敷 島 随 想
[連 載] 第22回 ***第24番・その5***
*****菅家ー都の縁りの地*****
菅公にとって59年の生涯の中その大半を過ごした京の都における
次の縁りの土地をたづねてみましょう。年齢を逆に遡ることになりますが。
(1)北野天満宮:左遷地の太宰府に没後、祭神となったところ。
(2)菅大臣神社:菅原道真公旧邸宅址
(3)菅原院址:父参議菅原是善の第宅跡地
(4)吉祥天満宮:菅公の生誕地
さらには公的な関係場所としては、宮廷の大内裏ということになります。
以下(1)〜(4)の順に追って行きます。
(1)北野天満宮
全国各地にその数約一万社といわれる”天神さん”の総本社が京都北野の
天満宮で、その祭神は言わずとしれた菅家・菅原道真公です。菅家は今や
学問の神様として崇められていますので、日本人は誰でも小さい頃から関わり
を持つ最も身近な神社と言えましょう。
ちなみに学問の神となったのは、江戸時代からといわれており、それまで
は、太宰府へ左遷され無念の恨みを藤原時平以下関係者への呪いの鬼神となっ
ていたのです。従って没後約800年ほど経って初めて天国の神に昇格出来た
わけです。
もともと学問の家に育った菅原道真は、政争の達人ではなく、文章博士で
あったわけですから、学問の神様にもともと成るべくして成ったわけで、道真
公も天国で満足の体でしょう。
公が太宰府に流されたのは901年(延喜元年)で、二年後太宰府で、傷
心のまま亡くなり、その7年後政敵の藤原時平及びその関係者が次々と呪い
殺されたために、ついにその怨霊を慰めるために、947年に北野天神社が創
建されたのです。
北野天満宮は、西大路通りと現在京都御所北側を通っている今出川通り交
差点の少し東北方向に位置しているため、現在の京都都心からは離れた場所に
なってしまいますが、昔の平安京では、大内裏の北側に隣接していたわけです
。従って大内裏からは、賀茂の社よりも近いわけですから、平安京の守護神と
いうより、大内裏の守り神のような役目を担っていたのかもしれません。
当社を初めて詣でた天皇は一条天皇で、永延元年(987)、菅公没後
84年目にして、勅祭が行われ、これ以来宣命により「北野天満宮大神」と
称されました。さらに寛弘元年(1004)北野祭を官祭とされ、贈太政大臣
菅原道真公を尊崇するに到りました。
なお相殿神として、長子の菅原高視卿を中将殿、正室を吉祥女としていま
す。
創建後640年経った天正15年(1587)豊臣秀吉が、天満宮の近く
で、大茶会を催しています。また毎年2月25日の命日には梅花祭が催されて
います。
神社参道の西側は梅園になっています。藤原氏族ほどには大権力者でなか
っただけに源義経同様、日本人好みの人物として日本人の心の中に生き続けて
いくでしょう。
現在の社殿は、大茶会を催した豊臣秀吉の遺命によりその後継者である豊
臣秀頼が片桐且元に命じて慶長12年(1607)建立させたもので、約40
0年経ち、国宝及び重要文化財に指定されています。
(2)菅大臣神社
菅公の旧邸跡地は菅神社になっています。
阪急電車烏丸駅を下車して新町通りを南下し、仏光寺通りと高辻通りを
西にとりますと、菅神社に到ります。
菅神社の正門と正面は、西洞院通りに面していて、石の鳥居がビルとビ
ルの谷間に顔を出して参詣の道を造っています。
右大臣の邸宅としては、現在の菅神社の境内の十数倍はあったものと考え
られますが、今は民家とビルの間に挟まって僅かに西、北、南面の大路に鳥居
の幅だけの道を覗かせているだけです。
菅公が太宰府に去っていくと共にこの旧邸も寂れていったのでしょう。
跡に残った僅かな思いを留めたいかのように土地の人々が神社として確保した
のでしょう。
菅公は時代が下るに従ってその人物像は神格化され、神へ神へと押し上
げられていったのです。人間としての菅公の遺物よりも神としての天満宮での
菅公の方が人々の心の中には持ちやすかったのかもしれません。
菅公旧邸は朱雀大路や大内裏に比較的近い四条と五条(旧五条通、現在の
松原通)の間に位置しているわけで、住所位置は位の高さに関係するのでし
ょうか。
現在、西洞院通りを南へ下ると近くには五条天神宮があり、さらに南下し
ますと、東本願寺と西本願寺の中間にある燕庵庭園の前に到ります。つまりJ
