敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 205 回  *** 第65番(補足メモ1) ***
*****  相模ー養父源頼光  *****

目    次
<清和源氏> <略歴> <頼光の文道> <都内の縁りの地>

百人一首・第65番 うらみわびほさぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ



























百人一首歌かるた・相模画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
(左)紙地百人一首絵入り歌かるた(右)光琳カルタ

 百人一首歌百人一首歌人の中にはいろいろな点で共通関連事項で結ばれていることがわかります。
 次の組み合わせも興味ある共通項です。この辺りは藤原定家の意味深長な百人一首歌撰定と歌人選定の
優れているところであり、改めて「ここまで配慮して百人一首を選定したか」と藤原定家という人物の知識の
深さや広さに感心させられる所でもあります。

 第92番歌人・二条院讃岐(連載第58回・第59回)ー父 源頼政(連載参考メモ(その1)(その2))
          さぬき              みなもと らいせい
 第65番歌人・相 模(連載第203回・第204回) ー養父源頼光(連載参考メモ(その1)(その2))
          さがみ              みなもと らいこう

 「さがみ」と「さぬき」はともに、剛勇にして歌道も心得た武将を父にもって、かつ両人は敷島の道では、
名を馳せた四代離れた親戚筋に当たることになります。源頼政の四代先代の源頼光なる人物の概要を以下に
メモしてみます。
 一方、源頼政(1105〜1180)は、平清盛(1118〜1181)との対峙のなかに源平の戦乱の世を誘導した
武将であるわけですが、武道で世の中に何とか打って出たいという姿勢は、先祖の頼光(948〜1021)の
血を引いているのかもしれません。もっとも道長にうまく操られたという感がなきにしもあらずですが。

<清和源氏>

******* 源頼政・略歴一口メモ *******
みなもとのよりみつ 俗に みなもとのらいこう
摂津・伊予・美濃国守歴任、左馬権頭、正四位下、藤原道長に尽力。
天暦2年(948)〜治安元年(1021)・・・・・・略歴参照方
清和源氏の嫡流・源満仲嫡子で、子孫は摂津源氏と称される。・・・・清和源氏系譜参照方
平安中期武将、大江山酒呑童子や土蜘蛛退治伝説あり。・・・・説話参照方。
家臣の頼光四天王・・・・説話参照方。

東京・浅草・矢先稲荷神社ホームページ「馬の情報館」より
 源頼光の系譜が「清和源氏」と称されるのは、系図の経基王が清和天皇の皇孫にあたるからで、頼光は
清和天皇の孫の孫ということになります。また、父親の摂津守満仲の三人の子どもがそれぞれ摂津源氏・
大和源氏・河内源氏を開くことになり、いずれの源氏系統もその後の日本歴史に係わっていくことになります。
 頼光の母は嵯峨天皇の皇子で源姓の臣下に降籍した大納言源定の曾孫ですから、両親とも皇統の血族と
なります。
 頼光の官職を継承していく嫡子は摂津守左馬権頭頼国で、次男は筑前守頼家で、他に女子二名には
それぞれ大納言道綱(道長の異母兄)や参議資通が姻戚関係に入ってきます。特に居候までさせた道綱
との関係やその兄弟である道長に後年係わっていくのはこういった娘との姻戚関係にも係わっているのでは
ないでしょうか。
 頼光を養父とした相模も歌の世界で、頼光の姻戚関係の人々に係わっています。
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<略歴>

