敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 196 回  *** 第81番・その1 ***
*****  後徳大寺左大臣ー徳大寺殿之沙汰  *****

目    次
<徳大寺家> <厳島詣の謀> <安芸の宮島参詣> (参考メモ)堂上家の系統分類

百人一首・第81番 ほととぎすなきつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる



























百人一首歌かるた後徳大寺左大臣画像
(出典:「日本の心ー百人一首」別冊太陽(平凡社)1972年12月
「日本の古典別巻1−百人一首」(世界文化社)1982年)

<徳大寺家>

 後徳大寺左大臣・藤原実定は、「奢れる平氏」から「武家政権の源氏」への時代の変わり目にあって
その流れをうまく泳ぎ切った平安末期の貴族ということになるでしょう。「ほととぎすの啼く音」にのんびりと
聞き入って「ありあけの月」をぼんやりと眺めていた詠歌からは、どうしても想像できない壮烈な時代の
せめぎ合いの渦中に身を投じつつも、何とか「徳大寺家」という貴族の一族の存在を維持したのです。
 己の人生を翻弄された当の平氏の総大将・平清盛と、方や源氏の総大将・源頼朝の人生に左大臣の
人生を対比させますと、次のような編年人物略歴になりましょう。
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西暦年本邦年度藤原実定平清盛源頼朝
1118元永元年父平忠盛・母平時忠女時子
(一説に後白河院落胤、母祇園女御妹説あり)
1121保安二年祖父正盛死去。
1129大治四年従五位下左兵衛佐
1131天承元年従五位上
1135保延元年父忠盛西国海賊討伐賞譲りで
従四位下叙位
1136保延二年父譲りで中務大輔
1137保延三年父熊野造営賞譲りで肥後守
1139保延五年右大臣公能嫡男・母権中納言藤原俊忠
(勧修寺葉室流)(北家長家流)
嫡子重盛出生
1141永治五年叙従五位下
1146久安二年叙従五位上正四位下中務少輔安藝守
一説に1151年(仁平元年)
(父忠盛刑部卿)
1147久安三年次男宗盛出生。 源義朝三男・母藤原季範女
1149久安五年任左兵衛佐父内蔵頭叙任
1151久安七年叙正五位下
1152仁平二年任左近権少将
1153仁平三年兼伊予権介忠盛没。平家棟梁。
1154仁平四年叙従四位下
1155久寿二年叙従四位上
叙正四位下
1156保元元年転左近権中将
叙従三位、左中将如元
非参議
保元の乱勃発。叔父(父の弟)忠正を破る。
勲功賞として播磨守
1158保元三年叙正三位
任権中納言
太宰大弐
1159平治元年平治の乱で、源義朝を討つ。義朝破れ、初陣の敗戦(13才)、
美濃国へ逃れるも捉えられる。
(斬刑のところ、清盛継母池禅尼の助命願による死を免れる)
1160平治二年年転中納言
1160永暦元年正三位・参議昇進、右衛門督伊豆蛭ヶ小島へ配流(14才)
1161永暦二年検非違使別当
伊勢公卿勅使、宇佐社参詣
父右大臣公能薨去
1162応保二年皇太后宮権大夫、叙従二位
1164長寛二年任権大納言
1165(長寛三年)
永万元年
辞納言、叙正二位
1166仁安元年東宮大夫、内大臣
1167仁安二年従一位太政大臣、重盛・大納言、宗盛・参議
1168仁安三年出家(相国入道)、高倉天皇即位
1169嘉応元年福原に後白河院を迎えて千僧供養。
1171嘉応三年
(承安元年)
大納言
1173承安三年大納言(僧文覚伊豆配流)
1175安元元年大納言北条時政に頼る
1177安元三年
(治承元年)
大納言還任
任左大將
(小侍従より祝歌)(後述連載「月見の都戻り」参照方)
清盛次男宗盛大将昇任
藤原成親・成経捕縛、配流
北条政子を娶る。
1178治承二年清盛女徳子に言仁親王(安徳帝)誕生
1179治承三年平重盛没。
福原京より上京、後白河方法を鳥羽へ幽閉
1180治承四年高倉上皇厳島御幸、安徳帝即位
福原へ遷都
以仁王令旨で、伊豆にて挙兵、
石橋山の戦い, 富士川の戦い
1181養和元年高倉上皇・清盛没(64歳)
中宮徳子・建礼門院
(平重衡東国へ、頼朝追悼進発)
1183寿永二年任内大臣、左大將如元
木曽義仲により藤原師家に据え替えらる。
停内大臣左大將
従五位下右兵衛佐復位
(木曽義仲入京、後鳥羽天皇践祚)
1184寿永三年還任内大臣、左大將如元東海・東山道行政権授与さる。
(義仲戦死、一ノ谷合戦)
(後鳥羽帝即位)
1185文治元年平氏没。頼朝により議奏公卿任命 守護・地頭体制を布く。
(屋島合戦、壇ノ浦合戦)
1186文治二年転任右大臣、後白河法皇大原御幸
(藤原兼実・氏長者・摂政)
藤原兼実を支援。
1187文治三年記録所設置。(義経奥州へ。藤原秀衡死す。)
1189文治五年転任左大臣正二位叙位、義経を追伐。
阿津賀志の戦いー奥州藤原氏討伐
1190建久元年辞任上表上洛、後白河法皇に謁見。参内、言大納言・右近衛大将叙位
1191建久二年入道如円、12月逝去(53歳)(鎌倉幕府)政所設置
1192建久三年(後白河法皇薨去)征夷大将軍・武家政治の・鎌倉幕府/td>
1193建久四年範頼追討
1199正治元年頼朝没(53歳)源頼家家督相続
 時の権力者平清盛に取り入って政界での地位を確保し、清盛没後は新勢力源頼朝に迎合して、後白河
法皇の元に、自らの生きる道を模索し、波乱の時世での世渡りを展開した実定の挙動は、「平家物語」に
記されています。
 まず、最初に登場するのは、巻一・鹿谷のくだりです。

