
前回連載の第75番歌歌人藤原基俊(1060〜1142)が親しくしていた僧侶に、東山の麓にある雲居寺の 瞻西上人が基俊の私家集に記されていました。 瞻西上人は当時貴族社会で「僧侶界での説法の名手」として著名人で、多くの貴族や僧侶が関係して いたようです。百人一首第66番歌人前大僧正行尊(1055〜1135)にも次の歌が残されています。因みに 行尊師は、三条天皇の曾孫にあたり、今回連載の源俊頼や藤原顕季と同年生まれの同時代人です。 特に瞻西上人とは、同じ仏に仕える身でなおかつ歌人でありますから、両人ともある時期は叡山修行の 同窓であった可能性があります。 ー月の明かりけるに、瞻西聖人のがりつかはしける 僧正行尊 金葉集・巻第十・雑下・618 「いさぎよき空のけしきをたのむかな我まどはすな秋の夜の月」 一方、12世紀に入った宮廷和歌世界では、堀河院歌壇の実質的指導者として源俊頼(1055〜1129)が 地位を確立しつつあり、「堀河院御時百首和歌」など組題百首企画を始めて、この類聚和歌には、俊頼と 同年生まれの同時代歌人で白河院政および仙洞歌壇の実力者藤原顕季(1055〜1123)あるいは公的に 初の登場となる藤原基俊も詠進して、ここに当世同時代人の実力歌人三人が揃いました。 その後の元永・保安年間(1118〜1124)、俊頼と基俊は内大臣藤原忠通家歌合せを中心とした歌壇に おいて判者となり、和歌論を競い合いました。基俊が伝統的な故実を踏まえた歌論に対して、俊頼は、古代 和歌からの脱皮を主張した新しい和歌世界を展開したのです。 以上から、藤原基俊と今回連載の主人公源俊頼との接点となるキーワードは「宮廷歌壇の好敵手」である とともに「雲居寺と瞻西上人」ということになります。 俊頼は勅撰和歌集の千載集には、52首の最多入首歌人としてその名を残していますが、次のように俊頼と 上人の関係に言及した歌も残されています。 ー瞻西上人雲居寺の房にて、未飽郭公といへる心をよめる 「などてかく思ひそめけむほととぎす雪のみ山の法の末かは」(巻三・夏・192番歌) 藤原基俊が昵懇にして、俊頼も係わっていた瞻西上人なる人物は、単に仏事の関わりだけで結ばれていた のではなく、むしろ和歌の世界を共有したのではないかと思われるほどに、当上人は和歌の道でも「説法の 歌人」であったといえるかもしれません。 金葉集を初出とする彼の歌を勅撰集入集歌(全部で12首)より幾首かを拾ってみますと、次のようになります。 (1)金葉集(三奏本) ー提婆品の心をよめる 巻十・雑下・625 「法のため擔ふ薪にことよせてやがてこの世をこりぞはてぬる」 (2)詞華集 ー旅宿時雨といふことをよめる 巻四・冬・148 「いほりさす楢の木陰にもる月の曇るとみれば時雨降るなり」 (3)千載集 ー雲居寺の結縁経の後宴に歌合せし侍りけるに、九月尽の心をよみ侍りける 巻五・秋下・383 「からにしき幣にたちもてゆく秋もけふや手向けの山路越ゆらん」 ー天王寺にまゐりて舎利を拝みたてまつりてよみ侍りける 「薪尽きけぶりもすみて去りにけんこれやなごりと見るぞかなしき」 巻十九・釈教歌・1209 (3)新古今集 ー雪朝、基俊許へ申しつかはさる 巻六・冬・658 「つねよりもしのやののきぞうづもるるけふは都にはつ雪やふる」 行尊大僧正は山伏修験行者として、瞻西上人は説法の名手として、当時の貴族社会での寵児であったの かもしれません。両人とも仏道に身を置きながら、「敷島道」にも励んでいたことに、精神的な人格の広さと ともに彼等に関係する者の心にある種の安堵感を与える何かがあったものと感じとれます。 夫木和歌集には次のように、瞻西上人が盛んに、かつ熱心にやっていたと思われる雲居寺歌合せ活動が 記録されています。 ー永久四年七月雲居寺歌合、女郎花 「秋くればまづしめしののをみなへしいくあさつゆにぬれてみつらん」(巻十一・秋二・4307) ー永久四年七月雲居寺歌合 「をのへゆくしかのなくこゑたかさごのうらさびしやる秋のよなよな」(巻十二・秋三・4674) ー永久四年九月雲居寺歌合、秋田 「をしねたつ山田はいほぞあれにけるよはのしぐれもともにもるかな」(巻十二・秋三・5044) いわずもがなでしょうが、人を導いていく者のひとつのあり方として、かたくなに狭い仏道の隅を詮索する のでなく、多方面から人の精神世界の止揚を支援する姿勢でないといけないのでは、と思わせるような模範的な 両人の人生であり、中世平安貴族社会の中での模範的修行像です。目次に戻る
