敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 198 回  *** 第81番・その3 ***
*****  後徳大寺左大臣ー大原御幸  *****

目    次
<平家物語・潅頂巻> <建礼門院徳子> <寂光院>

百人一首・第81番 ほととぎすなきつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる



























百人一首歌かるた後徳大寺左大臣画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「日本の古典別巻1−百人一首」(世界文化社)1982年)

<平家物語・潅頂巻>

 平家物語の中で、後徳大寺左大臣こと藤原実定卿は、六個所ほどに登場してくるのですが、
物語を締めくくる「潅頂巻」では主役である建礼門院徳子と後白河法皇の脇役として、実定卿が語られて
います。しかし文章を追って行きますと、殆ど主役の如き物語の語り手のようになっています。

 平家物語の時代背景と藤原実定卿の人生はほぼ重なっています。即ち平家物語の年代は、1131年から
1191年の60年間を語っています。一方、実定卿の人生は、1139年から1191年ですから、「平家物語」を
支えている影の人物は何人もいるでしょうが、実定卿が「影の主役」のひとりであるかも知れません。

 巻第一 殿上闇討  「・・・忠盛備前守たりし時、・・・三十三間堂の御堂を建てて、・・・
            供養は天承元年(1131)三月十三日なり。」
     実定卿   保延五年(1139)生まれる。同年清盛嫡男重盛誕生。

 潅頂巻 女院御往生 「・・・限りある御事なれば、建久二年(1191)きさらぎの中旬に
            一期つひに終らせ給ひぬ・・・・」
           史料では、建暦三年、または建保元年(1213)(57歳)没あるいは
           貞応二年(1223)(61歳)などいろいろに伝えられています。
     実定卿   入道如円建久二年12月逝去・53歳

 平家物語の語りからしますと、建礼門院徳子と実定卿は同年に去っていったことになります。平家物語の
脚本家からしますと、巻末の脇役と主役は共に去ってもらわないと物語が終わらないから敢えて史実とは
ことなる建久二年を物語り締めくくりの年にしたのかも知れません。

 平家物語潅頂巻の「大原御幸」に藤原実定卿は同行しています。
 後白河法皇が平清盛娘で高倉帝皇后となり安徳天皇の母となった建礼門院徳子の出家先である
大原寂光院を訪れたのは「文治二年の春の比、・・・」「比は卯月廿日余りの事なれば、・・・」
(1186)です。

 「供奉の人々は、徳大寺、花山院、土御門以下、公卿六人、殿上人八人、北面少々候ひけり。
  鞍馬通りの御幸なれば、彼の清原深養父が補陀洛寺、小野の皇太后宮の旧跡を叡覧ありて、
  其れより御輿に召されけり。・・・」

 大原への道筋は八瀬経由の若狭街道(国道367号線)と鞍馬街道を静原および江文峠経由する
方法がありますが、後白河法皇の御幸は後者の道で、都の内裏より大凡四里ほどの路をとったようです。
目的は道中の名所旧跡を観ることにあったのでしょう。

(左)洛北の大原、鞍馬への道筋(右)大原寂光院付近の地図
 寂光院に到着した後白河法皇一行の様子が寂光院の風景と共に語られています。芝居の進行のように
主役は簡単には登場させないのです。脇役の建礼門院に仕える阿波内侍が先ず登場します。

 「法皇、「人やある、人やある」と召されけれども、御いらへ申すものもなし。遙かにありて、
  老い衰へたる尼一人参りたり。」その尼は、改めて名乗り、法皇と言葉を交わします。
 「申すに付けても憚りおぼえ候へ共、故少納言入道信西が娘、阿波の内侍と申し者にて
  候ふなり。・・・・」
 「されは、汝は阿波内侍にこそあんなれ。今更御覧じ忘れける、唯夢とのみこそ思食せ。」

 そして「さる程に上の山より、濃き墨染めの衣きたる尼二人、岩のかけぢを伝ひつつ、」主役が
登場します。
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<建礼門院徳子>

 いよいよ「平家物語」の最後の涙を絞るところです。女院の独白は次の通りです。 
 
 「さこそ世を捨つる御身といひながら、いまかかる御有様を見え参らせむずらん恥づかしさよ。
  消えもうせばや」
 「・・・山へも帰らせ給はず、御庵室へも入らせ給はず、御涙に咽ばせ給ひ、あきれて
  立たせましましたるところに、内侍の尼参りつつ、花がたみをば給はり・・・」
 「・・・泣く泣く御見参ありけり。」

 そして平家物語では、「六道之沙汰」の節に、綿々たる主役二人「建礼門院」「後白河法皇」の
会話が展開され、平家物語の中心思想が述べられてゆきます。
 脇役の幕引きの時が近づいてきました。物語の最終段「女院御往生」に物語り最後の登場人物で
ある建礼門院と左大臣実定卿の歌の応答になります。

 「さる程に寂光院の鐘の声、・・・夕陽西に傾けば、・・・御涙おさへて還御ならせ給ひけり。」
 「御幸の御供に候はれける徳大寺の左大臣実定公、御庵室の柱に書き付けられけるとかや。
   いにしへは月にたとへしきみなれどその光なき深山辺の里
  こし方行く末の事共覚しめし続けて、御涙に咽ばせ給ふ折しも、山郭公音信ければ、女院、
   いざさらばなみだくらべん時鳥我も憂き世にねをのみぞ鳴く                       」

