敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 209 回  *** 第53番(その3) ***
*****  右大將道綱母ー唐崎祓・復路体験記  *****

目    次
<唐崎の松> <関寺址> <走井>

百人一首・第53番 嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る



























百人一首歌かるた・右大將道綱母画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
(左)紙地百人一首絵入り歌かるた(右)勝川春草画

 右大將道綱母の「唐崎祓」の行動はいまをさる1035年前の天禄元年(970)六月のことでした。
 唐崎祓への往路における彼女の行程は、「かげろふ日記」(中巻・第九節)の中の地名に辿って
みますと、次のようになります。

1.唐崎へ出立 「いかで涼しきかたもやあるとこころものべがてら浜づらのかたに祓へもせむと思ひて、
        唐崎へとものす。」
2.賀茂川通過 「寅のとき(午前四時頃)ばかりにいでたつに、月いとあかし。
         ・・・賀茂川のほどにて、ほのぼのと明く。・・・」
3.逢坂上り口 「・・・山路になりて、京にたがひたるさまを見るにも、・・・いとあはれなり。」
4.逢坂関   「・・・関にいたりて、しばし車とどめて、牛かひなどするに、・・・・」
       「関の山路あはれあはれとおぼえて、・・・ゆくへもしらず見えわたりて、
        ・・・釣り舟なるべし。」
5.大津到着  「・・・大津のいとものむつかしき屋どものなかに、引き入りにけり。」
6.清水到着  「・・・巳の時はてになり・・・清水といふところに、・・・・車かきおろして、
        <清水にきつる>と、おこなひやり(京の留守宅に様子を知らせる)などすなり。」
       (注)「清水」という地名を探りますと、現在の大津市逢坂1〜2丁目あるいは春日町が
          嘗て関寺町あるいは清水町として存在したようです。古い絵図(寛保二年・1742・
          町絵図)によりますと、下関寺町組として関明神や関寺を継承していると考え
          られている長安寺などがある中関寺町と浄土真宗本願寺派安養寺がある
          上関寺町の間に「清水町」があったようです。

7.唐崎到着  「さて、車かけて、その崎(唐崎)にさしいたり、車ひきかへ(車の向きを変える)て、
        祓へしにゆく・・・・」
8.祓え終了  「未のをはり(午後三時頃)ばかり、果てぬれば、帰る。」 

京から唐崎までの道のり

<唐崎の松>

 「唐崎祓所」として、その名残が今に残る遺物としては、唐崎神社とその境内に広がっている第三代目の
「唐崎の松」です。

(出典:日本風俗名所図絵・近畿の巻・角川書店)

(左)唐崎神社(右)唐崎の孤松(ひとつまつ)

(左)孤松の南面(右)孤松の東面

(左)松尾芭蕉の句碑「唐崎の松は花より朧にて」(右)「七瀬祓所の址」碑

唐崎から琵琶湖東岸風景を望む(左)近江富士遠望(右)大津市街遠望
 唐崎から望む風景はまさに湖国の風景です。琵琶湖越しに近江富士が、さらに南の方面には大津市街も
望めますが、今を去る千年前の風景と異なるのは、後者の南岸風景です。

 道綱母も琵琶湖の対岸には近江富士を、背後の比良山系には比叡山や比良山を、確かに眺めたはず
です。六月の暑い時期でしたから、比良山に冠雪を眺めることはなかったでしょうが。普段限られた邸宅内
での息詰まるような生活をしている京の貴族連にとっては、生涯忘れられない風景になったことでしょう。
「祓へ」とは、精神の洗濯です。普段の生活の垢を落として新たな気分で人生に立ち向かうための英気を
養うのが目的ではなかったでしょうか。35歳の母に連れられた15歳の道綱は、この唐崎の風景に如何に
感動したことでしょう。多感な少年から元服して大人になる直前のこの時の旅は大変印象深かったのでは
なかったでしょうか。
 ちなみに道綱は6月の「唐崎祓へ」から帰ってきて、2カ月後の同年八月十九日大納言源兼明(源高明
の兄)の引入れ(元服式の加冠の役)で元服式を行っています。