 「・・・時に(実際は安元三年)徳大寺の大納言実定卿、
  その仁(妙音院太政のおほいとの・内大臣の左大将の後任)に当たり(相応しい人物)給ふ由
  聞ゆ。・・・」
  (註)平家物語の流れから「時に」とは「嘉応三年・1171(承元元年・4月改元)」となる
     ところですが、実際の妙音院(宇治左大臣頼長二男師長)除目は嘉応三年から六年後の
     安元三年・1177となっています。そして、後任は清盛の次男宗盛が執りました。

 「・・・其比(そのころ)の叙位除目と申(す)は、・・・平家のままにてありしかば
  徳大寺(大納言実定)、花山院(中納言兼雅)もなり給はず、・・・(清盛の)次男宗盛
  右(右大將)に加はられけるこそ、申すばかりもなかりしか。中にも徳大寺殿は、一の大納言にて、
  華族、英雄、才学雄長、家嫡にてましましけるが、越えられ給けるこそ遺恨なれ。定めて御出家
  などやあらむずらむと、人々内々申(し)あへりしかども、暫く世のならん様を見んとて、大納言を
  辞し申(し)て、籠居とぞ聞えし。・・・」
  
 平家物語の叙述に依りますと、実定卿は清盛次男宗盛(1147〜1185)に官職の序列を越されて出世
されたので、不満やるかたなく、大納言の地位を辞して引きこもってしまったのです。後から何の
苦もなく昇ってきた平家の若者(8才年下)に先を越されて右大將の地位を取られてしまったことで、
世間の噂通り拗ねてしまったというわけです。
 当時の貴族社会にあっては、いかなる政治的行動をとるかが重要でなく、自らの官位が何処まで
あがるかが最大の関心事でしたから、実定の宮廷活動への緊張と意欲が失せてしまったのもやむを
得ないことでしょう。よほど人物のできた貴族であるか、もしくは、力のある摂関家に属していなければ
どうしようもない運命ですから、この点では、実定も有職故実の確固たる貴族社会の枠内に組み込まれた
いま一歩一流に及ばない貴族育ちであったと言わざるを得ません。

