敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 229 回 *** 第28番・その1 ***
***** 源宗于朝臣ーなりいづべきほど *****
目 次
<不遇愁訴歌人連>
<憂愁の松>
<丹波権守>
百人一首・第28番 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば
百人一首歌かるた・源宗于画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首図絵」(田山敬儀国文学研究資料館)
(左)源宗于画(部分)(右)光琳かるた
<不遇愁訴歌人連>
連載第222回曽禰好忠より、中世官人世界で不遇の官歴を背負った職業歌人群を追ってきました。
曽禰好忠であり、藤原興風であり、さらには紀友則に至り、続いてその系列の極め付けは
光孝天皇の孫でありながら、正四位下右京大夫で終わった源宗于ということになりましょう。彼と
親交のあった紀貫之も同様の「不遇を託つ官人にして歌人」であったあったことを思い出しますと、
「同類相哀れむ」充たされぬ境遇の官人があちらこちらに群れていたことになるわけです。
あからさまに身の不遇を口にして、官位の厚遇を訴え続けた中世歌人としての官人は、紀貫之
(第35番)、藤原興風(第34番)、紀友則(第33番)、壬生忠岑(第30番)、凡河内躬恒
(29番)、源宗于(第28番)、そして中納言兼輔(第27番)と綿々と連なっています。
もし彼らに、不遇を訴えるための、またそれらの不満処理としての自慰行為のような和歌の世界が
なかったら如何に気詰まりな人生だったことでしょうか。この点から、本当に「学芸力」のもてる
「文化的官人」であった藤原兼輔や紀貫之は、「やまとうた」に救われて、何とかその人生を全う
する事が出来たと見なければなりません。紀貫之は古今集に自白しているとおりです。
「やまと歌は、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」
「・・・たけきもののふの心をも慰むるは歌なり。」
これは、彼の実感でしょう。彼の「心の種」とは、「頭痛の種」で、「憂愁の身の上」のこと。
それが「やまと歌」となると「松」という「よろづの言の葉」に変化するのです。
(詳細は次回第230回連載「源宗于ー宗于集の世界」参照方)
これらの不遇愁訴歌人群の先頭に、でんと鎮座しているのが、官人世界の勝ち組みの筆頭連です。
貞信公(藤原忠平)と三条右大臣(藤原定方)の摂関家群像です。
もっとも「権中納言」まで昇り詰めた、かの藤原定家でさえ「これ託ちは人生!」とばかりに、
「ひまさえあれば」いや「筆の隙間さえあれば」「託つことに相当の勢力」を割く日々の連続で、
「憂愁の松」を毎日眺めていたのですから、本当に「松の色」の六位や七位以下の低位に沈滞して
いた宗于ならずとも、興風ほかの官人が嘆かないですむはずがありません。
しかし、千年経って「やまと歌」の効用を評価してみますと、紀貫之が評言したように、
「・・・天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女の中をもやはらげ、・・・」
というだけではなく、民族の心を伝承し、歴史を記録する役目までするのです。思えば、藤原忠平や
定方らは貴族政治史上に業績ではなく、単に名を残していますが、残念ながら日本文化史上では
名前は埋没しています。それに引き替え、彼らより何倍も何十倍も日本文化史上で光り輝いている
のは、紀貫之であり、紫式部にあやかれるその御先祖藤原兼輔であるのです。
さらに言い方を変えますと、当連載の主人公・源宗于朝臣も、「やまと歌」がなければ、また
「百人一首」という文芸がなければ、歴史の底に埋没して、霞んでいたはずです。それが千年以上
後世の平成の世界でも、このように「敷島随想」という些細な世界にまで、顔を出し得ているのです。
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<憂愁の松>
第225回藤原興風ー憂愁の松の個所で言及しましたように、興風は百人一首歌の「高砂の松」を
「自らの官位である六位という卑官の色」とほのめかしていました。
そういう観点から宗于の百人一首歌をみますと、この歌も「松の緑」とは言ってはいないものの
裏を返せば「冬でも枯れない松の緑」さえも見つからないで、「都ではない」「鄙の山里」には、
「(官位を上げてくれる)人目も(松も含めた)草も」「かれ(離れ)(枯れ)」て「さびしい」と
詠んだわけです。
私家集「宗于集」に「松の緑」の歌がないかといいますと、実は一首あるのです。
「ときはなる松のみどりも春来ればいまひとしほの色まさりけり」
(宗于集・9番歌)(古今集・巻一・春上・24番歌)
この歌は一見松の緑の「不変性を愛でている」ようですが、「松の緑」が「卑官の色」を指している
と考えますと、なんとも皮肉な詠みに変わってしまいます。つまり、来る春も来る春も、首を長くして
待っている「六位からの昇進」の声がかからないで、ますます「六位の緑の色が濃くなる」ばかりで、
いっこうに「卑官の不遇」が改善されない「物憂い春であることよ」ということになります。
「大和物語」に、宗于朝臣は約10話ほどに語られているところですが、いずれの挿話にも和歌が
引用されていて、その中にも「憂愁の松」の類の歌があるのです。それは「大和物語」第三十話に
次のような詞書きと和歌からなっています。
***************************************
「故右京の大夫宗于の君、【なりいづべき】ほどにわが身の《えなりいでぬ》ことと
おもふたまひけるころをひ、亭子の帝に紀の国より石つきたる海松をなむ
たてまつりけるを題にて、人々うたよみけるに、右京の大夫、
『おきつかぜふけゐの浦にたつなみのなごりにさへや我はしづまむ』」
***************************************
この歌は大変凝っています。それは、「我が身の」「えなりいでぬこと」に悶々としている気持ちの
現れでもあるようです。
「おきつかぜ」ー沖を吹く風、と言う出だしですが、暗に「おきつ」とは「掟つ」つまり、
取りはからう、待遇する、(官位を挙げてもらうことなど)を匂わせて
いるようです。
「ふけゐの浦」ー和泉国泉南郡深日村の浦、あるいは、紀伊国吹上の浜とも。「ふけゐ」の地名
ずばりでは、前者かもしれませんが、詞書からしますと、「紀の国」の後者と
いうことになります。

