敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 217 回  *** 第45番 ***
*****  謙徳公ー一条摂政  *****

目    次
<一条邸> <比叡の南西麓> <史生豊蔭の歌詞世界>

百人一首・第45番 あはれともいふべき人は思ほえで身のいたづらになりぬべきかな



























百人一首歌かるた・謙徳公画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「百人一首」(学習研究社)昭和60年12月
(左)勝川春草筆版画(右)光琳カルタ

<一条邸>

 謙徳公(贈正一位摂政太政大臣藤原伊尹)の邸宅は専門資料(角田文衛監修「平安京提要」
角川書店(平成6年6月))によりますと、次の二ヶ所に推定されるようです。
 それぞれの場所は、現在の京都市街図の上で次のように示すことが出来ます。

京都市街図上に描かれた平安京北辺と左京一条付近
(その1)「一条院」(左京北辺二坊一町)
 この邸宅は平安京の内裏に一番近い北の角地という地理的条件に恵まれたところです。もともと
藤原師輔が所有していたものが子供の伊尹・為光兄弟に継がれ、後々、一条天皇母后・東三条院と
いわれた藤原詮子に渡り、その関係から一条天皇の里内裏となりました。したがって、紫式部が
書き残している日記中の内裏とは、この一条天皇の里内裏のこととされています。

 謙徳公の又の名「一条摂政」の由来になっている邸宅で、左京一条通にあったためです。現在の
大宮通りと堀川通り、および中立売通に囲まれた一画ではないかと推測されています。謙徳公の
一条邸に相当する大宮通と一条通が交差する街区は、民家がひしめき合っており、事務所やマンション
といった現代的なビルディングが混在しています。
 (注)因みに今昔物語巻28の第8話には、「一条の摂政殿のお住まいになった桃園の屋敷は
    今の世尊寺である。」と書かれています。世尊寺は京都市上京区笹屋町通・桝屋町に
    あった藤原行成創建(1003年)とされています。

(右)大宮通と一条通の交差点(左)現在の一条通(如水町辺り)の様子
 大宮通から千本通を中心線として御前通までは、かっての大内裏の跡地と考えられていますから、
謙徳公の邸宅は、大内裏に最も近い場所に位置していたことになります。もっとも現在の一条通は
車一台がかろうじて通れる程度の道幅で、平安京大路の面影はありません。
      
 大宮通から一条通を東へ向かいますと、南北の猪熊通の西側は如水町となっており、黒田如水邸宅
跡の石碑が立っています。黒田如水とは、黒田孝高(よしたか)(1546〜1604)なる安土
桃山時代の武将で、官兵衛を称して、織田信長と豊臣秀吉に仕え、豊前国(12万石)を領し、
関ヶ原の戦いで、徳川に属して、子の長政が福岡52万石に封ぜられています。

 現在の一条通は、四条通や五条通(松原通)が東西に通っているようには、残っていません。所々が
分断され、道が筋違いになっているところや、曲がっているところもあります。
 ところが、幸いなことに、謙徳公の邸宅の東側に、古来、平安京から位置が変動していない遺跡が
現存しています。それは、一条戻り橋とされています。
 「戻り橋」の由来は、千余年前延喜18年(918)、文章博士三善清行という人物の葬儀がこの
橋にさしかかったとき熊野から急を聞いて駆けつけた息子浄蔵貴所が父の蘇生を神仏に祈願したところ
一時的にこの世に甦ったという故実によっています。