 もともと、実定の所属する「徳大寺家」とは、平家物語に「華族、英雄」と記されているように、
堂上家の中に置いて、後述の(参考メモ)に示すような位置付けになる貴族なのです。
 徳大寺家は、九條流の家祖藤原師輔まで遡りますと、師輔の子(伊尹・兼通・兼家)などの弟である
公孝から、実季、公実へと藤原北家閑院の流れを受け継ぎ、公実の子の世代から後の「精華家」が
別れてゆきました。すなわち実行(三条家)、通季(西園寺家)、そしてその五男実能(徳大寺家)と
なり、兄妹には鳥羽天皇皇后で崇徳天皇・後白河天皇の母となった璋子(待賢門院)もいます。

 実定の祖父に当たる左大臣実能(1095〜1157)はいわゆる「前の徳大寺の左大臣」となり、
その孫の実定は「後の徳大寺の左大臣」ということになります。
 実能は後鳥羽法皇に仕え、保元の乱(1156)に係わりました。都の北・衣笠に徳大寺を造営したので、
「徳大寺殿」と呼ばれ、歌人でもあったのです。
 その子公能は大炊御門右大臣で、父の芸能の才能を受け継いで、音楽の才があり且つ又歌人でもあり
ました。「ほととぎす」と「ありあけの月」で百人一首に名を留めた実定も祖父以来の歌の才能を
受け継いだのでしょう。歌人としての後徳大寺左大臣実定については後述します。

 因みにこの頃の徳大寺家の廷臣としての人物挙動として、天皇の妄挙を諫める役をになったようです。
 すなわち、徳大寺家家祖実能は、鳥羽上皇の信任も厚く、保元の乱に際しては、未然に防止しようと
努力したが、成果があげられなかったこと、また、その曾孫の公継のときは、承久の乱に際して
後鳥羽上皇を引き留めようとしたが、効果がなかったことなどです。

 徳大寺家の末裔で幕末明治維新期には、実則(1839〜1919)が議奏役として朝幕間で躍動し、
明治天皇臣下として侍従長・宮内卿・内大臣を歴任する活躍を見せた実績から、侯爵(明治17年)に
さらには公爵(明治44年)に昇り詰めました。徳大寺家は精華家でありながら、摂関家に等しい待遇を
得たことになります。
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<厳島詣の謀>

 平清盛の次男宗盛に右大將の席を先取りされ、くさった上に籠居してしまった徳大寺実定の打った手は、
清盛に対する世間でいうところの遠回しのごますり「どっこいしょ」です。これもやはり平家物語巻二
「徳大寺之沙汰」(あるいは徳大寺厳島詣)に次のように記されています。因みにこの部分の物語の
進行は、なにか落語の筋書きのような感を受けます。もっとも落語では、長屋のおとぼけが同じ町内の
知恵者の知識を活用して逆に笑い者になるのですが、ここでは、知恵者の言うとおりやった実定が大成功
するという筋書きです。

 「・・・徳大寺大納言実定卿は、平家の次男宗盛卿に大将を越えられて、暫く籠居したまへり。
  出家せんと宣へば、諸大夫侍共、いかがせんと歎合り。其の中に藤蔵人重兼と云ふ諸大夫あり。
  諸事に心得たる人にて、或る月の夜、・・・」
  実定卿の許を訪れて知恵を授けました。
 「・・・譬ば安藝の厳島をば、平家斜めならず崇敬はれ候に、何かは苦しう候べき、彼の宮へ
  御参りあり、御祈誓候へかし。・・・・入道相国はことに物めでし給ふ人にて、我崇め給ふ御神へ
  参りて、祈り申されけることこそ嬉しけれとて、好きな様なる計らひもあんぬと覚え候。」
  実定卿は
 「・・・是こそ思ひも寄らざりつれ。ありがたき策かな。」
  と厳島へぞ参られける。ということになりました。

