙げる宗于の桜の花の歌は、貫之の百人一首歌であるかの梅の花の歌に似通っていて、いずれも 「むかし」の「ふるさと」を重要な歌詞にしているのです。お互いにそれぞれの和歌に注意していた のかもしれません。 「きてみれど心もゆかずふるさとのむかしながらの花はちれども」(大和物語・第80段) 因みに宗于は「山里」という歌詞がお気に入りであったと見えて、百人一首歌以外に「大和物語」 でも、「山里」の歌を詠んでいます。 「しぐれのみふる 山里 の木の下はおる人からやもりすぎぬらむ」(大和物語・第32段)目次に戻る
(1)人間関係・家族関係 「大和物語」中の宗于歌の詞書きを追っていきますと、次のような人間関係が記されています。 宗于からの贈歌 (イ)監の命婦(げんのみょうぶ)へ 「よそながらおもひしよりも夏の夜の見果てぬ夢ぞはかなかりける」(第31話) (ロ)人のむすめへの後朝の歌として 「さもこそはみねの嵐はあらからめなびきし枝をうらみてぞ来し」(第63話) (ハ)うなゐへの贈歌 「しら露の置くを待つ間のあさがほはみずぞなかなかあるべかりける」(第39話) 女からのかへし (ニ)女より 「いろぞとはおもほえずともこの花にときにつけつつ思ひいでなむ」(第34話) 家族の詠歌としては、 (イ)宗于の君・三郎の「おもひける友達」のもとへよみおこせたり 「しをりしてゆく旅なれどかりそめの命しらねばかへりしもせじ」(第54話) (ロ)宗于の君のむすめ 「わがのりしことをうしとやきえにけむ草にかかれる露の命は」(第109話) (ハ)閑院のおほい君(宗于のむすめ) 「むかしよりおもふこころはありそ海の浜のまさごはかずもしられず」(第118話) (2)草花の関係 (イ)「右京の大夫宗于」の「菊物語」 「大和物語」(岩波書店「日本古典文学大系」9)中の菊に関する部分は、付載説話二の 次のような「菊三話」の章段です。 (その1)菊泥棒のはなし 「右京の大夫宗于の君の家には、前栽をなんいたう好みてつくりける。女郎花 菊などあり。この男のもとへ行きたりける間をうかがひて、・・・・・ ・・・もし取る人もやあるとうかがはせけるに、一夜二夜来ざりければ、 たゆみてまもらざりける間にぞとりてける。口惜しく・・・・」 (その2)宇多法皇への菊献花 「そのたてまつらん菊に名付けて参らずば、納めたまはじ」と仰せられければ、 ・・・菊など調じて奉りける。 時雨ふる時ぞ折りける菊の花うつろふからに色のまされば (その3)国経大納言への献歌 「・・・この男の許に、国経の大納言のもとより、・・・御文をぞ給へりける。 御返事きこゆとて、おもしろき菊につけたりければ、・・・・」 (ロ)武蔵野の草(「大和物語」第三十二話(前半)) 「亭子の帝に、右京の大夫のよみてたてまつりたりける、 『あはれてふ人もあるべくむさしのの草とだにこそ生ふべかりけれ』」 この歌の本歌は次の歌とされます。 「紫のひともとゆゑに武蔵野の草はみながらあはれとぞみる」 (古今集・巻17・雑歌上・867) (馴染みの紫草が一本生えていることで武蔵野の草はすべてなつかしく心惹かれる) 問題は「武蔵野の草」が何を意味しているのか、その歌詞に何を託しているのか、 「あはれ」といってくれる「人」がだれなのか、でしょう。 「武蔵野の紫草」の意味は、源宗于という光孝天皇の直系で「紫色」の皇孫ということで、 その官人が臣下に下ったとはいえ、官位に恵まれず鬱屈している状態であるので、それを 見かねて、何とか亭子院から恩義をかけてほしい、ということのようです。目次に戻る
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