敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 189 回  *** 第85番・その1 ***
*****  俊恵法師ー東大寺と福田寺  *****

目    次
<東大寺での修行> <福田寺の僧侶>

百人一首・第85番 夜もすがら物思ふころは明けやらで閨のひまさへつれなかりけり


<東大寺での修行>

 俊恵法師は大納言経信を祖父に、源俊頼を父に、1113年・永久元年に生まれ、和歌は父に学びましたが、
17歳の時に死に別れ、奈良東大寺の僧になったと伝えられています。
 東大寺で修行した僧名は俊恵法師ですが、公名を大夫公あるいは大進公と称したそうです。僧侶で
ありながらも、俗世間を忘れられなかったか、あるいは、彼の人柄を知っている周りの人々が彼の周りに
集まって、彼を俗世界に引き留めたということでしょうか。

 次回の連載で採り上げますように彼自身「歌林苑」なる和歌の同好会を作って積極的に俗世間と
交わっていたわけですから、仏の道に精進する時間より、和歌を詠じている時間の方が多かったのかも
知れません。「仏三昧即和歌三昧、これこそが仏の道よ!」と説教していたのでしょうか。
 現世に極楽浄土を自ら創成するには最も手っ取り早い「仏の道」かもしれません。 

 和歌の世界に顔を出し始めたのは久安二年(1146)34歳ころ、左京大夫藤原顕輔朝臣家歌合せに
参加してからで、建久二年(1191)78歳までの大凡45年の歌道人生かつ仏道人生であったのです。
 特に48歳ころから約30回ほど歌合せ、撰歌合せに出詠し、歌人としての名声を挙げたようです。

 俊恵法師がどういう縁で東大寺の僧になったのかは解りませんが、都に近い寺院でなく、遠く離れた
南都東大寺で出家したのは何かわけがありそうです。俊恵法師が入山した当時(1130年頃)の東大寺は、
創建以来すでに400年近く経っている古寺になっていました。

 天平文化の中での東大寺をめぐる仏教活動は次のようになっていました。

 741 天平 十三年 国分寺・国分尼寺建立の詔
 743 天平 十五年 毘廬舎那大仏造立の詔
 751 天平勝宝三年 東大寺大仏殿完成
 752 天平勝宝四年 大仏開眼供養
 753 天平勝宝五年 唐僧鑑真和上来日、戒壇院設立
 756 天平勝宝八年 聖武上皇の奉納(正倉院の始まり)

 東大寺は南都六宗の一派華厳宗の総本山である「金光明四天王護国之寺」(あるいは大華厳寺、
城大寺、総国分寺とも称されました)として第45代聖武天皇(724〜749)の発願により創建されました。
 1250年近く経った現在でも創建当時以来の建造物として、法華堂、転害門、経庫、正倉院などがあり、
特に正倉院は1250年の歴史をそのまま伝承している国宝類の宝庫になっています。

東大寺総門と金堂(大仏殿)遠景(江戸時代徳川家光による再興で、世界最大の木造建築物)
 近鉄奈良駅を降りて、大路を東に向かうと、奈良県庁と興福寺の間を抜けて、国立博物館に到り、
北に左折しますと、東大寺南大門を望むことができます。
 南大門前の土産物店通りから南大門にかけては、観光客の往来が盛んで、「大仏さん」の参拝は
昔も今も賑わいを見せています。古都奈良は「大仏さん」で人々を招き寄せているのですから、言って
みれば千三百年前に推進された国家的プロジェクトとしての観光事業であったということになります。
 現在にあっては、大仏さんに代わる何らかの「国起こし」「地方再興」「町建て直し」の企画が
必要なのですが、千三百年前にその見本を示してくれているのかも知れません。

