敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 199 回  *** 第81番・その4 ***
*****  後徳大寺左大臣ー実定の風景  *****

目    次
<徳大寺殿町> <竜安寺> <林下集の「歌仙ども」> <郭公何処へ>

百人一首・第81番 ほととぎすなきつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる



























百人一首歌かるた後徳大寺左大臣画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「日本の古典別巻1−百人一首」(世界文化社)1982年)

<徳大寺殿町>

 後徳大寺左大臣こと藤原実定は、出自の致すところやむなく平安王朝の貴族政治家を人生事としたの
ですが、伝わってくる溢れるような才能の数々はどうも芸術肌の人物であったことを想像させるものです。
 歴史人物評史料によりますと、「非常な蔵書家で、才学に富み、管絃や今様に優れていた」というの
です。加えてこれまで採り上げてきた人物想定の元資料になっていた「平家物語」を始めとして、
「徒然草」や「今物語」にもいろいろに彼の逸話が記されていたのです。彼の日記に「械林記」と
いう名のものがあったようですが、散逸しています。見たいと思った「ほととぎす」(実定卿)が飛び去って
見逃してしまったと同じ気持ちです。
 ここでは、徳大寺邸と西行法師の挿話を記した「徒然草」第十段を抜粋します。

 「・・・後徳大寺の大臣実定卿が自邸の正殿の屋根に鳶をとまらせまいと縄を張られているのを見た
  西行が、鳶が止まったってなんの悪いこともあるまいに、この邸の主の大臣が心というのはこれほど
  のものであったのか。と言ってその後はこの殿には伺わなかったと聞きおよんでいるが、綾小路の
  宮のおすまいしていらせられる小坂殿の棟に、ある時縄を引かれていることがあったので、西行の
  話しも思い出されたものであったが、実は烏が沢山来て池に蛙の食べられるのを宮様がかわいそうに
  思召されたからであると人が話したので、これまた結構なと感ぜられたことであった。徳大寺にも
  何か事情があったかもしれない。」(田中澄江・佐藤春夫訳「日本古典文庫10・枕草子・方丈記
                   ・徒然草」河出書房新社(平成4年9月))

 この挿話はいろいろの事に考えが及ぶ話しです。藤原実定と西行法師の簡単な人物像を描き出しています。
 後徳大寺家に何故西行法師が絡んでくるのか、と言う推測ですが、歌人西行は出家前の佐藤義清のとき
実定卿の祖父に当たる左大臣実能(1095〜1157)の家人をしていたという過去の経歴関係があるからでは
ないでしょうか。かってお仕えした主の許に時々何かに付けて出入りしていたのではないかと思われれます。
 そしてあるとき仕えた主の孫に当たる実定の許を訪れたところ、「屋根の上に縄」となって、足が遠の
く事になったのかも知れません。

 表面的には西行の言動も分からないではないのですが、それ以上にいろいろに物事を見る実定なる貴族に
興味の行くところです。貴族政治家として日常の些細なことに関わり合っている間もないものを、敢えて
いろいろに気配りをせずはおれない才気溢れた実定と言う人物を面白く感じさせます。
 兼好法師は西行法師を引き合いに出すことによって(批判まではしていませんが)、明らかに実定なる
人物に興味の対象を持っていっています。人の言動のおもて面だけをさらっと見ただけでは、その人物の
本当の内容が十分には分からないと言うことでしょうか。かといってあれこれ人を理解したようでも簡単には
人は人を理解できないということを言いたかったのでしょうか。
 兼好法師も彼なりに西行法師を又実定卿を理解していたのでしょうが、それとてもその人物の全てでは
無いと言うことになるのでしょう。
 
 さて、徒然草に言及された「後徳大寺の大臣実定卿が自邸」とは、どこにあったのでしょうか。
 参考史料により関連先を探してみますと、現在でも「徳大寺」という名の付く町が存在します。その
地域は、既述の連載「月見の都戻り」で言及しました実定姉で二代后藤原多子「近衛河原の御所」
近くになるのです。
 「近衛河原の御所」は現在の今出川通りの北側の一画・近衛殿北口町ですが、今出川通りを挟んで
その南側の一画が「徳大寺殿町」になっています。

近衛北口町と徳大寺殿町


(上)徳大寺殿町西側(下)東側の社会福祉会館「ペアーレ京都」
 徳大寺殿町で昔を偲べるものとしては町内の霊光殿天満宮社ぐらいのものでしょう。今出川通りは東西の
大通りにひとつで車の往来は頻繁で、かっての都の風情からは程遠い現代都市の一面を見せています。
 徳大寺殿町の北隣の町に上京区役所があり併せて徳大寺殿町には地域の福祉会館もできています。
 京都の町名は永い歴史を背負っているもので、何れの場所にも歴史が含まれています。入り組んだ
町並みにもそれぞれに過去の千年の歴史が有っての現在です。様変わりしていくのは地上の建造物だけ
でしょうが、無形文化財ともいうべき町名は、変貌しないことを望むところです。

