敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 197 回  *** 第81番・その2 ***
*****  後徳大寺左大臣ー月見の都戻り  *****

目    次
<福原新都> <浅茅が原> <「待つ宵の小侍従」と「ものかはの蔵人」>

百人一首・第81番 ほととぎすなきつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる



























百人一首歌かるた後徳大寺左大臣画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「日本の古典別巻1−百人一首」(世界文化社)1982年)

<福原新都>

 厳島神社詣に続いて、「平家物語」で徳大寺左大將実定卿が登場するのは、巻第五「都遷」「月見」
辺りの節になります。
 「治承四年(1180)六月三日、福原へ行幸在るべしとて京中ひしめきあへり。」の文章で始まります。
 この頃の世情は、正に風雲急を告げる事態が立て続けに興り、国中が争乱の世界へ突入しつつある
実体験し始めた時期であったのです。前年の十一月に、後白河法皇との折り合いが芳しくなくなった
清盛・相国入道は、大挙して福原から都へ押しかけて、法皇を鳥羽殿に幽閉し、公卿反勢力を一掃して
平家一門で体制を強引に固めてしまいました。

 翌年の治承四年春には、娘徳子を中宮に入内させた高倉天皇を名目だけの上皇として院政を布かせ、
代わりに外孫の安徳天皇を即位させ、実態は清盛がすべてを押さえてしまいました。この独裁体制に
対して、まず四月に高倉上皇の兄以仁王が反旗を翻し、五月には源頼政が挙兵し、八月に関東では、
源頼朝と平氏の「石橋山の戦」十月に「富士川の戦」となり、九月には北陸で木曽義仲が挙兵するという、
源平戦乱の初年度となりました。こんな騒然とした中で、清盛は福原遷都を強行したのです。
 「中宮、一院、上皇、御幸なる。摂政殿を始め奉て太政大臣巳下の公卿殿上人、我も我もと
  供奉せらる。三日福原へ入らせ給ふ。・・・」

 六月初めの都移りの命で、安徳天皇・高倉上皇・後白河法皇の後について、不承不承、「福原新都」
への民族移動がはじまりかけたのですが、気持ちは未だに離れがたい「平安京」に置き去りにしてきた
人々ばかりであったのです。したがって、「平家物語」の語りも次のようになるのです。

 「延暦十三年十一月二十一日、長岡の京より、この京へ移されてのち、帝王三十二代、星霜は三百
  八十余歳の春秋を送り迎ふ。・・・中にも此の京をば平安城と名付けて平らかに安き都と書けり。
  最も平家の崇むべき都也。先祖の御門の、さしも執し思食されたる都を、させる故なく、他国他所へ
  遷さるるこそあさましけれ。・・・一天の君万乗の主だにも移し得給はぬ都を、入道相国、人臣の
  身として、移されけるぞ怖ろしき。・・・」
 
 この遷都計画が如何に唐突で、十分練られたものでなかったか、新都建設計画実行委員会ともいうべき
公卿連のあわてふためき振りが次のように「平家物語」に記されています。

 「・・・新都の事始め有るべしとて、上卿には徳大寺左大將実定卿、・・・・官人共召し具して、
  和田の松原の西の野を点じて、九條の地を割られけるに、一条より下五條までは、其の所あて、
  五條より下はなかりけり。行事官帰り参て、此の由を奏聞す。さらば播磨の印南野か、なほ
  摂津国の児屋野か、などいふ公卿詮議有りしかども、事行くべしとも見えざりけり。・・・」

 なんともこんな無計画なやり方は、将に無謀の一言です。もともと都の候補地に充分な土地や諸条件が
整っているのか、事前に十分調査確認した上で行うべき国家的行事であるのに、事態を見切り発車させて
から、実は列車の行き先にレールが敷かれていなかった、というに等しいことです。
 「後徳大寺左大臣」殿も当時は本当にどうなるものかと、行く末には不安でいっぱいであったでしょう。
 この遷都実行委員会の席上での「徳大寺左大將実定卿」の顔こそ、後世百人一首の歌を捩って詠まれた
次の狂歌がぴったりです。
 
 「時鳥啼きつる後に呆れたる後徳大寺の有明の顔」(四方赤良) 