 一条戻り橋の橋の袂には、かの源頼光の邸宅がありました。すでに第205回連載・相模ー養父
源頼光で言及しております。 

(右)一条戻り橋(左)堀川第一橋より戻り橋を望む
 現在の一条戻橋は平成7年5月(1995)に改修され、整備されたコンクリート製の橋になって
います。橋の北側は楠の古木や桜の木に囲まれた戻橋公園になっていて、南側は川底がコンクリート
張りになっていて、子供の遊び場のようになっています。堀川の両側、特に、戻り橋の南側は両側とも
高層ビルディングが林立しており、堀川も隠れてしまいそうです。
 今出川通から御池通りまで、河川敷が見える堀川には、10橋以上が架けられていますが、特に
一条戻り橋の南側にある「堀川第一橋」は古風な趣のある石造りの橋です。橋脚は、半円形のアーチ
となっており、橋桁も欄干もすべて、石で造られています。東南の橋柱には、「京都府知事、長谷
信篤、京都府参事槇村正直、建築主任京都府一等出仕中村孝行」と架橋に関係した人物の名前が
刻まれています。
 その南の人道橋は昭和48年8月に架橋されたのです。嘗ての平安京大内裏の構成は、雑多な
庶民の町並みの中に消えて、摂政太政大臣の大邸宅跡も同じく、民家群の下に消えて千年以上経つ
中で、一条戻り橋だけが厳然として、不動の姿勢で、時の流れに耐えてきたという感じがします。
(その2)「花山院」(左京一条四坊三町)
 この邸宅は元太政大臣藤原良房所有の所で、清和天皇皇子(高子の子)貞保親王が受け継ぎ、さらに
太政大臣藤原忠平がら、右大臣師輔へ、さらにその長子の藤原伊尹へと天徳年間に伝領されていった
のです。
 十一世紀初め(長和三年・1014)焼亡してしまいますが、50年後に再建され、藤原師実から
家忠(花山院家)へ伝領され、東一条第(花山院)として花山上皇御所となりました。
 この邸宅の跡地は、現在の京都御苑内の南西地区の一画に当たり、宗像神社が嘗ての小一条院と
されていますから、その前辺りということになります。現在は、京都御苑の庭園の一画にすぎません。

(右)京都御苑内の花山院位置 (左)現在の京都御苑内の配置

(右)京都御苑正門付近(左手に宗像神社あり)(右)花山院跡の桜樹

京都御苑内の宗像神社と神社域外観

宗像神社境内本殿と末社

<比叡の南西麓>

 拾遺和歌集に採られた歌のうち、謙徳公に縁りのところを求めてみますと、次のような歌があり
この歌は既に、連載第214回権中納言敦忠「音羽山山荘」の所で、言及したところです。
 これは敦忠の追悼会における詠みで、次のような詞書きがあります。

 ー中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西坂本に侍りける山里に
  人々まかりて花見侍りけるに   一条摂政
 「いにしへはちるをや人の惜しみけむ花こそいまは昔こふらし」(1279番歌)

 比叡山の西麓、西坂本の地にあった敦忠の別荘には、桜の花が植えられて、主人は日頃花を愛でて
いたのでしょう。主人亡き後、桜は主人を惜しむかのように、また昔を追い求めるように咲いている
ように思えるということなのでしょう。
 今敦忠の別荘の里は、修学院離宮を中心とした未だ世間の雑踏から隔離された京の山里の佇まいを
残しています。
 修学院については既に第192回連載・藤原清輔に於いて
言及いたしました。再び、修学院離宮の遠景と音羽川の流れを引き出しておきます。

(左)修学院離宮遠望(右)音羽川の川筋
 一条摂政の邸宅から敦忠の音羽山荘まで、直線距離にして約10kmあります。一条通を東にとり
鴨川を渡って高野川沿いに北に向かって行き来していたのでしょうか。現在では、大通りを車で走れば
30分ほどで行きつけますが、「伊尹のおとど」の時代には、牛車に乗って、半日かけて移動したの
ではないかと想像します。
 修学院周辺にも住宅開発の波が押し寄せてきているようです。叡山電鉄が出町柳駅で京阪電鉄に
連絡され、ますます洛北のちも交通の便が良くなるともに、風景もすこしづつ変貌していくことに
なるのでしょう。
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<史生豊蔭の歌詞世界>

(その1)「ひと」の詠み
 敷島随想連載シリーズに於いて、連載第200回待賢門院堀河から始まった女流歌人の歌々には、
多くの恋歌を見ました。それに関わっている男性歌人の場合も、第214回の権中納言敦忠から
第215回の参議等の歌へと辿って鑑賞してきましたが、これら一連の歌を通して見られる共通概念
としての「歌詞」は何かと眺め直しますと、それは「ひと」という和歌にとって、とりわけ恋歌には
欠かせない言葉であることがわかります。