 鎌倉時代の正治元年・1199に俊乗上人によって再興された南大門には、運慶・快慶仏師の力作
仁王像が屹立して既に800年の歴史を刻んでいます。

東大寺へ向かう登大路と奈良県庁と若草山遠望と東大寺南大門前の土産物通り

人なつっこい鹿の散策
 俊恵法師が入山した当時は南大門再建の約70年前ですから、現在私たちが拝顔出来る仁王様を
ほんの少しの違いで彼は見られなかったことになります。彼の時にはどのような南大門守護像が据え付け
られていたのでしょうか。

夜間にライトアップされた東大寺南大門仁王像(阿形と吽形)
 奈良といえば「大仏さん」と「鹿」ということになります。大仏や大仏殿は江戸期の17世紀に再興されて
いますから、ご本尊の毘廬舎那仏も三代かけて1250年以上の歴史の流れを高い位置の目線で眺めて
来られたことになります。
 俊恵法師が修行した大仏もわたくしたちが参拝する大仏も見上げる気持ちは同じ「大仏さん」です。
 大仏さんは我々日本人の歴史を「しか」と見つめてこられたわけですから、「大仏さん」が見て居られる
ということで私たちの気持ちも安心します。時代時代の日本人の生き様を後世の人々にそのお姿をもって
伝達してくれる大仏様であることでしょう。

 第二次世界大戦で、日本の都市は次々と爆撃される中にあって奈良と京都は心ある歴史学者の進言で、
破壊を免れました。それまでした文化遺産保護されてきた奈良という日本人の民族遺産をどうしても後世に
伝えてゆく必要があります。民族共通の拠り所として。
 大仏さんの周りで生活し始めて、これも長い年月が経ってきた鹿の群もその遺産の一部分です。
 
 俊恵法師の時代に鹿は群れていたのでしょうか。言い伝えに依れば藤原不比等が春日大社の祭神として
鹿島神宮から武みか槌命を氏神として勧請したとき、命は鹿に乗って来たとされ、以来神鹿として保護され
てきました。関ヶ原の戦いのさなかでも鹿保護令が出るくらいですから、現在約千頭ほどの鹿が国指定の
天然記念物になっています。
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<福田寺の僧侶>

 俊恵法師の留めるもう一個所の名残の地は現在の京都市南区久世殿城町にある福田寺です。この地は
京都市の最南西端で、桂川よりさらに西側の新幹線と国道171号線に挟まれた地域で、付近一帯は、金属
加工業などの町工場群の真っ直中に埋もれるように建っています。


福田寺周辺の地理と福田寺山門と本堂
 新幹線の東側に南北に沿って通っている旧村道の突き当たりに位置しているのが福田寺です。
 寺門から本堂まで十間ほどの長さの細い参詣小径があり、入った正面に俊恵法師の歌碑が建てられて
おり、左手奥には供養塔も並んでいます。
 「ふるさとの板井の清水水草ゐて月さへ澄まずなりにけるかも」(千載集・巻十六・雑上・1011)

福田寺境内の俊恵供養塔(左)と歌碑
 一千年の時の流れは歌林苑の歌人を鉄道と自動車道とさらには金属加工工場の巷の中に埋め込まれて
しまいました。JR向日町の駅周辺がコンクリートやビール工場など代表的な現代工業の工場地になって
おり、和歌の世界とは最も縁遠い環境に俊恵法師は名残を留めている感じです。

 祖父源経信(桂大納言)の「ゆうされば」の歌碑は桂川の東側梅宮大社の神苑内に建てられています
から、俊恵法師の邸か寺院は祖父の邸宅のほぼ真南にあったことになります。ちなみに梅宮大社のほぼ
北500mほど離れた所にも、福田寺というお寺がありますが、偶然とは云え何か不思議な因縁のような
ものを感じます。
 
 いずれにしても、桂川の両岸、梅津や上桂の地に経信、俊頼、俊恵の生活圏があったことになりますが、
それらの名残は殆ど留めておりません。目に見える旧跡、遺跡で残る過去よりも、百人一首などの文物で
残る歴史の方が後世の人々には鮮明に継承されていくことの代表例のようにも見えます。
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関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第八五話一閨の隙間ー
併せて御覧願います。

平成16年9月3日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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