 福原新都とは、如何なる規模の、如何なる内容のものであったのでしょうか。
 現在神戸市兵庫区内に清盛の別業「雪見御所」があったとされる雪見御所町(雪見御所旧跡記念碑は
湊山小学校内にあり)を始めとして、その周辺各地には、当時の福原新都の中心になったであろうと
思われる関連地が挙げられています。
 例えば「荒田八幡神社」は安徳天皇の行在所で平頼盛邸が在ったところとされ、「史跡安徳天皇
行在所址」であり、「平頼盛山荘址」として福原遷都八百年(1980年)記念碑が建てられています。
 そのほか、王城鎮護のために紀州熊野権現を祀った熊野神社、あるいは後白河法皇の御所となった
平教盛邸宅跡の氷室神社も関連地とされています。

「福原新都」旧跡関連地域図

荒田八幡神社正面と境内の記念碑

(兵庫区湊山小学校校内)雪見御所旧跡碑(左)(表面)(右)(裏面)

(左)熊野神社(兵庫区熊野町)(右)氷室神社(兵庫区夢野町)

(左)祇園神社の鳥居と参道の石段(右)舞楽殿と拝殿(兵庫区上祇園町)

祇園神社境内より(左)幻の「福原新都」跡地(右)大輪田泊り方面を望む
(引用資料:日下力監修「平家物語を歩く」ー古典文学に出会う旅ー講談社(1999年2月))
 このように強行された遷都ですから、当然その成りゆきは見えています。案の定、わずか170日後、
十一月十日、さすがの相国入道も「還都」を不承不承認めざるを得なくなりました。
 これでは、「福原新都」と言うに相応しくない、短期の「福原騒動」としか言えないのでは
ないでしょうか。歴史的事態として「福原遷都」というべきでないという歴史研究者もいるようです。

 さて、天皇以下関係皇宮、公卿、貴族連やその取り巻き集団をさんざんに中途半端な不安定な
事態に連れ込んだ清盛自身は、元の京の都に戻るなり、高熱に悩まされ亡くなります。時に治承五年
(養和元年)64才でした。 
目次に戻る

<浅茅が原>

 このような状態での福原新都に於ける「後徳大寺左大臣」も精神的には、誠に不安定な環境にさらされて
いたことが、次の「平家物語」の節「月見」は、当時の月見の名所と共に実定の都戻りを次のように
記しています。

 「・・・やうやう秋も半ばになりゆけば、福原の新都にまします人々、名所の月をみんとて、・・・・
  (名月の各所)(下記・参考メモ参照方)・・・・の月を見る。
  其の中に徳大寺左大將実定卿は、旧き都の月を恋ひて、八月十日余りに、福原よりぞ上り給ふ。
  何事も皆変わり果て、希に残る家は、門前草深くして、庭上露滋げし。蓬がそま、浅茅が原、
  鳥のふしどと荒れ果てて、虫の声々恨みつつ、黄色菊紫蘭の野辺とぞなりにける。故郷の名残とて、
  近衛河原の大宮ばかりぞましましける。・・・」

 (参考メモ)上記の原文引用個所において、(名月の各所)とは、次のように列挙されているのです。
       これによって「平家物語」が執筆されたとされている建久年間(1190〜1199)から
       建保年間(1213〜1219)当時の名月観賞場所は何処であったかが分かります。
 
     須磨より明石の浦伝ひ・・・・・・「源氏の大将の昔の跡をしのびつつ」(福原の西隣)
     絵島が磯の月・・・・・・・・・・「淡路の瀬戸を押し渡り」(淡路島北端)
     白良、吹上、和歌浦・・・・・・・(茅渟の海を渡っての紀州方面)
     住吉、難波・・・・・・・・・・・(福原から難波方へ渡っての摂津国内)
     高砂、尾上の月・・・・・・・・・(福原の西隣の国・播磨方面)
     伏見、広沢の月・・・・・・・・・「旧都に残る人々」(都の南と北地区の主要場所)  