 実定卿が後白河法皇のお供をして大原を訪れてから、800年以上経った現在、大原の里は今も
平家物語当時の世界を保っているように見えますが、「来る人希なる所なり」し、女院の庵の跡も
観光の人々が平家物語の世界を求めて春夏秋冬、押し寄せてくる観光地と化してしまいました。
 大原では、高野川の東側にある三千院と西側にある寂光院の両寺が観光寺院の看板になっていますので、
観光で生計を立てている里人も多いわけです。

 この世で天国も地獄も体験した建礼門院徳子は阿波の内侍に看取られて「建久二年(1191)きさらぎ」の
中旬に「一期遂に終らせ給ひぬ。」正しく波乱の生涯の幕を引いたわけですが、御陵は寂光院の傍ら
大原西陵に、最後の主役の一方、後白河法皇は、京市中三十三間堂近くに葬られました。

(左)建礼門院大原西陵(右)大原西陵から大原の里を望む
 建礼門院の寂光院での生活は次のように記されています。

 「さて寂光院の傍らに、方丈なる御庵室を結んで、一間をば御寝所に定め、一間をば仏所に定め、
  昼夜朝夕のお勤、長時不断の御念仏、怠ることなく月日を送らせ給ひけり。」

 その心境を述べて、
 「おもひきや深山の奥に住ひして雲井に月をよそに見んとは」

 現代の観光事情を知れば、
 「おもひきや深山の奥の大原に観光客の群を見んとは」
 ということになるのでしょうか。
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<寂光院>

 京都市左京区大原は、嘗て山城国愛宕郡大原村でした。この地は、京都から花折峠を越えて、琵琶湖畔
から安曇川を遡って、北陸への玄関である敦賀や小浜への交通要路・若狭街道沿いに位置してきました。
地理的には比叡山の麓にあるため延暦寺の影響下にあり、三千院(円融院)、往生極楽院、勝林院や
寂光院など天台宗の名刹が多い所です。
 これまでの連載の中で大原に関係の有る百人一首歌人としては、在原業平(惟喬親王)、良暹法師、
西行法師、後鳥羽天皇、順徳天皇の方々です。
 大原の風景については既に連載第72回良暹法師ー大原の里の所で言及いたしました。
 惟喬親王、良暹法師、後鳥羽院、順徳院、三千院、勝林院や往生極楽院などは叡山麓の高野川の東側に、
西行法師ゆかりの「朧の清水」や寂光院は西側の左京区大原草生町にあります。

 開基は空海説、あるいは良忍説がありますが、古くは聖徳太子を草創とするのが寺伝です。したがって
本堂本尊は聖徳太子作の地蔵菩薩で、他に建礼門院木像や平家一門からの書簡で作ったという阿波内侍
張り子の像も祀られているとのこと。
 
 平家滅亡の文治元年(1185)当寺に身を寄せた建礼門院のあと、一時寂光院は衰退しますが、それから
400年ほど後の慶長年間(1596〜1615)に淀君の本願により、片桐且元が堂宇を再建しています。
 都名所図会を添付しておきます。

日本名所風俗図会(京の巻)(角川書店)より

(左)寂光院庭内風景(右)庵室からの庭園風景
 後白河法皇が訪れたときの寂光院風景について、平家物語では次のように記されています。

 「ふるう作りなせる前水、木立、よしあるさまの所なり。・・・庭の若草しげりあひ、青柳糸を
  乱りつつ、池のうきくさ波にただよひ、錦をさらすかとあやまたる。中島の松にかかれる藤なみの、
  うら紫にさけるいろ、青葉混じりの遅桜、初花よりもめづらしく、岸のやまぶき咲き乱れ、八重たつ
  雲のたえまより、山郭公の一声も君の御幸を待ち顔なり。」
 叡覧の御詠みは次の通りです。

 「池水にみぎはのさくら散りしきてなみの花こそさかりなりけれ」

 「女院の御庵室を御覧ずれば、」次のような風景描写となります。
  
   軒には蔦菫這ひ掛かり、   信夫混じりの忘れ草、
     (あさがお) ・・・・
   杉の葺き目もまばらにて、  時雨も霜もおく露も、
   漏る月影にあらそひて、   たまるべしともみえざりけり。
   うしろは山、前は野辺、   いざさ小笹に風さわぎ、
   世にたたぬみのならひとて、 うきふししげきたけ柱
   都の方のことづては、    まどほに結へるませがきや、
   わづかに事問ふものとては、 峰に木づたふ猿の声、
   賤が爪木の斧の声、    これらが音信ならでは、
   正木のかづら青つづら、   来る人希なるところなり。 

 後白河法皇に侍した「後徳大寺左大臣」は、如何なる感慨を持ってこの寂光院の境内風景を眺めた
ことでしょうか。平家物語には、和漢朗詠集が引用されていましたが、実定卿も同じ様な連想をされた
かもしれません。

   叙景文その一  甍やぶれて霧不断の香をたき、
           枢(とぼそ)おちては月常住の灯をかかぐ

   叙景文その二  瓢箪しばしばむなし 草顔淵が巷にしげし
           藜てう深く鎖せり  雨原憲が枢(とぼそ)をうるほす
            (和漢朗詠集 下・草 橘直幹、 本朝文粋・六・奏状)

           (訳文)賢才(顔淵や原憲)が屡々悲惨な生活に安んじた例がある。
               顔淵は瓢(飲み物用の器)箪(食べ物用の器)に入る
               飲み物や食べ物も時には欠乏した。
               原憲の家は、あかざ(れいちょう)の生い茂るに任せ、
               雨が戸口のとぼそをうるおすほどだった。
           (出典:川口久雄「和漢朗詠集」講談社学術文庫325)
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「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八一話一視覚と聴覚ー
併せて御覧願います。

平成16年11月14日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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