邦暦年(西暦年)年齢略歴関連事項
天暦二年(948) 1頼光誕生、幼名文殊丸、満仲嫡男、母源俊女
清和源氏直系、摂津多田所領伝領。
摂津源氏家祖
天禄元年(970)23中央官職に就く
(三条天皇(976〜1017) 皇太子時代
20余年春宮坊出仕)
三条天皇葬送にも関与。
天延元年(973)26父満仲邸放火さる。一条邸(一条戻橋付近か)
寛和二年(986)39父満仲とともに花山天皇(984〜986)
山科行幸護衛、 春宮権大進
一条天皇即位
永延二年(988)41兼家二条京極第新築に馬30頭献上
正暦三年(992)45備前守兼任(遙任)、従五位下、春宮大進昇進。
正暦四年(993)46殿上賭け弓参加(武将の一面)
長徳元年(995)48上総介より帰任した歌人藤原長能、一条邸訪問和歌世界仲間で、
伊勢守藤原倫寧男、
右大将道綱母の姉弟
長徳二年(996)49藤原伊周・隆家左遷に関与(宮中衛府詰め)花山天皇襲撃事件
長徳三年(997)50右近馬場競馬参加(武将の一面)
長保二年(1000)53春宮坊蹴鞠参加(文道の多才)
長保三年(1001)54美濃守兼任、正五位上昇叙
頼光娘が道綱の妻となる。
隣国三河守で、百人一首59番歌人
赤染衛門の夫大江匡衛と
書状交遊
寛弘三年(1006)59但馬守。頼光娘が源済政の妻となる。
寛弘四年(1007)60金峯山参詣帰路の道長を奈良に迎える。兼家に次ぎ、道長へ尽力
寛弘七年(1010)63道長法華三十講奉仕。
寛弘八年(1011)64春宮権亮昇任、従四位下昇叙。 一条天皇退位
三条天皇即位
長和二年(1013)66娘婿道綱、一条邸の移住。美濃守再任
長和三年(1014)67内蔵頭任
長和四年(1015)68道綱、頼光邸にて道長を饗宴
長和五年(1016)69昇殿許可(正四位下か)、三条院別当勤務
寛仁元年(1017)70三条院崩御。船岡へ御葬送
寛仁二年(1018)71伊予守、道長土御門第竣工調度品一切献上。
寛仁三年(1019)72左馬権頭
寛仁四年(1020)73道長無量寿院の非常奉仕。
治安元年(1021)74摂津守、7月19日卒去。
(出典:鮎沢寿「人物叢書・源頼光」吉川弘文館(昭和43年))
 頼光の生涯を端的に事項列挙しますと、(1)三条天皇に仕えたこと、(2)藤原摂関家(兼家・道長)
家司として尽くす74年であったということ、に圧縮されましょうか。彼の人生略歴から、余り剛勇な中世の
武将像が浮かび上がってきません。
 武勇を有効に活かして官途の道を少しでも上昇したいという願望は、鬼退治などの勇猛伝説という変貌した
世界で後世に残されていったのでしょうか。単なる豪傑で終わることなく、弓もやれば、蹴鞠もやる、当然
和歌の道もこなした人物ではあったのですが。
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<頼光の文道>

 さてその「敷島の道」は、如何なる形で、残されているのでしょうか。
 頼光の和歌世界に於ける仲間は、小大君、藤原長能、藤原実方、大江匡衡、赤染衛門など、錚々たる
メンバーで、頼光自身も歌人としての評価が高かったことを伺わせます。因みに彼の歌才は次男の頼家の
和歌六人党といわれたことに伝承されているように思います。

 勅撰和歌集では、拾遺集を初出として、後拾遺集、金葉集に次のように入集しています。

1.拾遺集(865番歌)・金葉集三奏本(403番歌)
 ーかたらひける人のつれなくはべりければ、さすがにいひもはなたざりけるにつかはしける 源頼光朝臣
 「なかなかにいひもはなたで信濃なる木曽路の橋にかけたるやなぞ」(巻第七・恋・403番)
 ちなみにこの歌の前後400番および404番には、養女の相模が歌を並べています。

