百人一首の歌の対象は法性寺入道前太政大臣(藤原忠通)および藤原基俊息で興福寺の僧光覚です。 興福寺維摩会講師に、と頼み込んだ忠通卿に願いを聞き入れてもらえず、無念の涙を呑んだというわけです。 さてその興福寺は藤原氏族の氏寺として、7世紀以降、1300年に亘って存続してきた古い寺院で、平城京の 外京東端に位置し、平城京が荒廃したのちも、現在まで継承されてきました。これも藤原氏族の後ろ盾が有れば こそといえましょう。いわゆる南都六宗である、三論・華厳・律・成実・倶舎などの中の法相宗大本山に当たる わけです。 南都七大寺である東大寺(751〜)、元興寺(588〜)、大安寺(716〜)、薬師寺(680〜)、西大寺 (766〜)、法隆寺(607〜)、興福寺(710〜)の一寺でもあるのです。また「南都」という呼称自身、 比叡山延暦寺の「北嶺」に対する奈良興福寺の別称でもあります。 興福寺の起源は、藤原鎌足の病気平癒のためにその夫人鏡王女が発願した山城国山科の山階寺で、飛鳥に 移設されて厩坂寺となり、平城遷都で710年(和銅三年)藤原不比等によって移設され、僧兵を抱えて、南都の 一大勢力となったときもあります。 僧兵の活動した事例は長い時代に亘って何件も歴史に記されています。大和国を知行地として威勢を振るい、 中世は大和国守護を兼ね、「座」まで有していました。戦国時代は筒井氏の台頭で支配権が取って代わられ ましたが、興福寺の衆徒はのちに武士化して独立し、寺領を横領するようになるのです。 中世興福寺の「座」(現在で言うところの商工業者の同業組合)には紙・油・酒など80余品目の座が所属して いたほどの賑わいでした。信長や秀吉の楽市楽座が施行されるまで、その商工業特権は利潤を生みだし、寺院の 繁栄を支えていたのです。 近世は西国三十三札所第九番の巡礼地になって、お遍路さんの参拝が盛んです。 不空羂索観世音菩薩のご詠歌に 「はるのひは なんえんどうに かがやきて みかさのやまに はるるうすぐも」 嘗て栄えた仏閣も現在では五重塔、東金堂、南円堂、北円堂などを残しているだけですが、奈良の玄関に 当たるところ近くにあって大きな観光寺院の一画となっています。嘗ての大伽藍である本堂や講堂など主な堂宇は 長大な時間をかけて再興しようとしているところです。 興福寺のホームページをリンクしておきます。


旧二条大路を挟んで北側に奈良県庁、裁判所などの公共機関の庁舎が並び、東側は国立博物館と奈良公園が 西側は私鉄近鉄ターミナルを中心とした市民の繁華街の一画を形成しています。 南側は猿沢池となっており、池端から興福寺の五重塔を眺める風景は、観光の絵はがきに写し取られた奈良を 代表するような場所で、修学旅行生と鹿でいつも賑わいを見せているところです。



JR奈良駅周辺再開発事業が推進されていて、21世紀では2010年の平城遷都1300年が記念すべき時代の 変わり目と設定されています。 駅の北側の東西の大通りは嘗ての平城京の中心である三条通りにあたり、現在観光再開発地域として各種の 整備が進んでいます。三条通りを東に向かうと、観光土産物店を中心にした商店街が賑わいを見せている地域です。 三条通猿沢池西側石段を登りますと、南円堂の正面に出られます。三条通側の境界堤は城郭の一部を兼ねて いるような造りで、嘗て中世の僧兵集団をかかえて、一大勢力をなした頃はさぞかし彼らの威勢の象徴であった のでしょう。 猿沢池の傍らにある釆女神社は池に入水した釆女の霊を祀っています。毎年中秋の名月の時に釆女祭を催して います。当日は竜頭船に釆女達が乗り流し灯籠船の浮かぶ猿沢池を巡回するものです。 興福寺をはじめ南都七大寺が平城京へ、旧地から移設されてきた710年から、もうすこしで1300年を迎えようと しています。この1300年の間に南都六宗はかろうじて存続し得たわけですが、寺院の規模や繁盛振りは創建当初の 影響力の大きさを想像しますと、現況は比較にならないほどの小さい伽藍に甘んじた一地区の観光寺院に変貌して います。 