敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 214 回 *** 第43番 ***
***** 権中納言敦忠ー音羽山荘 *****
目 次
<西坂本・音羽川周辺>
<修学院周辺>
<敦忠の追悼会>
<わずか38年の人生>
百人一首・第43番 逢ひみてののちのこころにくらぶれば昔は物を思はざりけり
百人一首歌かるた・権中納言敦忠画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
(左)養朴常信画帳(部分)(右)光琳カルタ
<西坂本・音羽川周辺>
権中納言敦忠は、菅原道真公を意図的に右大臣の位から突き落とし、太宰府へ左遷に追い込んだ
「悪名高く」されたかの藤原時平の子息として生まれた(延喜六年・906)ために菅公の怨念の呪いに
より、短命を予期しつつ従三位権中納言として生涯を終えた(天慶六年・943・38歳)悲しい人生と
なった歌人であったわけです。
命は短かったものの、今昔物語の伝える彼の姿・形・心は、次のように言及されています。
「・・・形、有様、美麗になむありける。人柄もよかりければ、世のおぼえも華やかにてなむ・・・」
と最高の評価を与えられていました。そのため彼を取り巻く貴紳の人々が多かったことが予想されますが、
現に多くの人々(一族の公卿達、同世代の歌人達)が彼を愛し、彼を取り巻いていたようです。
彼自身も多情多感の人物であったために、恋の相手も華麗をきわめたようです。
彼の山荘はその交流の場となり、藤原朝忠や伊勢、中務などが訪れて歌を詠み、それらは拾遺和歌集
などに残されています。
ー権中納言敦忠が西坂本の山荘の滝の岩に書き付け侍りける
「音羽川堰き入れて落す滝つ瀬に人の心の見えもするかな」(巻八・雑上・445・伊勢)
「君がくる宿に絶えせぬ滝の糸はへてみまほしき物にぞありける」(巻八・雑上・446・中務)
ー権中納言の音羽の家にて
「音羽川水はたぎりてながるとも君が宿にはまさりしもせじ」(類従本朝忠集)
彼の山荘はどこにあったのでしょうか。所在場所の研究文献(曾根誠一「藤原敦忠所領小野山荘を
めぐって」解釈・第25巻8号293集(昭和54年8月号))では、次の関連する歌を引用して、山荘の
概要を推測されています。
ー中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西坂本に侍りける山里に、人々まかりて花見侍りけるに
「いにしへは散るをや人の惜しみけむ花こそ今は昔こふらし」
(拾遺集・巻第二十・哀傷・1279)(一条摂政)
ーある大納言比叡坂本に、音羽といふ山の麓にいとをかしき家つくりたりけるに、音羽川を遣り水に
堰入れて滝落としなどしたるを見て、遣り水のつらなる石に書きつく
「音羽川せきれて落とす滝つ瀬に人の心の見えもするかな」(西本願寺本伊勢集)
「・・・「比叡の西坂本に侍りける山里」にあったのである。」
「・・・山荘は「音羽といふ山の麓」にあり、近くを音羽川が流れ著名な音羽の滝があるという、
風光明媚な所にあった。・・・」
「・・・山荘は、庭に音羽川の水を引き込んで、遣り水とし、滝等の趣向を凝らしたものであった。
そして、春は桜・夏は滝等自然の景物に恵まれた、風光明敏所にあった。・・・」
「・・・山荘は、当時かなりの評判をとった風流を極めたものであり、そうした風流を愛好する
貴顕であった点こそ、実像敦忠の本質があったと考えられる。・・・」
と山荘を概説されつつ、その環境を嗜好した敦忠なる貴族の特質に言及されています。
ここに詠まれた「音羽川の滝」とは、和歌に詠まれながら現存しない滝です。
音羽川は比叡山の南西麓の水源を持ち、修学院離宮の南側を流れ、その流れの一部の離宮にも引き
入れられています。この川に沿って嘗て「下の滝」「上の滝」「又ノ滝」なる三段に別れて流れ落ちる滝が
あったと記している資料があり、「滝は高さ約4.5m(二間半)、幅1.8m(一間)」であったという。
現在、音羽川の治水工事によって、これらの滝は昭和50年頃に造成された砂防堰堤のひとつが高さ20m
ほどの滝(上の滝)に変貌しています。もともと音羽川の土質は崩れやすいもので、何度も土砂崩壊を
重ねながら、滝を形成してきたものと思われます。

比叡山西坂本・音羽川流域の地図
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<修学院周辺>
伊勢や中務の歌から敦忠の別荘を想像できる山里を音羽川周辺に探索してみましょう。
叡山電鉄修学院駅で降りて、東の比叡山西麓に向かいますと、まず、鷺森神社に参詣できます。神社の
北側の道を更に山里に近づきますと天台宗の曼殊院が見えてきます。この寺院は延暦年間、最澄の創めた