 ー源頼光が但馬守にてありける時、館の前にけた川といふ川のある、上より舟の下りけるを、
  蔀開くる侍してとはせければ、蓼と申すものを刈りてまかるなり、と言ふを聞きて、
  口遊みに言ひける 源頼光朝臣
 「蓼刈る舟のすぐるなりけり」
 ーこれを連歌に聞きなして 相模母 (この詞書きによって相模は頼光の養女になったと推測される)
 「朝まだきから櫓の音のきこゆうるは」 
  (以上の連歌を意訳して、〜蓼を刈る舟が過ぎて行くなあ、朝早くから、辛い蓼を積んで、から櫓を漕ぐ
   音が聞こえるのは〜、となるわけです。)

 この歌の詞書きでは頼光が但馬守で、その官舎の舘の前で口遊みしていたのですから、前述の略年表に
よりますと、寛弘三年(1006)頼光59才頃の和歌と言うことになります。但馬守は遙任なのか、実地に
赴任したのか不明ですが、都に近い国の守でもあり、また、例の鬼退治の大江山が控えていることでもあり
実地に赴任した可能性が高いと推測します。

 さて、詠み込まれた「けたかは」・「気多川」とは、現「円山川」のことです。この河川は中国山地の
分水嶺である兵庫県朝来郡生野町太盛山の西方の円山から流れ出でて、豊岡市津居山で日本海に注いで
います。但馬国の国府があった地域を流れていたことは、既に第27番百人一首歌人藤原兼輔
(連載第162回中納言兼輔ー堤中納言文化的遺産)のところで言及いたしましたので、但馬国府や
円山川を参照願います。

(参考メモ)但馬国府は、延暦23年(804)気多郡高田郷(現在の城崎郡日高町祢布)に移された。
      円山川の左岸但馬盆地の中央に位置しています。JR山陰線江原駅周辺に比定されます。
      但馬国惣社は気多神社で、円山川を挟んで、国府と反対側の右岸に位置しています。

(左)円山川流域(右)旧国府址の但馬盆地
2.後拾遺集関係
 ー女を語らはんとて乳母のもとにつかはしける 源頼光朝臣
 「かくなむと海人の漁り火ほのめかせ磯辺の波のをりもよからば」(巻第十一・恋一・607番)
        (意訳:思う人があるとほのめかしてください)
 ー返し                  源頼家朝臣(母)(すなわち、頼光の妻)
 「沖つ波うちいでむことぞつつましき思ひよるべきみぎはならねば」       
        (意訳:言い出すことがはばかられます。心惹かれてはならない身の上ですから。)  

 親しい物の間の歌での遊びのような歌の贈答でしょうか。小大君との贈答ととしては、

 ー源頼光朝臣、女におくれて侍りける頃、霜のおきたる朝につかはしける 小大君
 「このごろの夜はの寝覚めは思ひやるいかなるをしか霜ははらはん」
    (意訳:此の頃の夜半に寝覚めに、鴛鴦の雌鳥が雄鳥の上毛の霜を払うのでしょうか。)
 妻を亡くした寂しさに哀れみをかけられた頼光は、小大君に如何に返歌したのでしょうか。
 「冬の夜の霜打ち払ひ鳴くことは番はぬをしのわざにぞありける」(小大君集収録)

 頼光には、寂しいときに気を使ってくれる歌仲間小大君などの歌人がいたのです。鴛鴦夫婦が仲むつ
まじく寒さを凌いでいる叙景の歌の贈答で、気を紛らわすことが出来たのでしょうか。    
 
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<都内の縁りの地>

 (その1)一条頼光邸
 頼光の一条邸を探索してみたいと思います。研究者の間では、現在三個所ほど頼光邸が推察されて
います。(参考資料:日本歴史学会編集人物叢書シリーズ・鮎沢寿「源頼光」吉川弘文館(昭和43年))
 (1)京城洛外大徳寺南・・・江戸時代以降の史料に依るため、根拠は十分でない。
   京都市北区今宮神社御旅所西、若宮八幡宮が頼光の邸宅跡との説。
 (2)六条左女牛の六条若宮・左女牛八幡・・・東西:若宮通・西洞院通、南北:六条通・花屋町通
 (3)一条邸・・・東西:油小路・堀川、南北:正親町・一条(左京北辺二条五坊)
          (一条戻り橋東南の主計町・松ノ下町)・・・・次の邸宅略図参照方。