たとえば現在でも1300年前の偉容を今に伝えていると思われる東大寺をみましょう。東大寺は現在でも世界 最大の木造建築物としての大仏殿と世界最大の銅鋳造物としての大仏を再興させているものの、創建当時に 課せられて全国に分立された国家鎮護の仏教拠点である国分寺の総国分寺としての役目は薄れて、もっぱら 観光対象になっているのが現状です。 法隆寺も唐招提寺も薬師寺も殆ど全てそれに類した状況下に於かれているとしか思えません。各寺院の当事者の 思惑には関わりなく、1300年間に南都六宗のになってきた役目も変わってきたのです。 奈良市では先年「シルクロード博覧会」と名付けた催し物が開催され、1300年の昔、東アジアの文化の終着点 であったこと、日本文化の中心であったことを再認識しようとしていました。 それはひとえに奈良が平城京でなくなった時点から「過去の文化遺跡」の役目を担ってきた証でもあるのです。 主役の座は京都・東京と益々奈良の古都から遠ざかってゆきます。20世紀末になって再び畿内は団結して昔の 「上方」の地位を「東国」より取り戻そうという動きが出始めました。 24時間活動する関西空港を近畿地区の玄関にして、国内外の人と物の動きを集中させて、文化活動、商業活動 を活発にしようという試みです。京都・奈良・大阪の中間地点に学術文化都市を造営し、21世紀の新しい文化は この畿内地区から発生させようという狙いです。 21世紀初頭には、スポーツの人類の祭典である近代オリンピック大会も誘致しようとしました。先人達が仏教を 導入し、漢字を習うことによって大陸文化を移入し、畿内が古代日本の心臓部となったように、21世紀には日本 さらには東アジア地域におけるアジア人のセンター的役割を果たせるように、アジア全域に向かって活動することが、 古都を再生させる事につながるのでしょう。 「温故知新」とか「古い羊袋に新しい葡萄酒を入れる」などという諺がまさしくそれらの事を指しているのでは ないでしょうか。もっとも紀元前から世界的な文明の地域であったエジプト、中近東、トルコ、ギリシャ、ローマ 中国などの各地における文明の中心が日本と同様に各地を転々として、一個所に固定していない歴史があります。 古都には古都の、新都には新都の役目があるのかも知れません。文明が栄えるのであれば古都と新都は共存 してもいいわけです。21世紀から30世紀に, さらにその未来に、古都・平城京の時代時代の役目は変わっていく のかも知れません。 日本民族共有の故郷として、後世に伝承されていくことを望む一方で、再び未来の日本人が古都を中心にして 文明の繁栄を見て欲しいことも望むところです。ふと、あと千年も経てば1300年前の平城京が奈良の郊外に完全な 形で再現されているのではないかと思ったりもします。夢ではあっても正夢になればと思います。言ってみれば 奈良全体が国の考古博物館のようになっていて、周辺の府県である大阪・兵庫・和歌山・三重・福井などが 未来都市である古都の奈良と京都を取り囲んでいるかもしれません。目次に戻る
(その1)興福寺の創建年と発掘調査
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平成11年度の興福寺発掘調査で、当寺は713年以降に創建されたと推定されています。 これまで、当寺の創建は寺伝で平城京遷都710年とされてきましたが、 今回の発掘調査から 和銅三年(713)以降の創建の可能性が出てきたとのこと。 「続日本紀」に記された 養老四年(720)年説が有力視されそうです。 (平成11年12月3日付産経新聞より) |
(その2)南円堂観音菩薩の修復作業
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南円堂本尊で国宝の「不空羂索観音座像」が平成四年六月から三年半かけて修理された。 鎌倉時代の仏師康慶(運慶の父)一門の作品と伝えられている。 (平成7年12月12日付産経新聞より) |
(その3)鬼追式
![]() | 立春前夜豆を撒く悪鬼を追い払う追儺(ついな)儀式は、東金堂前で行われ、豆まきもされる。 |
