敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 210 回 *** 第54番(その1) ***
***** 儀同三司母ー中関白家の盛衰 *****
目 次
<道長に翻弄された「ふたりの母」>
<中関白家の儚い栄華>
<長徳の変>
<淳和院跡>
(参考)淳和天皇火葬塚
百人一首・第54番 忘れじの行く末まではかたければ今日限りのいのちともがな
百人一首歌かるた・儀同三司母画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
(左)錦百人一首あづま織(右)光琳かるた
<道長に翻弄された「ふたりの母」>
前回の連載第53番歌人右大將道綱母にとって、その生涯における一番の悩みの対象は夫兼家にあり
ました。また、その彼女は自分の子息道綱の時代になっても、かの兼家の別の妻の子道長に悩まされ
続けることになるのです。なんとも幸せ感の薄い人間模様の人生であったことでしょうか。たまたま自分の
隣人になる人毎に悩みの根元となったのですから、解消の仕方のない、やりきれないことであったことで
しょう。彼女と同じ様な立場に置かれたのが、今回連載の「儀同三司母・高階貴子」であるのです。
彼女の場合は、夫道隆に愛された最高の人生に見えたはずの天国から地獄へと道長によって突き落と
されてしまうのですから、精神的落差は、ある意味で、右大將道綱母以上の悲惨なものであったと言えます。
第53番歌人右大將道綱母と第54番歌人儀同三司母の「ふたりの母」は、奇しくも百人一首では、お隣
同志の「お母さん」として並んでいて、いかにも幸せそうな中世上流貴族の「ふたりの母」親であったように
思われますが、事実は百人一首の歌に代表されるように、大変な女性二人の人生内容がこめられている
のです。これは藤原定家の「両人の母」への思うところが充分に活かされた配置であると思われます。
因みに、このおふたりは後拾遺和歌集にも並んで入集しているのです。
ー入道摂政九月ばかりのことにや、よがれして侍りける
つとめてふみおこせて侍りける返事につかはしける 大納言道綱母
「きえ返り露もまだひぬ袖の上に今朝はしぐるる空もわりなし」(第十二 恋二 700)
ー中の関白女のもとより暁に帰りて、内にもいらで外にゐながら、帰りはべりければよめる 高内侍
「暁の露は枕におきけるを草葉のうえとなにおもひけん」 (第十二 恋二 701)
道長の周辺の人物を右大將道綱母、儀同三司母に関連して示しますと、次のようになります。
 儀同三司母関係(高階家) |
 摂関家(師輔流)
 (左)右大將道綱母関係
|
右大將道綱は道長より11年年長で、7年早く先立ちました。したがって、道長とは、54年間同時代に
生きたことになります。彼の母親は、30年間弱、実子のライバルとしての道長を意識して生活したことに
なります。道長が道綱の官位を越える頃は当然道綱すでに元服していたでしょうから、実質15年前後苦し
んだということになりましょうか。
一方儀同三司母の場合は、道隆没後の995年(丁度右大將道綱母の没年前後)から翌年の没年まで、
わずかに一年間で急転直下する人生悪路踏み抜いたということになります。
両人とも当然自ら望んだはずのない苦しい人生となったのですが、ほんの隣の親戚筋が斯くも自らの
人生をここまで翻弄しようとは思ってもみなかったことでしょう。彼女らの悩みの人生模様を追ってみます。
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<中関白家の儚い栄華>
高階貴子の出生の幸運は、学問の家の出自環境にあったということが出来ましょう。父は、一条天皇
春宮時代(懐仁親王)東宮学士となり、侍読を勤めた従二位式部大輔で、碩学の誉れ高く、必然的に
彼女は、漢文学の素養を女性ながら引き継いだことになります。
貴子の曾祖父は、彼の在原業平と伊勢斎宮(恬子内親王)の不倫の子高階師尚で、その四代末裔と
いうことになりますから、それだけの遺伝の要素はあったということになるのかも知れません。この辺の
血筋をある意味で、うらやましがって見ていたのは、後年の「一条摂政伊尹」の孫に当たる藤原行成です。
十代半ばから既に天皇側近として出仕して、円融天皇の内裏女房(尚侍)になっています。
(安和二年・969) 宮中での官名は「高(階)の内侍」で、「栄華物語」巻三にも記されています。
宮中への出仕生活の中で、摂関家筋の貴公子の中に、後年の「わすれじ」の君「道隆」を知ることに
なるというわけです。
二人の間には、伊周、隆家、定子ほか、三男四女に恵まれましたから、ここまでは平安貴族女性として
いうことなしの順風満帆の人生模様と言えましょう。
道隆の中関白家が満開期を迎えるのは、正暦元年・990年で、一月に定子は一条天皇に入内し、
五月には、道隆は関白に就任します。貴子も連れだって正三位に昇進できました。
ところが「好事魔多し」の譬えどうり、この絶頂期も5年と持ちませんでした。995年道隆が未だ、40代を
出たばかりに、病没してしまい、関白職は伯父の道兼から道長へと逃げてゆき、道長と伊周の権力闘争も
道長に取られ、加えて長徳の変(花山上皇不敬事件)で、完全に中関白家は政界から、一蹴されてしまい
ました。
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<長徳の変>