(左)堀川一条周辺の地図
(右)若宮八幡宮、船岡山の東側、大宮通沿いにある頼光縁りの鎮守社。

(左)頼光一条邸周辺の条坊(右)一条戻り橋風景(昭和30年代)

一条戻り橋風景(平成15年)
 頼光一条邸で興味のある点は、頼光の娘婿藤原道綱に言及された史料によって確定されていることです。
階級の高い上級貴族で、大納言まで昇れた人物に関係したお陰で生前の動向が書き留められたと言うこと
です。更に興味あることは娘婿の藤原道綱の母親が一軒おいて東隣に邸宅を持っていたことが、彼女の
有名な「蜻蛉日記」によって知られると言うのです。
 上記の邸宅図をみますと、周辺の隣人宅は大変な上級貴族連の邸が並んでいることが分かります。
 一条院(藤原伊尹第)・・・藤原摂関家嫡流師輔男謙徳公・一条摂政で百人一首第45番歌人
 一条第(源雅信第)・・・左大臣、孫の済政は頼光の娘と婚姻している。娘は摂政道長室(倫子)、
             大納言道綱室、(頼光の娘も道綱とも婚姻関係にあり)
 藤原斎敏(だだとし)第・・・関白太政大臣実頼子息(928〜973)参議従三位、検非違使別当。
 藤原時姫第・・・兼家正妻で、藤原中正の娘。天徳・康保年間(957〜968)に兼家移住(藤原兼家
         の土御門第として、道隆・道長・詮子など生育)。兼家はその後、天禄元年(970)
         より東三条邸に移住。
 参考資料を引用しますと、「道綱母邸は、源頼光一条邸そのもの」との推測を提言されています。
 その傍証事項として次の諸事項が挙げられています。添付の系譜も参照方。
(1)天延元年(973)八月以降、道綱母邸(左京北辺二坊五町)は売りに出された。(頼光26才)
(2)後年頼光の娘婿になった道綱は、本宅(有芳門家)がありながら、一条邸へ頻繁に訪れた。
  幼少の頃母と過ごした懐かしい邸宅の思いであり。長保三年(1001)略年表参照方。
(3)藤原長能(道綱母の弟、道綱の叔父)は、親元(藤原倫寧)の生活を懐かしんで、訪問している。
  長徳元年(995)略年表参照方。
(4)後年道綱は、頼光邸に居候している。(長和二年(1013)略年表参照方。)
(5)頼光父満仲邸(左京一条三坊)放火に遭う。天延元年(973)略年表参照方。
(6)源満仲は道綱母の父藤原倫寧の伯父にあたる。(満仲倫寧から一条邸を買い取って頼光に与えた?)

頼光と倫寧、長能、道綱などとの姻戚関係
(その2)頼光の墓所
 頼光の墓は、船岡山の西方、蓮台野の上品蓮台寺境内にあります。
 上品蓮台寺は金閣寺のまえから真東に約700m程離れた千本通り沿いの西側にあり、目立った堂宇がない
ために見逃しやすい寺で、ひっそりとした構えになっています。西側の金閣寺が観光客に賑わいを見せる風景
と対照的な趣があります。
 頼光の墓石は閑散とした境内の北側の墓地内の隅に立っている椋の大木を背にしており、一説に頼光が
退治した「蜘蛛塚」と称されています。京の町中にある何れの寺院の境内と変わらない墓地風景です。

(左)上品蓮台寺境内の墓地(右)頼光縁りの「蜘蛛塚」大椋樹の墓所
 いまさらに鬼退治の名将頼光に参詣したお願い事は、斯くも変貌を遂げた平成社会の京の都にはびこる
もろもろの犯罪や公害をやっつけてもらいたいものです。
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