霊光殿天満宮社の正面と境内の風景
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<竜安寺>

 徳大寺家の別荘は、現在の竜安寺ということになっています。もともと家名の基になっている「徳大寺」
なる寺院は平安中期から竜安寺付近に存在したようです。
 平安末期に後徳大寺左大臣の祖父に当たる左大臣藤原実能(1095〜1157)が、衣笠山西南麓に
山荘を営み、山荘内に「得大寺」を造営しました。其れ以来実能の家系は「徳大寺家」と称される
ようになり、子息の大炊御門右大臣公能(?〜1161)、さらには、孫の実定へと伝承されていったのでしょう。
 因みに西行法師は嘗て実能の家人をしていたことは言及しましたが、初代徳大寺左大臣実能亡き後、
縁りの「得大寺」を訪れて歌を詠んでいます。
 「なき人のかたみにたてし寺に入りて跡ありけると見て帰りぬる」
 「おもひおきし浅茅が露を分け入ればただわづかなるすずむしの声」

 左大臣実能建立後300年経った宝徳二年(1450)、時の権力者細川勝元が徳大寺山荘跡を譲り受け、
妙心寺第八世義天玄詔を開山に招いて竜安寺を創建しました。したがって竜安寺は妙心寺派の寺院で
あったのです。いまや竜安寺はその「方丈前庭枯山水式石庭」の京都古寺観光名所になっています。
東の清水寺や銀閣寺に対して西の龍安寺であり金閣寺と言うことになりましょうか。
 久しぶりで修学旅行気分になって竜安寺を訪れてみましょう。

大雲山竜安寺の鳥瞰図

「方丈前庭枯山水式石庭」のスケッチ拝観券


「石庭」を西から眺め、東からも数え、北から南面して鑑賞した情景
 さて、開祖の左大臣実能の時はどのような山荘別邸の結構をしていたのか不明ですが、石庭の風景では
なかったでありましょう。現存の境内の中で、造営当時の遺構は寺院の南にある「鏡容池」ではないか
と推測されています。西行法師も若いころ眺め、後徳大寺左大臣も月見をしたかも知れない池の畔に
佇んで、800年前の徳大寺の昔を偲んでみましょう。

竜安寺境内「鏡容池」風景(左)花菖蒲の池端(右)秋の落葉にうまる池面
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<林下集の「歌仙ども」>

 後徳大寺左大臣の和歌世界は私家集である林下集に盛り込まれています。詞書きで言及されている歌人
仲間を列挙しますと次のようになります。

  歌人名   人物概略      詞書き(歌番号)

 *藤原俊成 藤原俊忠の子息    皇太后宮俊成卿(1)三位としなりの卿(173)俊成入道(373)
       (藤原定家の父)   左京大夫としなり(184)皇太后宮大夫俊成卿(363)
                  俊成卿(18、60、66、111、144、165、192、218、
                      288、370)
 *西園寺公通 権大納言、入道前  按察使公通(2)
       太政大臣公経の父   公通卿(45、63、83、112、131、156、164、217、369)

 *小侍従  石清水八幡宮     大宮の小侍従(11、119、125、171、186、312、316、
       別当大僧都光            338、340)
       (藤原多子に出仕)  女房(311、315)
 *上西門院兵衛 神祇伯源顕仲女  上西門院・兵衛(局)(49、64、73、117、132、178、278
       当初待賢門院に出仕             281、290、310、325、326、329)
       後、上西門院に出仕  兵衛どの(180)女房兵衛殿(308)
       待賢門院堀河の妹
 *待賢門院堀河? 神祇伯源顕仲女  二条大宮ほりかは(故卿女也)(178)ほりかは(181)
 *源顕仲   左京大夫、神祇伯  中納言あきなか(140)
        上西門院兵衛父
 *源頼政  二条院讃岐の父    よりまさのあそん(む)(121、123、321、377)
                  右京大夫よりまさ(319)頼政三位(323)
 *藤原師光 後白河院の近習伝奏  小野宮侍従もろみつ(34、129)師光(35、130、379)