紀伊国吹上浜(角川書店「日本名所図絵・紀伊国名所図会巻一之下」(昭和60年8月))
場所はともかく、「おきつかぜ」が「ふく」「ふけゐ」の
浦ということでしょうか。紀の国にこだわるならば、「おきつかぜ吹上げ浜に」
としてもいいところですが、敢えて「ふけ」「ゐ」を用いているところに潜在的な
「位」(ゐ)への拘りがあるのでは。さらに「更け位」とは、「年をとった位」
「年老いた位」と成りそうです。
「たつなみ」 ー官位を上げてもらうための猟官運動か。また、「立つ波」も「経つなみ」で、
「年老えてできたはだのしわ」とまで婉曲解釈すると、宗于朝臣に「考えすぎ」と
言われそうですが、「たつ」も「断つ、絶つ」であり、「なみ」は「無み」
などを思い出します。
「なごり」 ーおこぼれ、おすそわけ、とまでいいますと、こじつけすぎでしょうが。
「しづまむ」 ーこれが云いたかったのですね。やはり「吹き上げの浜」では、歌詞として相応しく
なく、「ふけゐ」に停滞していないと「ふかく」「しづむ」感じが出ません。
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<丹波権守>
官人としての不遇を嘆き続けた源宗于朝臣の官歴は、どのようなものだったのでしょうか。
光孝天皇の皇子・是忠親王を父として生まれ、宇多朝(887〜897)醍醐朝(897〜930)に
歌人(三十六歌仙の一人)として生きた人物です。
寛平六年(894)従四位下となり、源姓を賜下されて臣籍に下り、以降、次の各国の官職をこなし、
天慶二年(939)正四位下に上がり、同年没しています。
丹波権守、摂津権守、兵部大輔、右馬頭、三河権守、相模権守、摂津権守、信濃権守、伊勢権守
そして、大和物語などに言及されている「右京大夫」(従四位下相当)になったのは、天慶二年
(939)で、その年に亡くなっています。
一国の任期が四年としまして、七カ国ですから、地方周りだけでも、28年間ほぼ人生の半分以上を
五上国(丹波、摂津、三河、相模、信濃)と一大国(伊勢)の権守として費やしています。典型的な
地方官僚(受領層)の人生であったことになります。
以下に初任地である王城の地平安京隣国・丹波国府を探訪して宗于朝臣の眺めた国衙風景を見て
みましょう。因みに、後年隣国の丹後で、不遇憂愁歌人の丹後掾・曽禰好忠(略して、曽丹後や曽丹)が
務めていたわけですが、その先例が更に京に近い丹波国の三等官源宗于で、(略して、宗丹波や宗丹)と
噂されなかっただけでも、出自が物を言ったのでしょう。
「大和物語」には、不遇を託つ掾官宗于の説話が語られていますが、丹波権守に始まる長い長い三等官
人生に飽き飽きしていたことでしょう。
初任地丹波国庁付近を歩きますと、宗于のため息が聞こえてきそうな気がします。丹波国は山城国の
隣国ですから、ほぼ都と同じと考えて良いのでしょうが。