 江戸時代に「日本三景」の一所に謳われた「安藝の宮島」を訪れてみましょう。三景のその他の
名所としては、これまでまず、「陸奥の松島」は第90番殷富門院太輔の雄島で、また「丹後の天橋立」は、
第60番小式部内侍の歌で言及いたしましたので、この連載で三景が揃うことになります。

 さて、厳島詣を済ませた実定卿にその効果はありや、またまた平家物語を引用してみましょう。
 実定卿に連れられて京まで同行してきた厳島神社の内侍たちは、案の定、入道相国の居住する
西八条の舘へ立ち寄って実定卿の予測したように、卿の厳島詣を入道相国の耳に入れることに
成功しました。そして、知恵者重兼の予想したとおり、清盛を喜ばせ、ことを予期したとおりに運ばせる
事になりました。

(左)下京区七条御所ノ内本町西大路通沿い「若一神社」付近図
(右)清盛邸宅跡地「若一神社」正面。社前に清盛手植え大楠が西大路通りに残っている。


清盛別邸「西八条殿」「若一神社」境内風景。紀州熊野若一神社御霊を祭祀。開運出世の神。
 「・・・入道相国打ちうなづいて、あないとをし、・・・これ程に志し切ならむ上は、とて、嫡子
小松殿内大臣の左大將にて、ましましけるを辞せさせ奉り、次男宗盛大納言の右大將に御座けるを
越させて、徳大寺を左大將にぞなさせける。・・・」

となり、事は全て知恵者重兼の思い通り運び、実定卿にとっては、万々歳の成りゆきとなりました。
 この昇進の一件だけ見ても、なんとなく実定卿の人物を特徴つけ、浮き彫りにされているような
平家物語の進行でした。

 なお、平家物語では、もう一度厳島神社が物語り進行の舞台になるところが巻四「厳島御幸」に
なります。これは、実定卿の参詣から三年後の治承四年高倉上皇の御幸となるのです。
 この旅程を辿りますと、往きは三月十七日「厳島御幸の御門出」とて、「鳥羽の草津より御船に
召され」て、「遙々と安藝国までの御幸」をなされ、「同二十六日、厳島へ御参着」あり、「中
二日御逗留有り」その後、復路は、
「同二十九日上皇御船飾りて還御」あり、「その日は備後国敷名の泊に著せ」給ふて、その後の
行程は、備前国小島の泊、播磨国山田の浦(五日)、福原(六日〜七日)、「八日都へいらせ
給ふ」と記されていますから、往路で約10日、復路も大凡十日を要していますから、実定卿の時も
同じ様な厳島参詣の日程であったと思われます。もっとも実定卿は、厳島神社では、七日七夜の
大将昇進ご祈祷の御参籠であったのです。

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<安芸の宮島参詣>

 ユネスコ(国連教育科学文化機構)は、第20回世界遺産委員会で広島県から2件の建造物を
「世界遺産」と決定しました。日本では、これで8件の世界遺産を所有することになりました。
 一件は「原爆ドーム」(広島市中区)と、もう一件が「厳島神社」(広島県佐伯郡宮島町)です。
 厳島神社は日本三景の一つで、原生林の弥山(標高530m)を背景にして、建造物が潮の干満差
4mを考えて海上に建てられているという世界に類を見ない宗教建造物とされています。

 飛鳥時代の創建と伝えられて今から830年前の平安期に当時の権力者平清盛の力で現在の規模で
海上にある大鳥居(第8代目で明治8年製、高さ16.6m、総重量6トン、樹齢700年の楠木を主柱に
している)、本殿他、260mの長さの回廊を含めて、17棟のの伽藍配置が完成したとされています。
 鎌倉期、火災で二度ほど焼失したもののその度に再建され、戦国武将毛利元就も尽力したようです。

 この世界遺産登録を記念して、NHKテレビでも平成8年12月13日に特別番組として、「にっぽんの
夜ー世界遺産美は海に浮かぶ、広島厳島神社」を放映し、歌舞伎役者沢村藤十郎による鶴亀の舞いを
国宝高舞台上で披露しました。
 海上安全を祈願して三神体(市杵島姫命、田心姫命、瑞津姫命を合祀)を祭祀する所です。