 *藤原成範  入道信西の子息   左兵衛督成範(299、300、324)
 *俊恵法師 (百人一首歌人)   俊恵法師(47、142、279)
 *徳大寺実家 実定の弟      とうの中将さねいへ(189)(303)
 *藤原敦頼 道因法師       敦頼(142) 
 *藤原清輔 (百人一首歌人)   清輔朝臣(261、267)
 *     (空寂との関わり?)  空仁(332、333)
 *三条実房 入道左大臣      三条大納言実房(21)
 *藤原為隆 (藤原為忠の子息)  寂超(55)
 *藤原隆信  寂超(為隆)の子息 右馬権頭隆信(142、285)
 *祝部成仲            日吉神主祝部成仲(336)
 *賀茂重康            賀茂神主しげやす(365) 
 *女房              斎院の女房(29)女房(302)
 *澄憲僧都            澄憲僧都(271、274)
 *                故右府(59、255)
 *                前左衛門かみ(187)
 *                故左大臣殿(251)
 *                新大納言実国(313、317)
 *                中宮大進重頼(51)
 *                新三位公保(254)
 *                左中将公光(254)
 *                大宮大盤所(255)大宮だいばんどころ(344)
 *                左宰相中将(266)
 *季通?             備後前司すゑみち(252)
 *(藤原公綱?)         少将きむつな(283)
 *                さねしげ(127)

 実定卿にとって「歌仙ども」とは、主として、次の数名です。
 男性では、藤原俊成、藤原公通、藤原師光、源頼政、女性では、待宵小侍従、上西門院兵衛であった
ことがわかります。
 待宵小侍従については、既に月見に旧都平安京へ戻ってきた実定卿の所(連載第197回「月見の都戻り」)
で面会しました。
 藤原師光は、平家物語「鹿ヶ谷」の所で展開されていく平家殲滅の陰謀にかかわり、発覚して、捉えられ
拷問の末、白状したあと、朱雀大路を引き回され、治承元年六月初め、あげくは斬首される運命を辿ります。
実定卿の歌仲間にしては、誠に悲惨な人生の締めくくりをしなければならなかったのです。後白河院に近習
伝奏として動き回った立場上、必然的な悲劇が待っていたというべきでしょうか。

 ここでは、西園寺公通と上西門院兵衛について、付言しておきます。

 西園寺公通(?〜1173)権大納言、歌人。母難波忠教女。
       家筋は藤原師輔子息・公季流で、師輔より四代末裔の権大納言公実の子息西園寺通季の
       男子になります。実定卿とほぼ同時代人とみなしてでしょう。
       通季ー実宗ー公経と繋がっています。また公経の姉は藤原定家室になっていますから、
       御子左家とも関係があるわけです。  
 上西門院兵衛(?〜1183?)神祇伯源顕仲女。待賢門院堀河の妹。姉妹に歌才のある人物が多い。
       はじめ待賢門院に出仕。久安五年(1149)右衛門督家成歌合や久安百首に出詠。
       実家、実定、隆信、西行らと親交があった。私家集もあったらしい。金葉集初出。

 なお、源頼政は二条院讃岐の第59回の参考メモにて、また俊成は
当該連載の最終段階で言及する予定です。
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<郭公何処へ>

 後徳大寺左大臣は歌人としてもその生涯に多くの歌合わせに出詠しており、住吉社歌合、広田社歌合ほか、
何れも「歌の風情は気高く、面白く艶なる様も具したる」歌い振りを評価されています。
 勅撰集には千載和歌集を初出として計79首ばかり入集しているという実力歌人であったことが分かります。
 主として千載集に17首、新古今集に16首、新勅撰集に9首採られていますから、この三集で、半数以上に
なります。「ほととぎす」と「有明の月」を読み込んだ百人一首の歌は、千載集巻三・夏・161番歌です。
 これら三集の中には「ほととぎす」を詠んだ歌がそれぞれ一首づつ見いだせることも面白いところです。

 千載集  巻三 夏 161番歌 「ほととぎすなきつるかたをながむればただありあけの月ぞ残れる」
      (林下集 71番歌)      
 新古今集 巻三 夏 219番歌 「をざさ吹くしづのまろやのかりのとを明け方に鳴く時鳥かな」
      (林下集 72番歌) 
 新勅撰集 巻三 夏 161番歌 「郭公雲の上より語らひて問わぬに名乗る曙の空」

 林下集における「郭公歌とて」上述の二首に加えて、後三首収録されています。
       林下集 68番歌 「おもひねの夢に鳴きつる時鳥やがてうつつにこえぞきこゆる」
       林下集 69番歌 「時鳥なれも昔のこひしきか花橘の枝にしも鳴く」
       林下集 70番歌 「ながむれば有明の月にかげみえていづちゆくらん山時鳥」

 林下集71番歌(百人一首歌)では、時鳥を見逃しましたが、70番歌では確かに時鳥の姿をとらまえる
ことができたと自慢しています。なにか花札の挿し絵でも見ているような印象を受ける歌い方です。彼は
本当に時鳥を恋いこがれているらしい一連の「郭公歌」です。
 実定卿が詠んだ鳥は外に鶯(千載集・巻一・春上・27番歌)や千鳥(新古今集・巻六・冬・645番歌)
などですが、時鳥はことのほかお気に入りの鳥であったようです。したがって、定家が実定卿の百人一首の
歌として、時鳥と有明の月を選んだのも当を得ていると言うべきでしょう。
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