百人一首では長谷寺及び初瀬地区は二首の歌に詠まれています。一首は貫之の第35番歌であり、もう一首は 今回の源俊頼の「初瀬の山」の第74番歌です。前者は優雅にも「梅の花」を詠み込んでいるのに対して、 後者は「山おろし」を読み込んでいるのですから、対照的な詠みといえましょう。いずれも男女間の感情の 行き違いを題材にしているところが共通しています。その舞台に引き出されるだけ、「初瀬の寺」の歴史は 古いということになります。 「初瀬」や「泊瀬」は、万葉集に多く詠まれた歌枕の地ですから、俊頼の時代の平安朝では、既に「隠国」 の名所として、人々の頭の中に存在したのではないでしょうか。 その初瀬山を山おろしと組み合わせて俊頼は「初瀬」の山を詠んだわけです。「初瀬のやまおろし」 ーそこには祈願するための初瀬の観音様が歌の背景に隠されているわけです。 上層貴族の面々が長谷寺を訪れてお参りするのは、とりもなおさず、ご本尊の十一面観音菩薩さまに自分の 願い事を叶えてもらうためでしょう。その観音様も開山以来、数度の火災で焼失し、現在の観音様は、天文七年 (1538)に再造されたものと伝えられておりますが、高さ三丈三尺六寸(10.2m)は、日本一の木造仏と されています。我々の願い事を不断に聞き届けていただくためにも二度と災禍に見舞われることのないようにお祈り したいものです。 俊頼が祈った観音様も、今平成の人々が祈る観音様も、仏像そのものはすでに何代目かの差があるものの 祈る対象としての十一面観音さまには変わりがないのです。その時代時代の人が観音様にお願いすること、 それは少しづつ内容と望みの高さに違いがあるものの、帰する所は、個人個人の現世で叶わぬことを聞き届けて 欲しいということでしょう。長谷寺を訪れる一日の参拝客でも何百、何千にもなり、まして、年間を通して観音様の 受け持つ願い事は、それこそ何百万・何千万件にもなろうことかとおもわれます。 これらの願い事が叶うか叶わないかは多分にお願いをして、祈る人の側の問題でもあることを忘れてはなり ません。ある願い事を観音様にお願いしたから、あとは観音様任せでは観音様もかないません。簡単に叶えない ところに又観音様が存在し続ける意味合いがあるのです。叶い事への努力を怠らない、その日常の努力を思い 出させてくれるのが観音様であると認識すべきなのでしょう。 長谷寺の十一面観音様には、すでに紀貫之の連載の所でお参りしています(第37回(その1)初瀬詣での梅) が、再度参拝いたしましょう。 初瀬山は長谷寺の北東方向にある標高548mの山で、隣の山は大和平野から良く見える巻向山(標高567m) で、二山は山野家達も高さもよく似通っています。長谷寺に向かうには、近鉄大阪線長谷寺駅で下車するわけ ですが、長谷寺駅から北の方向にこの二つの山を仲良く並んで遠望することが出来ます。 長谷寺がある大和東南地帯の自然環境は年間を通じてそれほど厳しい地域ではないように思います。歌の詠み 込みとして「初瀬」に「山おろし」を呼び込んだのでしょう。