R京都駅前です。
逆に北に上がりますと、京都で一番賑わっている四条通に近く、現代の繁
華街に到ります。
菅公の旧邸は公無き後1100年経っても京都の中心地であり続けている
ことが分かります。菅公の魂が京の町を護り、繁栄を記念し続けているからなのでしょうか。
(3)菅原院跡
菅公の「御誕生旧跡」が現在の京都御苑の近く京都市上京区堀松町にあり
ます。京都御苑の南西地域の下立売御門の前にあります。
この御門前の烏丸通り西側(春日町)に「菅原院天満宮神社」がありま
す。この地は平安京では菅公御誕生の地で、菅公の父菅原是善をはじめとする
菅公一族が邸宅を構えていたところで、平安京街区の通り名で言いますと、一
条三坊十二条に当たり、大内裏と東京極大路(東端)の丁度中間で、且つ大内
裏の南北中間の中御門大路あたりになりましょう。
大内裏へは数坊行けばよいと言う近地点にあります。
西洞院通りに面した「菅大臣神社」は、菅家邸宅(紅梅殿)跡とされて
いますから、実家と居宅とは平安京の三条分ほど離れていたことになります。
なおこの邸宅が菅公没後の後世で、次のように移り変わってゆきました。
長和3年(1014)藤原行成が移転して居住。
長久元年(1044)焼亡(入道中納言源顕基)
康治元年(1143)摂政藤原忠通居所。
(参考)護王神社
<1>菅公縁の地(菅原院)近くに京都遷都に貢献した和気清麻呂公及び
姉に当たる和気の広虫姫(法均尼)を祭神とする護王神社があります。
現在の京都御苑の西側で、もともと高雄神護寺(護王善神)境内にあっ
た遺跡を明治19年(1886)現在の地に移して祭祠しているもの。
<2>和気清麻呂公(733〜799)は、菅家の約100前の人物で、備前
国藤野郡の地方豪族ですが、平城京にある姉(広虫姫)を頼って上京
し、参議従三位まで昇進しました。
摂津職であった清麻呂は、平城京の長岡遷都に尽力したものの、桓武天
皇が頼りにする藤原種継が殺され長岡京は捨てられてしまいます。
代わって平安遷都に重要な役割を演じたのも、清麻呂公であったわけで
す。
796年造宮田大夫に就任し、平安京を完成させました。
清麻呂公に関係深い神護寺は、河内の国からこの真綱が移築し、
当時では最澄や空海も修行することになったことにより日本における
新しい仏教の発祥地とも言えます。
<3>当神社の本殿の守りは狛犬ではなく、猪であるところが非常に興味ある
ところです。伝説では流罪の身の清麻呂を助けたとのことで、祭神の
守りになっているようです。
<4>平成10年11月1日(亥子祭)清麻呂公1200年祭挙行。
(4)吉祥天満宮
菅公の居宅に関係した土地としては、京の都の南西方向に位置し、街区の
南端9条通りよりも南にはずれたところに、吉祥天満宮があります。現在の町
名で、かっての菅公の名残りとしては「菅原町」があることでしょうか。
境内には吉祥院天満宮と吉祥天女(菅公の母)社があります。
天満宮は祭神を菅原道真とする洛陽天満宮25社の一社で、社伝に、菅公
の祖父清公が邸内に一宇を建立し、菅原家氏寺としたのが承平四年(934)
で、朱雀天皇は菅公木像を彫り霊祠したとのことです。現在伝えられている祭
事としては、吉祥院六斎念仏踊り(国重要無形民俗文化財指定)があるようで
す。
菅公御生誕地とも伝えられ、境内には「菅公胞衣塚(かんこうえなづ
か)」も残っています。
<菅家の旅の終わりに>
5回にわたって、菅家縁りの土地を、たづねてきました。
このように京都と没した九州太宰府までの間には道真公が足跡を残した
縁りの地には、点々と天満宮が創建され、千年以上も祀られてきたわけです。
菅家は、殊に江戸時代以降の近世において、日本人の信仰を集めてきたよ
うです。教育熱心な日本民族には、無くてはならない人物であり、日本が島国
を国土として生き続ける限り、他民族以上に学問に力を入れ、考えねば生きて
いけない民族の宿命を担っていくことでしょう。
そのためには学問神がなくてはならないのです。これからの500年、
1000年の間でも道真公の天満宮と天神さんは、忘れ去られることはないでしょう。
平成12年10月20日・磯城島綜藝堂・主筆 謹言
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