 この社殿には年間で300万人が訪れる広島県の観光名所になっているのです。春の桜の時節には、
夜間照明でライトアップも行われ、花見客を喜ばせています。

(左)安芸の宮島の位置(右)厳島観光マップ

(左)厳島神社の大鳥居(右)厳島神社の上空から

宮島の桜のライトアップ光景(読売新聞1996年4月11日夕刊より)

青山政吉画伯の「宮島」1990年3月
 後徳大寺左大臣の官途は折しも全盛期に入った平家に左右される所が大きく、実定卿の官位官職昇進
神頼みは、平氏の尊崇する厳島神社参詣のみならず、藤原氏族の氏神春日神社詣で、さらには住吉大社
詣での執拗な祈願の繰り返しとなったのです。

 実定卿(1139〜1191)より20才ほど年長の平清盛(1118〜1181)が厳島神社を造営したのは、彼が
太政大臣に昇進した翌年の1168年清盛50才の時です。
 清盛や実定卿の時代から時代を下ること約400年後、戦国時代には厳島神社周辺も戦の場となりました。
 1555年弘治元年毛利元就が主君大内義隆(1507〜1551)を殺した陶晴賢(1521〜1555)をこの
厳島神社のある宮島宮尾城で破り、周防と長門二国を手中に収めました。

 面積僅か30平方kmの広島湾に浮かぶ小島は、その内の厳島神社が世界遺産に認定されると共に、
世界の民族から「人類にとっての宝物としての神社」管理を委託されたことになり、日本民族としても
重責を背負ったことになります。
 永く次の世代への民族の贈り物として、厳島神社の不滅ならんことを祈るものです。
 再建した平氏清盛の思惑、己の出世を祈願した中世の貴族藤原実定卿の祈願、そして、それから
800年後、平成の人々は世界の人々の期待に答えるべく、この宗教的建造物を後世へ伝えていくことに
なりました。大陸の大国宋貿易に力を注いで、国力を発展させることを考え、ひいては、日本国の繁栄を
祈ったでありましょう清盛もさぞかし満足ではないでしょうか。

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(参考メモ)堂上家の系統分類

 
 (1)摂家(摂ろく家、執柄家)(御摂家、摂家の五流) 摂政関白となる家筋 
    近衛・九條・一条・二条・鷹司
 (2)精華(華族、英雄)大臣大将を兼ねて太政大臣に進む家柄 
    久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・醍醐・今出川
 (3)大臣家 大納言になる家、大臣欠員を待って近衛大将を兼ねず、直ちに内大臣に上がる家筋
    正親町三条、三条西
 (4)羽林家 近衛府で、近衛中少将から、参議・大中納言に昇る家筋(武官出身)
    四条・山科・鷲尾・西大路・櫛笥・油小路・八条・持明院・中御門
    園・東園・高野・壬生・石山・六角・石野・上冷泉・下冷泉・藤谷・入江・難波
    飛鳥井・中山・今城・野宮・水無瀬・七条・町尻・桜井・山井・滋野井・阿野・河D
    山本・姉小路・風早・花園・園池・武者小路・高松・押小路・橋本・梅宮・大宮・四辻
    西四辻・藪・清水谷・小倉・洞院・中園・正親町・裏辻・高丘・日野西
 (5)名家  先祖以来文筆を主として弁官を歴任して、蔵人を兼ね、大中納言に進む家柄(文官出身)
    甘露寺・勧修寺・中御門・おかざき、・坊城・芝山・穂波・万里小路・葉室・清閑寺
    池尻・梅小路・堤・日野・広橋・日野西・柳原・三室戸・北小路・烏丸・勘解由小路・
    外山・豊岡・裏松
 (6)半家  羽林家あるいは名家に准じて、昇任する家筋。中少将・弁官を経なくて、参議・納言に
        進む家筋。(羽林家でも半家でもない家筋)
    富小路
        (引用文献:和田英松「新訂官職要解」講談社学術文庫621(1983))
 
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八一話一視覚と聴覚ー
併せて御覧願います。

平成16年11月1日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。

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