 兼家はめづらしく道綱母宅へしげしげと参りて、
 「この大嘗会に院の御給ばり申さむ。幼き人にかうぶりせさせてむ。十九日」
  (ことしの大嘗会に叙爵をお願いするつもりだ。あの子に元服させておこう。十九日に。)
といって全てきまり通り元服式が行われます。
 「ことども例のごとし。引き入れに源氏の大納言、ものしたまへり。」

 琵琶湖の沿岸域には多くの風光明媚な場所が昔から言われてきましたが、この「唐崎」からの眺めも
近江を代表する風景と言えましょう。古代の人々が「祓所」に選んだわけも分かるような気がします。
 因みに近世にいたって「唐崎」は、「近江八景」の一所「唐崎の夜雨」として名を馳せました。
 江戸中期の安藤広重の浮世絵を見ておきましょう。

(左)「唐崎夜雨」(右)「唐崎夜雨」(変わり図)
(出典:「名品揃い物浮世絵」全十二巻・12・広重III(株)ぎょうせい(平成四年四月))
 近江八景とは「比良の暮雪」「粟津の青嵐」「三井の晩鐘」「石山の秋月」「瀬田の夕照」
 「矢橋の帰帆」「堅田の落雁」などです。
 「安藤広重・比良の暮雪」を添付し、併せて唐崎の松の間から見た比良の雪景色を遠望しておきます。

(左)安藤広重「比良の暮雪」(右)唐崎の松越しの「比良山の冠雪」遠景
 残りの「近江八景」浮世絵と琵琶湖周辺の名所を添付しておきます。


(上・左)石山の秋月(上・中)堅田の落雁(上・右)三井の晩鐘
(下・左)矢橋の帰帆(下・中)粟津の晴嵐(下・右)瀬田の夕照

琵琶湖周辺の観光名所イラストレーション
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<関寺址>

 1035年前の「唐崎祓」の復路における行動の一部分を体験をするために、唐崎の松より浜大津経由
逢坂関越えを試みました。以下その道中記をもって「かげろふ日記」現代版を目指します。

 道綱母一行は唐崎を「未のをはりばかり」に出立したのですが、筆者は「未のはじめ」(午後一時)
唐崎の松をあとにしました。
 唐崎神社の参道から琵琶湖の西海岸を北上している国道161号線へはすぐに出ることが出来ます。その
途端に唐崎神社の神々しい雰囲気はどこかへ吹っ飛んでしまうような車洪水の騒音の世界となるのです。
国道の狭い路肩を歩くのさえ一苦労で、後ろから来る車によって琵琶湖岸へ追い落とされそうな圧迫感を
感じます。
 この国道と琵琶湖岸の間には、雑多な家並みが並び、その合間合間に嘗ての風光明媚な湖岸の風景が
取り残されています。逢坂の関への登り口までの湖岸風景で平成現代的風景と思わせる典型的な施設は、
陸上自衛隊の大津駐屯地で、広大な海岸域を利用して同隊の教育機関がおかれている所です。
 更にもう一つ、現代を思わせるものは、「あそびごころ」と「経済観念を併せ持った現代人」のための
余興施設で、「琵琶湖競輪場」であり「琵琶湖競艇場」であるのです。
 どのように推測してもこれらの施設と嘗ての「さざなみや志賀の宮址」との関わりが理解できないのです
が、天智天皇はそのお住まいである比叡山麓「近江神宮」から「さざなみの淡海」海岸にならんでいる
これらの現代的「経済的並びに社会的地域活性化施設」と称される「遊興場」を見守って居られるよう
です。なんだか遊技場の神様に祭り上げられているような関係になっているわけです。

 競輪場から競艇場へと、車の洪水と一緒に流されて行きますと、皮肉にも「ふりがたくあはれとみつつ
ゆき過ぎて」、遂に「旧北国海道」へ戻りたくなりました。
 競艇場前の国道161号線を右折して、一筋山手側の道をとりますと、古い街道の雰囲気が取り残された
世界の中を京へと戻ることが出来ます。大津市役所あるいは三井寺を遠望しながら、旧道を南下しますと、
嘗ての「大津」の町並みが低い軒下に覗いています。車一台が何とか通れるほどの狭い道幅で、人の
通りもまばらな旧街道筋となっています。