比叡山中の一宇に始まり、北山へ移設され、さらに明暦二年(1656)現在地へ移転しています。
曼珠院の辺りは、未だ宅地開発の波に洗われておらず、洛東の昔が保存されている地区ではないで
しょうか。とはいえ、敦忠の別荘が在ったと思われる頃からみますと、近世になって修学院離宮はじめ
曼殊院などの寺院も移設される環境変化があり、それ以上に音羽川沿いには地形の変貌が繰り返されて
きたものと思われます。

(左)修学院離宮南縁を西流する音羽川(右)砂防堰堤工事後の現代の「音羽の滝」

(左)鷺森神社参道と鳥居(右)曼殊院山門付近
曼殊院から道を北へとると、音羽川堤に到ります。音羽川は山川とはいいながら京都府による何十年もの
砂防のために河川改修工事が進められ、川の堤や川底はコンクリートとそのブロックで固められ、とても
平安期に貴族の別荘に引き入れられた河川とは思えないような殺風景な川筋に変形してしまっています。
もっとも川筋の両側の風景は昔のままの佇まいで、比叡山頂の修行庵から都の市中にある千本六角堂に
山道を往復した親鸞の頃と変わるところはないと思われます。
改修された音羽川の河川周辺には、公園や遊歩道が整備され、近くの川端道には比叡山山頂へ向かう
雲母坂(きららさか)の登り口にあたり、親鸞記念碑が建立され、往時の偉人を偲ばせます。雲母坂は、
比叡山山頂と平安京市中とを結ぶ最短道筋で、現在では、修学院離宮の東境界に沿って北上し、音羽川の
支流を上流へと伝って行きますと、海抜848mの四明岳に登り詰めることが出来、延暦寺に参詣できます。
現在比叡山に登るには東坂本からケーブルカーが、西坂本からもケーブルカーとロープウェイを繋いで
おり、北や南の山麓からはドライブウェイが通じているので、いとも簡単に参詣できます。最澄や親鸞を
偲ぶにはやはり雲母坂をとって苦労の末、登山すべきなのでしょう。苦労なしに得られる楽しみや喜びは
本当の体験とは言えないのでしょう。雲母坂登り口の石碑には、”・・・きらら坂にしみ込んだ親鸞上人の
汗を感じ取って下さい。偉人が身近に感じられます。・・・”という意味のことを記しています。
音羽川の左岸(北側)は、広大な修学院離宮の地区になっています。音羽川堤から修学院の下御茶屋
(下離宮)およびその森の東側を遠望しますと比叡山の霊峰が間近に迫ってきます。

(左)音羽川堤から修学院離宮と比叡山を遠望する(右)修学院離宮正門
修学院は、平安時代に僧勝算が営んだ寺でその跡地に江戸時代、徳川家光が後水尾天皇のために
別荘を造営したもので、上、中、下の御茶屋(離宮)からなる日本庭園の代表例です。桂川左岸に後水尾
上皇の伯父にあたる桂宮智仁親王によって造営された桂離宮と一対を成す京都を代表する日本庭園になって
います。
修学院離宮関連の連載は、既に百人一首第44番歌人中納言朝忠と、
第84番歌人藤原清輔朝臣の所を参照願います。
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<敦忠の追悼会>
歌仲間の伊勢の詠んだ歌からも想像されるように、音羽山莊には音羽川を堰して引き込んだ水で滝を
造り、池を配して、まさしく現在の修学院離宮を思えばいいような景観であったのでしょう。
しかし、敦忠が没するとともに荒廃したようです。その後江戸初期に修学院や曼殊院の構築を待たねば
ならなかったようです。
彼の没後、縁の人々が山荘に追悼の歌会を催しました。その中には、生前恋の相手の一人として
百首に及ぶ恋歌を交わした雅子内親王を奪い取った後の右大臣藤原師輔(左大臣忠平の次男)の長男
伊尹も参加し、先にも引用した次の歌が拾遺和歌集に残されており、また和歌仲間の一人であったと
思われる藤原兼輔息・清正などが縁りの地「音羽の小野山荘」を訪れて敦忠を偲んでいるのです。
(引用資料:前出の曾根誠一氏論文より)
ー中納言敦忠まかりかくれてのち、比叡の西坂本に侍りける山里に人々まかりて花見侍りけるに
「いにしへはちるをや人の惜しみけむ花こそ今は昔恋ふらし」(巻第二十・哀傷・1279)
一条摂政殿は、花までも敦忠を懐かしんでいますよ、と詠みました。また、後撰集には次の歌も残されて
います。
ー敦忠朝臣身まかりて又の年、かの朝臣のをのなる家見むとて、これかれまかりて物語りし侍ける
ついでによみ侍りける
「君がいにし方やいづれぞ白雲の主なき宿と見るが悲しさ」(巻第二十・哀傷・1417)(清正)
また敦忠の没後(天慶六年・943)、200年以上経って当地を訪れた西行法師も荒廃した山荘を偲んで
います。現在の我々が「音羽の滝」として探索したように、西行法師も敦忠の昔を求めたようです。しかし
現在の音羽川の荒廃同様、西行の時代(12世紀)は、いまだ敦忠の生存年代から200年しか経過して