 改めて百人一首歌における「ひと」の歌語を抜粋して、詠み込まれた歌数を数え上げてみますと、
なんと次の21首にもなります。

 8番 5句 「人はいふなり」喜撰法師   11番 4句 「人には告げよ」 参議篁
25番 4句 「人に知られで」三条右大臣  28番 4句 「人目も草も」 源宗于朝臣  
34番 2句 「知る人にせむ」藤原興風   35番 1句 「人はいさ」  紀貫之
38番 4句 「人の命の」  右近     39番 5句 「人の恋しき」 参議等
40番 5句 「人の問ふまで」平兼盛    41番 4句 「人知れずこそ」壬生忠見
44番 4句 「人をも身をも」中納言朝忠  45番 2句 「いふべき人は」謙徳公
46番 2句 「渡る船人」  曽祢好忠   47番 4句 「人こそ見えね」恵慶法師
58番 4句 「いでそよ人を」大弐三位   63番 4句 「人づてならで」左京大夫道雅
66番 5句 「知る人もなし」前大僧正行尊 74番 2句 「人を初瀬の」 源俊頼朝臣
92番 4句 「人こそしらね」二条院讃岐  97番 1句 「来ぬ人を」  権中納言定家
99番 1句および2句 「人もをし」「人もうらめし 後鳥羽院

 因みに「ひと」に関係して「われ」「わが」あるいは「君」なども多く読まれたのではないかと
連想されますが、意外に少なく「われ」は7首、「君」は僅かに2首です。
 これによって、如何に「人」という「歌詞」の概念の広さ及び深さを知ることが出来るのです。

 この歌詞を充分に活かして、謙徳公・一条摂政・藤原伊尹も和歌を多くものしています。
 百人一首歌に加えて、彼の私家集「一条摂政集」にも、「ひと」が194首中に32首も詠い
込まれ、色々な概念で「ひと」が活用されています。
 謙徳公の「ひと」の使い方は独特で、百人一首歌の「あはれともいふべきひと」に代表される
「しっかりと恋の相手を見据えた」「ひと」である場合が多いようです。
 私家集中に他の例を探しますと、「ねてゆけといふひともなき」(29番歌)など、百人一首歌
「あはれともいふべきひと」と同じ様な引用の仕方ではないかと思われます。「あはすべきひとも
なきよの」(34番歌)などもその類でしょう。
 「いまはまつはといふひとぞなき」(61番歌)「しるひともなぎさなりける」(124番歌)
などと類似の歌詞の例を数え上げて行きますと、「ひと」が「なし」という怨みの詞に凝縮される
ようです。摂政という「うつつのせかい」のおとどでは、「ひと」が「あまりて」やっかいなくらい
なものだから、文学的空想の「ゆめのせかい」では、全く逆の「ひとなし」に遊ぶということに
なったのでしょうか。


(その2)歌枕「やま」の世界
 「一条摂政集」の歌枕世界を探索しますと、意外に偏った歌詞の引用であることが解ります。
 詠み込まれた歌枕を追ってみますと、「やま」が多く挙げられます。逆にそれ以外の「川」「池」
「野」「寺社」「潟」「海」などを詠み込んだ歌は数えるほどしかありません。
 
 「みよしののやま」(26番)「よしののやま」(67番)ー吉野山
 「すずかやま」  (35番)             ー鈴鹿山
 「うりふやま」  (51番)             ー瓜生山
 「かがみのやま」 (58番)             ー鏡山
 「まつやま」   (64番)             ー末の松山
 「みかさのやま」 (84番)(154番)       ー御笠山
 「をばすてのやま」(181番)            ー姨捨山

 いずれも平安朝和歌世界では典型的な歌枕の「やま」ですが、中でも「瓜生山」は、比較的
採り上げられる機会の少ない「きり」共に詠まれる「やま」ではないでしょうか。しかし、実際に
謙徳公が足を運んだ所はほとんどないのではないかと思います。もっとも吉野山や御笠山は比較的
都に近い旧跡ですから、眺めたかも知れませんが。

  その他、普通名詞的な「やま」の詠み込みに、謙徳公の「やま」という歌詞に込めて「ひと」への
思いを致していた彼の「和歌世界」が出ているように思います。特に最後の三首に思いが明瞭に
詠い込まれているように思われ、印象的です。

 「おくやま」(75番)   ー奥山
 「こいてふやま」(98番) ー恋てふ山
 「はるやま」(158番)  ー春山
 「みやま」(166番)   ー深山
 「おもはぬやま」(184番)ー思はぬ山
 「しらぬやまぢ」(185番)ー知らぬ山路 

 「みやまにはいるやいれどもあゆまれず人のわするるみちをしらねば」(166)
 「みをすててこころのひとりたづぬればおもはぬ山もおもひやるかな」(184)
 「たづねつつかよふ心しふかからばしらぬ山ぢもあらじとぞおもふ」(188)

関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第四五話ーロマン大臣ー
併せて御覧願います。

平成17年4月15日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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