伊周・隆家兄弟を宮廷から完全に追放することになるこの長徳の変の事情を追ってみます。
995年 一条天皇 関白藤原道隆 右大臣藤原道兼 内大臣藤原伊周
(長徳元年)4月10日 関白道隆没(43歳)
4月27日 関白藤原道兼襲任。
5月 2日 藤原道綱母没(60歳前後)
5月 8日 関白道兼没(35歳)左大臣源重信没(74歳)
5月 11日 藤原道長に内覧宣旨賜る
6月19日 右大臣藤原道長着任 (蔵人所別当兼任)(蔵人頭藤原行成起用)
7月24日 道長と伊周の仗座(天子・宮殿兵衛の座)論争。
公卿連同席の場で、首班道長と烈しく口論した(藤原実資・小右記)
道長も伊周に神経過敏になったらしく、警戒心を高める。
7月27日 七条大路で、道長と隆家従者間のいざこざで、合戦有り。
隆家従者が挑戦したか(藤原実資・小右記)
8月2日 隆家の従者が道長の随身を殺害。
道長激怒。隆家に下手人要求。隆家の参内停止。
中関白家の犯罪追求。
8月10日 道長の猜疑心は、伊周の母方高階家をも責める。
高階成忠の陰陽師による道長呪詛を引き出す。(百練抄)
道長による伊周・隆家追放の段取りは翌年具体的になります。
996年 1月16日 (その1)伊周・家隆従者が花山法皇を射る(紀略)
(長徳二年) 第65代花山天皇(在位984〜986)は、名だたる「すきもの」で大凡10年前の
退位後も仏事(西国三十三札所の巡礼など)と漁色(故藤原為光四女)の
風流な生活を送って居られたところ、伊周も同じく故藤原為光三女に通っていた
ため、花山法皇のお忍びを疑い、隆家に座所まで、忍び寄らせて脅しの矢を
射かけたということになったのです。花山法皇はスキャンダルの明るみを嫌った
道長情報網に引っかかり、明法博士による伊周・隆家の罪状勘申となります。
(その2)伊周の大元帥法修行に関する法琳寺僧密告
臣下が行えない密教の重要修法とされているものをほんとに禁を犯して伊周らが
修したとは、思えないし、又何のためという疑問も出てきます。完全な道長側から
のでっち上げであったかというとそうでもなかったために、道長は、伊周らを
やりこめる第二の事例として大々的に採り上げたものと思われます。
まさに伊周等は「まんまとはまった」「はめられた」ものと想像します。
3月4日 定子中宮、禁中を出て、二条北宮に移る。
(自らの周辺状況の悪化に耐えられなくなったのかも知れません。)
4月24日 藤原実資や道綱などの行動を監視しつつ、藤原顕光、時光、右大弁源扶義、
蔵人頭藤原斉信などを操って、右大臣道長は天皇の御前での除目を執行しました。
伊周・隆家の罪状には、花山法皇を射たこと、女院(詮子)呪詛のこと、
私に大元帥法を修したことなどが挙げられて、
中関白家関係では、藤原伊周は太宰権帥に、藤原隆家は出雲権守に
高階家関係では、 高階信順は伊豆権守に、高階道順は淡路権守に
左遷され、その執行には顕光が命ぜられました。
当然実資ほかの公卿は本件を事前に関与していたわけでなく、道長の一方的な
抜き打ち人事であったことは確かです。
もっとも道長も始めから終わりまで、暗目裏に事を運んだわけではなく、
花山法皇誤射事件当座は、陣座の議に附したものの、その後の事態の推移を
みて、独断で、勅断を迫ったものと思われています。
勅下命を迫られた一条天皇も定子皇后や普段の伊周との関係その他の事情を
考えますと、ここまで、一挙にやりこめることに抵抗はあったはずですが、道長から
の強引な要求を抗しきれなかったものでしょう。
左遷と配所送りと知らされた伊周と隆家は、中宮座所には知り、西下を拒否します。
護送使は何度も督促に訪れます。周りの二条大路は見物人でごった返します。
5月1日 朝廷からの使者が大殿の門戸を破って座所に踏み込み、隆家はやむなく、
捕縛され網代車にのせられて、配所への旅に着くという無惨な左遷の執行を
受けます。
二条宮から逃亡した伊周について執行使の顕光以下の諸卿は、「盗人捜索」の
名目で京内、周辺に捕縛使を配置します。
*伊周は、高階道順と馬で愛太子(あたごやま)に向かったとの情報
(近習左京進藤原頼行訊問)を掴む。
*高階信順、明順、および源明理、方理らを監禁する。
*中宮定子座所捜索の辱めを受け、懐妊の身ながら、落飾。
5月4日 伊周は、愛太子山を下りて山崎離宮に向かうところ、淳和院のほとりで、抑留さる。
剃髪して、車の中には、尼姿の母貴子が同乗していたとのことです。
*この母子は、さる4月24日以来、如何なる気持ちで、どこからどこへどのように
逃避行を重ねていたのでしょうか。思えば胸の痛くなるような「没落貴族の
なれの果て」としかいいようがない悲運です。権力への確執が自らのみ成らず、
家族や親族縁者をも不幸な世界へと落とし込んでいくことになる典型的な結末
ということができるのです。
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<淳和院跡>
伊周が母親貴子とともに抑留された京の南西地区にあったとされる「淳和院」址を訪ねてみます。
淳和院跡とは右京四条二坊・十一町から十四町までの四町に辺り、現在の四条通り「西院」と称される
所に当たります。名前だけが伝承されてきていることが分かります。
第53代淳和天皇は、仁明天皇に譲位された天長十年・833から、崩御される承和七年・840までの御所
で、この淳和上皇御所は、のちに淳和天皇皇后御所となりのち、尼寺となりました。