いない時点であっても、もはや滝の形が存在しなかったと言うことです。
ー人に具して修学院にこもりたりけるに、小野殿見に人々まかりけるに具してまかりて見けり。
その折までは釣殿かたばかりやぶれ残りて、池の橋わたされたりけること、から絵にかきたるやうに
見ゆ。きせいが石たて滝おとしたるところぞかしと思ひて、滝おとしたりけるところ、目たてて見れば
皆うづもれたるやうになりて見わかれず。木高くなりたる松のおとのみぞ身にしみける
「滝落ちし水の流れも跡絶えて昔語りは松の風のみ」(西行・残集)
正しく千年後の現在も音羽川周辺の山里と比叡の山並みのみ、昔語りになってしまいました。
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<わずか38年の人生>
本人が望んだわけではない「呪われた人生」とはいえ、わずか38年とは父親時平39歳での早逝より、
なおも短いものであったわけです。その38年とは次のようになっています。
906 延喜6年 左大臣藤原時平三男
921 延喜21年 従五位下、侍従、左兵衛佐、右衛門佐、左近権少将など歴任
934 承平4年 左近権中将
939 天慶2年 参議
942 天慶5年 従三位・権中納言
943 天慶6年 3月7日没
また、彼の人生をその出来事と特性項目別に次のようにまとめておきます。
出生関係 血筋は藤原摂関家の本筋にありながら、父時平没後、主流は弟の忠平に流れてしまいました。
母は在原棟梁女ですから、風流人の気質は御先祖在原業平の流れを汲む。
(一説の母本康親王女廉子は誤りか)
(参考資料:曾根誠一「藤原敦忠伝ノートー生母と主要な恋ー」文学研究稿
No.2(1980年2月)10頁)
兄弟には右大臣顕忠、宇多天皇女御・京極御息所褒子、藤原実頼室など。
男女関係 斎宮(雅子内親王)ー私家集敦忠集に贈答歌列挙。大和物語(第93段)
御匣殿別当(藤原仲平女明子)(一説に藤原忠平女貴子)ー大和物語(第92段)
右近(藤原季綱女)など
(参考資料:前述の曾根誠一「藤原敦忠伝ノート」など)
結婚関係 参議源等女・子息「助信」(連載第215回参議等参照方)
(参考資料:曽根誠一「「敦忠集」詞書の検討ー助信の母をめぐってー」
解釈(昭和56年7月号・第27巻7号・316集 32頁)
藤原明子・佐時、佐理、明照などの母
和歌関係 平安中期公卿歌人 三十六歌仙の一人。勅撰和歌集歌人として後撰集以下に30首入集。
代表歌を「大和物語」に見ましょう。
(1)第92段ー「左の大殿の君」(藤原仲平女明子)への贈歌
「物おもふと月日のゆくもしらぬまに今年は今日にはてぬかときく」
(親しく深い仲になれないまま、嗚呼今年も暮れてゆくなあ、と全く現代人の感覚に
同じ様な詠い振りです。やるせない敦忠の浮かぬ顔が想像できます。)
「けふそへにくれざらめやはとおもへども堪えぬは人のこころなりけり」
(前の歌が年末での詠みとすれば、この歌は一年どころか毎日がいらいらという
心境でしょうか。)
「いかにしてかくおもふてふことをだに人づてならで君にかたらむ」
(この詠み振りは、百人一首第63番道雅の「ひとづてならでいふよしもがな」に
全く同じです。恋も追いつめられてくると、このように何とか直接逢って相手に
話したくなるものなのでしょう。)
(2)第93段ー「斎宮のみこ」(雅子内親王)への贈り歌
「伊勢の海千尋の浜にひろふともいまはかひなくおもほゆるかな」
(ああ、ついにてのとどかぬ伊勢の斎宮として離れていってしまった、と悔しがること
しきりです。)
歌人仲間としては前述の伊勢、中務、朝忠、伊尹、清正など。音羽の「小野山荘」での
歌会などを催している。
(参考資料:前述の曽根誠一「藤原敦忠所領小野山荘をめぐって」など)
管絃関係 醍醐・朱雀朝に管絃道に優れた楽人として活躍。
まず「大鏡」には「世に目出度き和歌の上手、管絃の道にもすぐれたまへりき。」と
人物評価されています。また敦忠の管絃の道における評価について、専門家の研究論文が
あります。(柏木育子「藤原敦忠について」二松学舎人文論叢・第39輯(昭和63年7月)
二松学舎大學人文学会、13頁)
敦忠の管絃の才能を要約して次のように高く評価されています。
「・・・管絃においては、血脉に残るのは、和琴のみであるが、その他に笛、琵琶の
演奏に長じ、天皇の御前で演奏する程であり、これに対する世間の評価も高く、実力は
他の追従を許さないものであったといえる。さらに管絃については、和琴の師である
醍醐天皇、同天皇の皇子、重明親王とのつながりは親密な物であったと思われる。・・・」
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