「札の辻」で、北国海道は旧東海道に合流しています。札の辻を通過したのが午後2時半過ぎですから、
唐崎の松からふらりと「海道」見物しながら約5kmの道のりを一時間半掛かって歩いたことになります。
急いでもいない物見遊山の道中とはいえ、あれこれ脇見していたわけではないのですが、少々時間が
掛かったのは、あまりにも多い国道の交通量に気を使った為ではないかと思われます。

大津市街図


札の辻交差点付近の「北国海道」への入口
 「札の辻」を南下しますと、いよいよ「逢坂の関」への掛かりになります。道綱母の道中記は次のように
記されています。
 「山口にいたりかかれば、申の果て(午後五時頃)ばかりになりにけり。
  ひぐらしさかりとなきみちたり。・・・」

 この「逢坂の関」への掛かり口にある「山口」とは、「札の辻」の南西にある現在の「大津赤十字病院」
さらにはその南にある「長安寺」(関寺址)辺りを指すのではないでしょうか。
 ちなみに赤十字病院の脇には、「犬塚のけやき」として大樹が記念物として残されており、道綱母の
記すところでも往路の「清水」付近において、
 「大きなる棟(あふち)の木ただひとつ立てるかげに、車かきおろして、馬ども浦に引き下ろして、・・・」
休息したことになっていますから、昔から逢坂の関を通過してきた旅人は一息つくところで、木陰があった
のかも知れません。

 関寺址「長安寺」を参詣してみました。海道を右に折れて京阪電鉄京津線の踏切を越えて、細い参道を
とりますと、まず、巨大な石塔がお出迎えです。
 関寺址(世喜寺中興縁起)は平安期に寺院としての尊崇を高め、関寺大仏も祀られていたようです。
 道綱母も道中で関寺を参拝したのかも知れません。幸いにして、天禄元年(970)の時点では、関寺
本尊五丈弥勒仏としての大仏は存在しました。しかしその6年後、天延四年(976)6月大地震が起こり、
近江国分寺大門、近江国衙も倒壊する規模のもので大仏も破損したのです。
 それから40年ほど経って恵心僧都源信・その弟子延鏡が尽力して寺の復興に務めました。寛仁二年
(1018)本尊、治安二年(1022)伽藍が完成しました。この復興工事のとき京都清水寺が寄進した役牛
が迦葉仏(社会禅尼出現した仏)の変身と都の殿上人がこぞって霊牛に詣でたようです。現に当時全盛を
謳歌していた藤原道長・倫子は治安元年(1021)参詣しているのです。(万寿二年関寺縁起による)
 この霊牛を葬ったところに関寺牛塔として供養塔が建立されのです。これが現在残っている牛塔です。

 因みに道長参詣の24年後(寛徳二年・1045)11月に菅原孝標女が石山寺参詣の帰途
 「関寺のいかめしう造られたるをみるにも、そのおり荒造りの御顔ばかり見られしをり思い出られて、
  年月のすににけるもいと哀れ也」
と記しているのです。逢坂の関を東に西に行き交う旅人はだれしも、関寺に参詣したのではないでしょうか。

(左)長安寺の牛塔(右)長安寺の本殿
 参道を登り詰めますと、小高い丘の斜面に小社な本殿があります。嘗ての関寺の遺構を伝承している
記念碑的な建造物です。
 寺院の裏山は、新たに整備された琵琶湖を望む公園になっていて、かの平忠度の有名な「読み人知らず」の
千載集名歌の歌碑が建てられています。
平家物語「忠度都落」
薩摩守忠度は、「・・・世静まり候なば
勅撰の御沙汰候はんずらん。是に候ふ巻物の
中に、さりぬべきもの候はば、一首なりとも
御恩を蒙て、草の蔭にても嬉しと存候はば、
遠き御守りとこそ成り参らせ候んずれ。」とて、
日來詠置れたる歌共の中に、秀歌と覚しきを
百余首書集られたる巻物を、今はとて打立れ
ける時、是を取て持たれしが、鎧の引合せより
取り出でて、俊成卿に奉る。
千載和歌集・巻第一・春歌上・66番
ー故郷花といへるこころを詠み侍りけるー
読み人しらず
「さざなみや志賀の都は荒れにしを
むかしながらの山桜かな」
 関蝉丸神社下社(第10番歌人蝉丸の連載文参照方)の裏山道を過ぎて、
旧東海道筋へ戻りますと、街道脇に同じく、関寺の一部であったと考えられる安養寺があります。