巻向山の西隣が大神神社の御神体である三輪山になりますから、これら三山はほぼ同じ様な高さで並んでいる わけです。さらにこの三山に共通している点は、いずれも万葉集及び古今和歌集以降の中世の和歌に詠まれた 山であるということです。 初瀬山について先ず万葉集から引用しますと、ほとんど「隠国」(こもりく)の枕詞を伴って詠まれたものです。 「隠国の初瀬の山の 山の間にいさよふ雲は妹にかもあらむ」(巻三・428) 「隠国の初瀬の山に 照る月は満ち欠けしけり人の常なき」(巻七・1270) 「隠国の初瀬の山に 霞み立ち棚引く雲は妹にかあらむ」(巻七・1407) 「隠国の初瀬の山は 色つきぬ時雨の雨は降りにけらしも」(巻八・1593)(本堂脇に万葉歌碑あり) 新古今集から二首拾ってみますと、次のようになります。 「初瀬山 うつろふ花に春くれてまがひし雲ぞ峯にのこれる」(巻二・春下・157 摂政太政大臣) 「初瀬山 夕越え暮れてやどとへば三輪の檜原に秋風ぞ吹く」(巻十・羇旅歌・966 禅性法師) これらの歌に見られるように歌枕としての初瀬山は「花」「鐘」「檜原」などと取り合わせて詠まれてきたと されています。したがって俊頼の歌に詠み込まれた「やまおろし」は、特異な考案ということができましょう。 「初瀬の山」の「やまおろし」とはいってもせいぜい550m程度の高さの山ですから、いうほどの「やまおろし」 ではないでしょう。隣接する巻向山や三輪山などは「やまおろし」との組み合わせで読み込まれてきたとは 思えません。 長谷寺が初瀬山のふところに抱かれていて、大和平野からみれば正しく「隠れた」国の谷間にある寺と いう印象を受けます。現に長谷寺駅から眺める長谷寺の景観には「隠国」の印象が一層直に感じられるのです。 長谷寺駅を降りて、初瀬川を渡り、門前町をなす旅館や土産物店の間を初瀬山に向かって長谷寺への参道を 歩いてゆきますと、ここを千年も昔から京の高貴な方々を始めとして多くの信仰篤き人々が歩いたのかと、 感慨を深くするものが足裏から伝わってきます。町並みの建物はすこしづつ時代毎に変わってきたでしょうが、 長谷寺へ参る気持ちで歩むこの土の感触は今も昔も変りないのです。 一方初瀬の門前町の環境がすこしづつ変わってきたように、初瀬山周辺の地形も変貌しているようです。 長谷寺の谷間を流れる大和川(初瀬川)は、長谷寺から北上してさらに「隠国」の山峡にその源は分け 入っています。長谷寺から1.5kmほど上流に初瀬ダムが築かれ、ダムによって大きな人工湖(まほろば湖)が 誕生しています。大和の隠国の湖に相応しいように”まほろば”または”まほらま”(まほら・ば、すなわち、 まほ・ら・ばとして、すぐれたよいところ)と命名されています。 初瀬ダムに関係して初瀬川の川端には緊急時にはダムの放水があることを警告する札が立っています。しかし 発電用水確保でないにしても多くの人々に利する灌漑や水害防止などの多目的な農業用水確保のダムですから、 長谷寺開山の目的とも一脈通じるものがあります。



彼の私家集である「散木奇歌集」(全十巻1622首)および勅撰和歌集に入集した歌(245首)の中に 詠み込んだ俊頼の歌枕世界から、近江にある田上(たなかみ)の里を探索してみましょう。

「田上」は近江国の歌枕で、現在の大津市南部の瀬田川左岸一帯を指しています。既に万葉集巻一の歌に 藤原京造営に檜の角材を瀬田川・宇治川・木津川経由新都造営に供給に関係した杣山として詠まれている所です。 湖東南部の田上の里は、その当方に聳える太神山(たなかみやま・600m)の西北山麓に展開する平野ですが、 地域一帯は鉱物や木材の産業資材に恵まれていたので、古代から飛鳥の都の人々に注目されいたのでしょう。 現在でもそれらの遺構として田上枝町に「田上鉱物博物館」があり、田上山産の花崗岩の鉱物を始めとする 各種の鉱物資源が展示されており、上田上森町遺跡その他では、鉄滓の製鉄遺跡が確認されいるのです。 平安朝の和歌には屏風歌として網代、氷魚、紅葉、杣などと組み合わされて秋や冬の情景歌とされるもので、 清原元輔の歌に代表されます。 「月影のたなかみ河に清ければ網代にひをのよるも見えけり」(拾遺集・巻十七・雑秋・1133) 「堀河百首」において「網代」の題詠で六首もの「田上」詠歌があるのは、俊頼が関係しているのかも 知れません。