 結局実定卿は、秋の月見と称して、その実、都恋しさと親しい人々恋しさに「月見の都戻り」したと言う
わけです。一旦新都に移動したからには、もはや旧都の中でくつろげる場所とては、未だ都に残っている
肉親だけで、彼の立ち寄り所は結局実の兄妹であり、第76代近衛天皇皇后にして第78代二条天皇皇后で
ある二代后藤原多子(「平家物語」では、巻第一「二代后」の節に言及されている人)の元へ行ったと
いうわけです。
 藤原多子(保延六年・1140〜建仁元年・1201)は、右大臣藤原公能第三女で、母は中納言藤原俊忠の
女豪子ですから、百人一首の藤原定家の家系に近いわけです。定家の父俊成は権中納言太宰師俊忠の
子息ですから、実定は俊成と叔父さんと甥の関係になり、定家とは従兄弟に当たります。実定卿私家集の
「林下集」に頻度高く俊成卿が記されている理由も分かるというものです。(連載「実定の風景」で
藤原俊成に言及します。)

 さて、その藤原多子のことを平家物語「二代后」の節では次のように語られています。

 「・・・故近衛院の后、太皇太后宮と申ししは、大炊御門右大臣公能公の御娘なり。先帝におくれ
  奉らせ給ひて後は、九重の外、近衛河原の御所にぞ移り住ませ給ひける。
  ・・・しかれども、天下第一の美人の聞こえましましければ、主上色にのみそめる御心にて、・・・
  この大宮へ御艶書あり。・・・」

 ということで、取り巻きの公卿連では、なにかと論議がかわされたが、結局、世間で云う再婚に
漕ぎ着けてしまったために「二代」に渡る「后」となってしまったというわけです。将に前代未聞の
先例を作ってしまったことになります。

 さて、この「近衛河原」の「月見」の場所は何処かと云いますと、上京区近衛殿北口町辺りと推定
されています。(引用資料:日本古典文学全集「平家物語」1巻第一・二代后、52頁)

「近衛河原の御所」旧跡関連町内図

近衛殿北口町付近の風景
 この街の一画は今出川通とその通りから一本北側の上立売通の間で、南北の通りでは、烏丸通りと
堀河通りに囲まれた地区になり、具体的な目安としては、同志社大学新町校舎の西側一帯ということに
なります。今出川通り沿いには、辻一つ東に上京区役所があり、その西側にはかの飛鳥井雅経の
邸宅跡とされる白峰神宮があります。
 平安京の大内裏北東角地にあたるところで、大極殿に非常に近い「旧都」のほぼ中心地とは言いながら
実定卿が「都戻り」した時、この付近の風景を「平家物語」は前述のように「・・・草深くして、庭上
露しげし。蓬がそま、浅茅が原、鳥のふしどとあれはてて、・・・」しまっていたと記し述べています。
 都の中心でこの有様ですから、周辺の都の中と言えども、おしてしるべしで、もはやかっての都とは
言えないような荒れ野同然であったのでしょう。廃墟とは斯くなるものでしょう。

 かっての荒れた廃墟も800年経った平成の現在では、京都の市街地になってしまっていて、しかも
正に立錐の余地なく居住建造物で埋め尽くされて、人や物の往来させ不自由を感じるような混雑振りに
なっています。町並みの環境にあっては、荒れ野も困りましょうが、混在する町並みも息苦しさを感じる
ほどでは、これ又住みつらいものです。
 「近衛河原の御所」など平安京大内裏周辺に関係の深い実定卿、雅経卿(白峰神社)さらには東隣の
相国寺に眠る定家卿などが現代に戻ってきたら何と感じ、何と思うでしょうか。夢の中でもこの地で対面
して、御高見を拝聴してみたいものです。
目次に戻る

<「待つ宵の小侍従」と「ものかはの蔵人」>

 さて、「近衛河原の御所」で、久しぶりに再会した妹(多子)と兄(実定)はどのように言葉を
交わしたのでしょうか。対面の子細が「平家物語」に展開しています。

 「・・・大将さらばとて、東の門より参られけり。大宮は御つれづれに、むかしをやおぼしめし
  いでさせ給ひけん、南面の御格子をあげさせて、御琵琶あそばされけるところに、大将参られ
  たりければ、「いかに夢かうつつか。これへこれへ」とぞ仰せける。」

 この大宮の御所には「待宵の小侍従といふ女房も、・・・候ひける。」ので、
 「・・・大将、かの女房よびいだし、昔今の物語りして、さ夜もやうやうふけ行けば、ふるき都の
  あれゆくを、今様にこそうたはれけれ、