亀岡駅付近の地図
丹波国へは、保津川に沿って渓谷を上っていくJR嵯峨野線と古来の山陰道で「老ノ坂」を越えて行く
国道9号線、さらには近年それに並行して高速道(老ノ坂亀岡道)などがあります。かっての丹波国の
国府は現在の行者山(標高431m)の東麓旧道沿いの平野部に並んでいる寺寺(善随寺など)の北側の
保津川流域平野部に置かれていたと推定されています。現在この流域を縦断している二本の道路によれば
約30分ほどで京都に入ることが出来ますが、嘗ては、大枝関を越えて、老ノ坂を経由して、半日かかりで
丹波入りしていたようです。ただし、上りは一日の行程で考えられていました。

(左)行者山東麓より愛宕山方面を望む(右)善随寺正面
亀岡市の西側で篠山街道沿いの旧道には西国三十三札所・観音巡礼第21番寺院穴太寺(あのおじ)が
あります。
ー丹波国南桑田郡天台宗菩提山穴太寺の聖観世音のご詠歌に唱えるー
「かかるよにうまれあうみのあなうとやおもはでためのとこえひとこえ」
慶雲二年(705)大伴古麻呂が開基と伝えられています。当然、源宗于が赴任した寛平年間でも既に
開創200年の由緒ある寺院であり、2005年で丁度1300年経過したことになります。
丹波国は山陰道にあって山城国の隣国として、重要視されました。その一例として参議等ー等の
歌枕世界で採り上げましたように、宮中行事・大嘗会において、その担当国たる「悠紀国」が山城国の
東隣である近江国であるのに対して、「主基国」が西隣の丹波国とされたのです。
当然、平安時代末期には多くの荘園がたてられたのです。

国分寺址付近より千代川方面の亀岡盆地を望む
保津川(大堰川)を中心にした亀岡盆地の北山際が国府の跡地と推定されており、この国府推定地から
大堰川を越えて、ほぼ東方に、愛宕山の西麓に当たる地に国分寺と国分尼寺の跡が確認されています。
JR嵯峨野線を越えて、大堰川に架かる橋を渡って東方の山裾には、丹波一宮(出雲大神宮)があります。
国幣中社出雲神社の石碑の立っている奥に鳥居と社殿が木の間に望むことができます。この社は丹波
一宮として和銅二年(709)に創建されたので、大堰川右岸国府の南地区で、古代山陰道沿いにある
穴太寺に継ぐ古い建造物になるわけです。この地域の歴史の古さを改めて感じるところです。
出雲神社の南の道を山沿いに下りますと、国分の村落に至ります。大堰川流域より少し高台になって
いる丘陵地が国分寺のあるところです。境内は竹林、桜古木、あるいは樹皮が垂れ下がって乳首のように
なっている銀杏の古木などに囲まれて僅かに小さい鐘楼や本堂が残っているのみです。
山門脇の土手の奥には嘗て壮大な塔が建っていたと思われる礎が雑草に隠れそうになって残っています。
古代律令制時代の社会から、この丹波国の人々の生活に少なからず関係してきた大堰川(保津川)は、
今もその流れを変えることなく、現在でもこの地域の人々にとって重要な環境の一つとして地域の生命を
支えています。
近年丹波から山城へぬける保津渓谷が人々の観光人気を集めています。亀岡市郊外の保津川の川縁より
保津川下りの筏船が観光手段となって、あるいは、保津川沿いの旧国鉄線路を箱形のトロッコ列車を走らせ
渓谷美を鑑賞させてくれるのです。時代の移り変わりとともに、保津川は地域の人々との関わり方も変化
させてきたのです。

(左)丹波一宮(出雲大神宮)参道(右)国分寺の山門

(左)国分寺鐘楼跡の礎(右)垂乳の大公孫樹
この地域は京の隣国というよりも、現在では、住宅開発の進みにより京の生活圏に組み込まれつつあり、
工場の進出とともに、更に都市化が進んでいくことが予想されます。京都から北西の日本海へ向かって
道路の整備が進み、嘗ての山陰道は現代社会における物流の道筋として、丹波国、更に丹後国、それに
続く山陰道の国々の地位と活動様式を変えていくことになるでしょう。
嘗ての国府は大地に戻り、国分寺も一宮も少しづつ山裾の里に置き去りにされながら、丹波国は
都圏化していくのでしょう。
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