(その4)薪御能
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5月11日、12日の両日、春日大社や興福寺では、古典芸能としての薪御能が行われる。 約四千人の観客が薪能を鑑賞する。(平成11年5月12日付け産経新聞より) 大和名所図会の説明に依りますと、観世流以下「四座の大夫が毎年二月七日よりつとめて十四日に終わる。 例式は西金堂で弘仁十二年頃より法会の時に始まり、貞観十年再興されたとき、南大門に移った」とされる。 「弘仁のころにはもろこし人舞ひかなでける旧例なればとて、能をばつとめられき。これ薪の能の濫觴なり。」 と言及されていますから、歴史のある薪の能であることがわかります。 |
興福寺の境内に隣接する春日明神の御鏡の池である猿沢池に関わる釆女神社では「釆女祭」が行われます。
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興福寺の南猿沢池に西側にある釆女神社では、 毎年中秋の名月の頃、釆女祭が執り行われます。 「大和物語」で語られているところでは、 平城京での時の帝に仕えていた釆女が 帝からの寵愛が衰えたことを嘆いて、 猿沢池畔の柳に衣を掛けて入水したので、 その霊を慰めるために釆女社が造営されたところ、 釆女は我が身を投じた池を見るに忍びないと 一夜のうちに後ろ向きになったと。神社は鳥居を背にして 後ろ向きに立てられているのです。 (平成6年9月20日付け・かんでんだより) |
基俊の関係した「南都七大寺」の寺院は、まず、息子の光覚との関係から「興福寺」でしたが、もう一寺 「大安寺」にも関係していたことが、私家集「基俊集」から伺えます。 ー正月ついたち、大安寺僧づのもとにゆづるはやるとて、 「しもやたびおけどしほさす初春のちとせを君にゆづるはなれば」(131番歌) ー九月十三夜、おなじそうづのもとにまかりて、よひとよものがたりしてはべりしつとめていひおこせて侍りし 「あかざりし君が名残に久方の月を入るまでながめつるかな」(132番歌) ーかへし 「我もしかあかでかへりし月影の山のはつらきながめをぞせし」(133番歌) ーおなじそうづのははのために八こうおこなひ侍りしに、捧げ物つかはすとて 「わしの山ふもとはるかにてらす月知らぬ山路の道しるべせよ」(134番歌) 大安寺の歴史は、当初飛鳥の地で熊凝精舎と称された仏社に始まり、百済川河畔で百済大寺なり、さらに 大官寺と改称されて、続いて飛鳥藤原京での大官大寺の創建に遡ることが出来るのです。 大安寺は、和銅二年(709)伽藍や仏像等が平城に移され、(一説に平城京遷都の数年後、霊亀二年(716) 藤原京から移設されたとも、)大凡1300年近くになるわけですが、現況は誠に寂しい限りの古都奈良郊外の 一古寺になっています。かって、平城京では、左京六条四坊から七条四坊に到る広大な境内であったこと、 また、東の東大寺、西の西大寺に対して、南に位置する「南大寺」と称されたその壮大さを誇ったことが、 思い出せないほどの変貌です。 藤原基俊が知人で昵懇の当寺の僧を訪問した頃の大安寺造形は、いかばかりであったのでしょうか。 現在以上の堂宇を誇っていたことでしょう。 南都七大寺のなかでも唐招提寺の境内は、大安寺よりもよく昔の遺構を伝えており、境内の環境も衰退して おりませんし、もっとも復興事業の進捗が著しい薬師寺などと比較しますと、なおさら、大安寺の遺構の衰退が 嘆かれるところです。 大安寺のホームページをリンクしておきます。 最寄りの駅は、JR桜井線で奈良の町が途切れる南端に当たり、まさに名前の通りの「京終」(きょうばて)駅 西側に位置することになります。 近世に再建された数棟の堂宇が、嘗ての七大寺の面影をわずかに止めています。 せめてもの遺構維持の目的より本堂の修復工事が平成10年に行われています。


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