   ふるき都にきてみれば あさぢが原とぞあれにける
   月の光はくまなくて  秋風のみは身にはしむ

 と三反うたひすまされければ、大宮をはじめ参らせて、御所中の女房たち、みな袖をぞぬらされける。
 さる程に夜もあけければ、大将暇申して福原へこそかへられけれ。」

 何とも侘びしい、又悲しい「月見の再会」であったのでしょうか。
 此処に引用されている今様は、後徳大寺左大臣実定卿が即興かとして詠ったと云うことになっています。
 「梁塵秘抄」の巻頭歌になっても良いくらいの調べを持っています。

 さて、この「平家物語」「月見」の段では、荒野の旧都内に残っている荒れ果てた邸における侘びしい
姉弟再会を述べるに、貴族文化の代表である和歌世界の挿話を持ってきて「荒びに」「彩付け」をして
います。すなわち、ひとりは「待ち宵の小侍従」であり、もうひとりは「ものかはの蔵人」の逸話であるの
です。
 (待宵小侍従の曰く付き)
 「待宵の小侍従といふ女房も、此の御所にぞ候ひける。この女房を待つ宵と申しける事は、
  或る時御所にて、待つ宵、帰る朝、いづれかあはれはまさる」とおたづねありければ、
    待つ宵のふけゆく鐘の声きけばかへるあしたの鳥はものかは
  とよみたりけるによってこそ、・・・」

 (ものかはの蔵人の曰く付き)
 「御ともに候蔵人を召して、「侍従があまりなごり惜しげに思ひたるに、なんぢかへって、
  なにともいひてこよ」と仰せければ、・・・
    物かはと君がいひけん鳥のねのけさしもなどかかなしかるらん
  ・・・それよりしてこそものかはの蔵人とはいはれけれ。」
   
 待宵小侍従の詠んだ歌「待つ宵の・・・」は、当時相当宮廷和歌世界で有名であったとみえます。
 小侍従自身が渾名として「待つ宵」と付けられ、歌の贈答をした相手が、わざわざ「待つ宵の・・・」
の歌を意識して返歌している所を見ても分かります。

 実定卿が「月見に都戻り」したとき、わざわざ実妹との再会の席に小侍従を呼び寄せたのは、
それの相当期間、彼女との思い出の過去があったからではないでしょうか。
 私家集「林下集」(379首)では、実定卿に関係した十数名もの多くの歌人仲間が詞書き記されて
いますが、なかでも女性連では上西門院兵衛(十三首)と共に小侍従は八首に言及されています。

 ー月あかかりし夜むめの花のえだをりにつけて、大宮の小侍従がもとへ申しおくりし
 「はるのよの月にながむるむめのはないろもにほひもかくれざりけり」(11番歌)
 ー返事
 「あやなしといひけんはなのいろもかもしるひちからに月やみすらん」(12番歌)

 福原の都より旧都に戻って「大宮」(姉多子)のおられる「近衛河原御所」で月見をしたときに
嘗て小侍従と交わしたこれらの月見の時の歌をお互いに思い出していたのではないでしょうか。
 月見にも多くの昔の思い出を持っていた二人の関係であったのですが、それは一度や二度の月見の宴
だけではなかったようです。続いて私家集には次の月見の歌のやりとりが収録されています。

 ー八月十五夜に大宮に参りてはべりしに こじじゅう
 「いまこそはうれしかりけれあたらよの月をといひてねなましものを」(119番歌)
 ー返ごと
 「あたらよの月をとげにぞおもはましきみもろともにながめざりせば」(120番歌)
 
 詞書きのみ拾い出してみますと次のようになります。
 (125番)小侍従がもとより、ひごろ山ざとにはべりしにきくなんうつろひすぎにけるとて、
      をりてそへてはべりし 
 (126番)返し
 (171番)ゆきのあしたにこじじゅうが申しおくる
 (172番)返こと
 (186番)おなじうたをこじじゅうがもとへもつかはしたりしかば
 (311番)内裏にてよもすがら女房にかたりあかして、あしたに申したりし
 (312番)返事 小侍従
 (315番)内裏にまゐりて侍りしに、主上の御笛万歳楽ふかせたまひしをはじめてうけ給はりて、
      女房の中に申したりし
 (316番)返事 小侍従
 (338番)ひさしうおとづれぬよしなど申して
 (339番)返ごと
 (340番)こじじゅう大宮をうかるべきさまに申ししころ、まぜくだもののかみたてにかきつけて
      つかはしし
 (341番)返し