(左)西大路四条交差点・阪急電車「西院」駅付近の地図(右)淳和院跡付近の現在の淳和院町地図

(左)西大路四条交差点・阪急電車「西院」駅付近の風景
(右)西大路四条交差点北東地区にあたる淳和院跡付近に位置する高山寺遠望

(左)西大路四条交差点北東地区にある淳和院跡地の電気製品スーパーショップ
(右)スーパーショップの壁面にある淳和院跡発掘現場説明板

(左)西大路四条交差点北東地区の高山寺門前と「淳和院石碑」

(左)高山寺門前の「淳和院石碑」の拡大写真


(左)西院春日神社(淳和天皇が淳和院に移られたとき、奈良春日大社から分霊を勧請したとのこと)

(右)境内西院宮に「淳和院礎石」なる巨石が安置されています。
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(参考)淳和天皇火葬塚
淳和院で崩御された淳和上皇の遺体は、桂川を渡った物集女の里で火葬にされ、その遺骨は
遺言にしたがって西山の小塩山頂きで、散骨されたという。如何にもさっぱりとした終わり方を
されたもので、現在でも皇室の中で唯一死後散骨された天皇ということになっています。

(左)淳和上皇火葬塚と小塩山の御陵(右)火葬塚への参道

(左)淳和天皇火葬塚(右)その塚脇からの風景
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