俊頼の父の源経信の時代には、現在でいうところの別荘に当たる別業が田上に所有していたと されているのです。 俊頼は田上別業で多くの歌を残しているようです。その詠みは具体的に「田上」を読み込まず、田上に住んで その周辺の風景や心境(宮廷での不遇感など)に詠み及んでいるのです。勅撰集入集歌のなかからニ三首 拾ってみますと、次のようになります。 ー都に住みわびて、近江にたなかみといふ所にまかりてよめる 「葦火たく真屋のすみかは世の中をあくがれ出づるかどでなりけり」(詞花集・巻十・雑下・346) ー田上の山里にて鹿の鳴くを聞きて詠み侍りける 「さを鹿の鳴く音は野辺に聞ゆれど涙はとこのものにぞありける」(千載集・巻五・秋下・310) ー田上の山里に住みける頃、風烈しかりける夜よめる 「真木の戸をみ山おろしに叩かれてとふにつけても濡るる袖かな」(千載集・巻十七・雑中・1090) さらに、「田上の山里に住みわびて」などの詞書きはありませんが、次の歌も多分に田上での詠みと 想定されます。 ー題しらず 「憂き身には山田の晩稲(おしね)おしこめて世をひたすらに恨み侘びぬる」 (新古今集・巻十八・雑下・1836) 俊頼の時代から遡ること約50年前に藤原道長が石山寺詣での時、「田上厩舎」なるものが設けられていた ことが「御堂関白日記」から知ることが出来ます。道長の息・頼通も「田上」の「家」に赴いており、摂関家に 所属した厩や牧が「田上牧」として、存在していたことが解ります。 この「田上厩舎」は瀬田川の支流である大戸川が東側から流入している上流の流域で、太神山(600m) (たなかみやま)麓に展開する平地にあったと推測されていますが、現在の田上牧町付近、嘗ての「田上牧庄」 の地帯ということになります。 田上地区は古くから木材の供給地であり、馬の保有地ということから、京の有力者には注目された所であった のでしょう。この辺の関係から源経信・俊頼父子も田上の里に別業を営んだのかも知れません。
源俊頼は堀河天皇の近習たるべく、まず歌人としてでなく楽人として仕えたのです。音楽芸術の才があったと いうことでしょう。篳篥(ひちりき)の名手ということになっています。 日本の楽器すなわち邦楽の為の楽器は次のように分類されています。 弾きもの(弦楽器) こと、琵琶、三味線、胡弓など 吹きもの(吹奏楽器) 横笛、笙、篳篥、尺八など 打ちもの(打楽器) 太鼓、鼓、鉦、鈴、拍子木、木魚、木版など その他(すりもの、振りもの) これらの楽器の中で篳篥の役目は、雅楽の主要旋律楽器として用いられます。歴史的には大篳篥と小篳篥が あり、後者が一般で、唐から推古朝末期の7世紀はじめ渡来したと推定されています。構造は添付図のような もので、琴や笙などに比べますと、比較的簡単な楽器と言えましょう。しかしながら、簡素な故に演奏の法は かなりの訓練がいるようで、清少納言は「枕草子」で「・・・笛は篳篥いとむつかしう・・・」と言及して います。本人が吹いた上での感想ではなく、古来篳篥の名手があまりいなかったか等ではないかと思われます。 かの源平合戦のさなか、平敦盛が吹いていたのは長門本平家物語では、篳篥ということになっています。 参考資料によってその構造概略も付記しておきます。
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篳篥の構造 竹を管として芦を切ってダブルリードの舌(長さは一寸八分)にする。 管長さ六寸、末(尾)の口径約三分、本(首)の口径約五分、表面に七孔、裏面に二孔、 孔形状はやや楕円で、管軸方向に長軸を有する。 奏法と特徴 各指孔を開閉して得られる音域はおおよそ二オクターブ程度ですが、ひとつの指孔で、 異なる高さの音を奏することが出来る点、および音量の豊富な点も篳篥の特徴。 (出典:平野健次他「日本音楽大事典」平凡社(1992年9月)) |
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