 これらの詞書きから実定卿と小侍従の昵懇の関係が浮かんできます。ある説ではふたりに浮いた話しが
あったのではないかとされていますが、女が十八才年上という年齢差と各々の立場を考えると、どうも
主家に出仕する女房とその親戚筋という「親しい間柄」以上の何物でもなかったのではと思われます。    
 小侍従研究家のホームページサイト(辛酉夜話 太皇太后宮小侍従ノート 三五章 小侍従と平忠度・
藤原実定)(http://homepage2.nifty.com/H-Suga/tkk36.html)でも
 「このため小侍従と藤原実定の間は色々推測される。・・・浮いたことなどありえないのではないか。
  ・・・才能有る人を好んで身分を越えてそれらの人々と交わりをもったのであろう。したがって
  そのような推測を生んだとおもわれる。
  ・・・実定にたいして、丁重すぎるほどの敬意を払っており、男と女の関係ではないことを示すものと
  みる。小侍従の愛人であった内大臣久我雅通に対する和歌の詞書きと比較すれば明らかである。
  ・・・小侍従にとって藤原実定は徳大寺家の当主として宮廷生活における庇護者であったと
        思われる。」
と想定されています。
 その代表的な実証として、小侍従が治承元年(1177)12月27日大納言実定が左大將に任ぜられた時、
次の祝歌を捧げているのです。

 「さきにけりみかさのやまのこずゑまでこの身をかくる藤のしるしは」(小侍従集 120番歌)
  (歌意)わたくしが頼りにする藤原氏のあなたはこの度近衛大将(御蓋の山の木末)の光栄に
      輝かれました。おめでとうございます。
 
 ちなみに待つ宵小侍従の墓とされるところが、京都府と大阪府の境・三島郡島本町内の名神高速道路
沿いの堤にあります。そこには顕彰した高槻藩主永井氏の顕彰碑が建っています。
 待宵小侍従は石清水八幡別当紀光清の娘とされていますから、山崎辺りに縁があるのでしょうか。

(左)待宵小侍従墓所のある島本町の地理(右)待宵小侍従記念碑

(左)名神高速道路脇の墓所付近の風景(右)墓碑
 名神高速道路の建設によって待宵小侍従の記念碑は少し移動させられたようです。しかし、自動車が
頻繁に行き交う高速道路脇の土手に移されていますので、とてものんびりと永眠できるような所では
ありません。
 この地域は西国街道に沿っており、かって福原と都を行き来した平安末期の源氏や平家の武将達、
あるいは都遷り後、都戻りなどしていた公達、さらには、「待宵小侍従」を恋人に持ったと書かれている
徳大寺左大將実定卿なども、ひょっとしますと山崎と難波までの往還途上、船の中から眺められた風景
です。その風景も今や淀川の船便や西国街道に代わって高速道路や鉄道網が敷かれ、車窓から眺める
景色になっているところです。 
目次に戻る

関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八一話一視覚と聴覚ー
併せて御覧願います。

平成16年11月8日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。
給料前でお金がない・・ 独自ドメインの取得をするなら 独自ドメインの取得をするなら
[PR] | RMT葬式 費用高崎浦安大井町新越谷中国SEO対策消費者金融車 買取テンプレート沖縄旅行免許合宿二輪引越しプレゼントゴルフ会員権留学レーシックマッサージFXアフィリエイトFXホームページ制作デイトレード海外現地情報ハワイ旅行タイバンコクハワイ レンタカーベスト ハワイ ホテル レーツバリ島Hawaii hotelsHawaii Activitiesbhhrハワイホテルテキスト広告
【運営会社「パラダイムシフト」サービス】 ハワイ現地オプショナルツアーリラックマ) - ビジネスクラス航空券 - 格安航空券(1) - 格安航空券(2) - 海外ホテル - 韓国旅行 - タイムシェア - ホテル 予約
無料ホームページ - 携帯ホームページ - 無料ホームページ作成 - レンタルサーバー - ブログ - ヴィラ - ハワイ コンドミニアム - バリ島 ホテル - プーケット ホテル - タイムセル - 口コミ - 格安国際電話 - ホノルルマラソン - サイトパトロール - 誹謗中傷 - 宿泊料金比較 - 口コミ