安養寺周辺の地図

安養寺の門前は、逢坂の関を越えてきた
電車、車の往来が激しい山間の道路に
面している。
安養寺は旧中関寺町にある長安寺の
南側で、昔の東海道沿いに逢坂の関へ
登っていく途中の旧上関寺町にある
浄土真宗本願寺派寺院です。もと三井寺
日光院末寺とされ、ご本尊は国指定
重要文化財の木像阿弥陀如来座像です。
 安養寺前から逢坂の関への狭隘な渓谷を見ますと、現在でも国道、高速道路、電鉄道が押し合いっている
所だというのが分かります。狭い谷間に向かって車や電車が突っ込んでいき、又出てくるところを見ますと、
まさしく、交通の要衝であることが実感できます。午後3時過ぎに再び関に向かって登り始めました。

(左)安養寺前の旧東海道と国道一号線の分岐点から逢坂関方面を仰ぐ。(谷間の山は音羽山)
(右)逢坂峠手前の所にある「弘法大師堂」
 関蝉丸神社上社を過ぎますと、峠に到ります。ここには、蝉丸の連載文にあげました「逢坂山関跡碑」が
建てられています。

(左)逢坂山関跡と常夜灯を過ぎて峠方面を仰ぐ。(谷間の電車は京阪京津線の逢坂山トンネル入口)
(右)逢坂関付近の地図
 ここを過ぎますと一路山科への下り坂になります。その途中にある「月心寺」が
道綱母の記した「走井」のあとです。月心寺は大津市大谷町にあります。したがって逢坂山の関を
西に京都側に下ったところも現在の行政区域としては未だ、滋賀県大津市に所属しているのです。
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<走井>

 下大谷町にある月心寺のその名の通り湧き出す井戸「走井」は、平安期から知られていたのです。
 茶店を設けて旅人の休憩の場となっていました。茶店の主人は薬を売っていたようです。また、名物の
「走井餅」は江戸期明和年間(1764〜1772)頃創案された物です。
 境内には当時の庭園が残され、小野小町の百歳の木像も伝承されているとのこと。これは、木像その
ものの真偽よりも、日本一の街道筋に小町の老年の像が伝承されていることに意味がありそうです。

(左)国道1号線に面した月心寺門前(右)入口の庭園と「走井」

(左)「走井」(右)月心寺境内
 走井に辿り着いたのが午後4時まえですから、逢坂の関を越えるのに 大凡一時間弱を要したことになります。
 国道1号線の測道として安養寺前から歩道が整備されていましたので、湖岸沿いの国道161号線ほどには、
背後から通過していく車の激流には気を使わなくていいものの、取材のために道路の反対側には渡ること
さえ出来ないほどの交通量の激しさでしたから、漸くにして目的の月心寺へ辿り着けたというところです。

 月心寺を後にして再び国道1号線を京へと移動しはじめましたが、大津市の最西端追分町で午後4時を
過ぎ、遂に徒歩継続を諦めました。振り返れば唐崎から約10kmを3時間かかって旅したことになります。
 普段から歩き馴れていない現代人では、一日の歩行距離はせいぜい10〜15kmがいいところでしょうか。
「かち」を主な手段とした昔の旅人は、何の苦もなく、30〜40kmを一日の移動距離としていたようですから、
如何に足が頼りであったか、如何に足がしっかりしていたか、改めて認識させられた「唐崎祓へ」の
模擬行動でした。
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