敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 184 回 *** 第75番(その1) ***
***** 藤原基俊ーさせもが露 *****
目 次
<子を思う親心>
<基俊集の歌枕>
百人一首・第75番 契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり

光琳かるたの藤原基俊
<子を思う親心>
百人一首の出典は、千載集・巻十六・雑上・1023番歌で、その詞書きは次のようになっています。
ー僧都光覚維摩会の講師の請を申しけるをたびたびもれにければ、法性寺入道前太政大臣に
恨み申しけるを、しめぢがはらと侍りけれど、又その年も漏れにければ遣はしける
子息で僧都の光覚を維摩経を講ずる法会である維摩会の講師につかせようと氏長者にして前回の
連載の歌人藤原忠通に「哀訴」していたにもかかわらず、毎年その選に漏れて、ついに堪忍の緒が
切れて、斯くなるぼやきの歌となって世に残ってしまったのです。それを捉えて百人一首に取り
込んでしまった定家も、基俊の人生に対してなかなか鋭い人物評を下したものです。この歌と基俊と
いう人物の関係は、もはや後世の人々には表裏一体になってしまうのです。それこそ基俊はあの世で
またもや、ぼやきを続けていることでしょう。
「さらにだにこころくるしきおやごころ あはれとぞみよ後の世の人」(基俊代詠・錦生如雪)
それにしても忠通卿の返答も正につれなき「神頼み」ならぬ「ほとけ(清水観音)まかせ」です。
「なほ頼め しめぢが原のさせも草 我が世の中にあらむかぎりは」
(新古今集・巻第二十・釈教歌・1917番)
基俊にすれば、本当に何とも頼りにならぬ「清水観音」であることよ、と嘆きたくなりましょう。
息子の栄達を何年待ったのか知りませんが、もはや待ちくたびれたのでしょうね。相当思い続けて
いたようで、長年に亘って思い詰めていた心は私家集「基俊集」にも、「あひしりて侍る女」との
やりとりにさえ、次のように綿々と読み込まれています。
「いかなればしめぢが原の冬草のさしもならではかれはてにけり」(164番歌)
ー返し
「なほたのめ とこそはたれも契りしか ことわりしらぬさしも草かな」(165番歌)
息子の将来を仏の道に託した基俊ではあったのですが、俗世の親としては出来る限りの事を息子に
してやりたいという、まさに「親心」を通り越して「親ばか」と言われかねない気の使いようが、
これまた私家集に残されています。
ーならにをさなき子をやりて、雪の降りしかば、師の僧の許に遣り侍りし
「さらぬだにおぼつかなきに春日山子を思ふ道に雪さへぞふる」(135番歌)
京に降っている雪は奈良の春日山にも降っているのでしょうね。寒い興福寺で修行している息子は
どんなに寒い僧坊で、親元離れたおぼつかない気持ちでいることでしょうか。自分の子供を思う
気持ちの方がおぼつかない。
と、いうのは親の側の一方的な子供への「おやばか」の気持ち。一方息子の光覚さんは、
春日山に雪が降ろうが、親が自分を思っている道に雪が降ろうが、そんなには親が思うほどには、
自分は親を思っていませんよ、とばかり、けろっとしているのかもしれません。基俊のことですから、
この歌は「師の僧の許」に遣わしたということは、師の僧から、そっと息子に手渡されるか伝言
されるのを期待していると思われます。
「雪」が降っただけではなく、「霜」がふっても息子を思うのです。
ーしものいみじうふりたるあした、奈良なる子を思ひ遣りて、永縁そうづの許に言ひ遣わしける
「ならのはに霜やこふらんとおもふにもねでこそ冬のよをあかしつれ」(181番歌)
「雪」が降っては奈良を思い、「霜」が降りては息子の身を案じ、もう思いは奈良にしか置いて
いないといった「おもいこみ」の状況ですね。そのくせ、歌にするのは「我が子へ」とは、つい
言えず「永縁僧都」宛に、となるのですね。誠に複雑な子を思う心です。
「楢の葉」は「奈良」の興福寺にあるのでしょうか。「腕づくの掛詞」を酷使している場合では
ないと思うのですが。ごり押しの一手とは、「こふらん」は「氷らん」といいながら、「こ降らん」で、
(奈良を思って)「寝でこそ」は(楢の)「葉」に対する「根でこそ」などと。
ここまでせんさくするのは酷でしょうか。「冬の夜をあかし」たというのこそ、見え見えのごり押し。
ー月のおもしろき夜、ならに侍る子の恋しく侍りしかば、永縁僧都の許にいひ遣りし
「いときなき我が子を奈良の里に置きて今宵の月に面影にたつ」(147番歌)
ところが、月を見ると息子の影が映って遂に、「我が子よ」と詠んでしまいました。
この歌から基俊は息子を奈良に出してからというもの、一瞬たりとも息子のことを思わないときが
なかったということがわかります。「いときなき我が子」などと、格調高い六条藤家の歴代の歌人
とは思えない「めろめろの浮ついた親心」丸出しです。雪を見ては息子の身を案じ、月を見ては
息子の姿を映している、といった心境ですから、もはや、並みの「子を思う親心」を通り越して
「恋しい人を思う」気持ちに近いものになっています。
ああ、もうどうしょうもないですね。
ー十二月のつごもりに、法師といふ子の許に、永縁かがみもちひおこすとていひつかはしたる
「としをへてつかさくらゐをますかがみ ちよのかげをば君ぞみるべき」(160番歌)
ー返し
「よろずよに万代そへてます鏡 君がみかげにならべてやみん」(161番歌)
さてさて、年末が近づいては、また「奈良の息子」を思うのです。息子を託している永縁僧都の
ことをいろいろ気遣っているのではなく、その背後にある息子のことが気になって、気になって仕方が
ないといった様子がありありです。お師匠さんを年末だから担ぎ上げて「よいしょ、よいしょ」して
おきましょうということでしょう。お師匠の長寿はまあ言ってみれば「ことのついで」の公式儀礼の
ひとつ。ほんとうは、息子の末永き僧籍での栄誉栄達と自らの宮廷での輝かしい羨望を願っている
のです。
しかし、このようにまで持ち上げられた永縁僧都も、何かお返しをしないと悪いと思ったのでしょう。
ー十二月のつごもり、永縁そうづのもとよりくだものおこすとて
「たづねつつしらぬ山路に白雲のかかるこのみをひろひいでたる」(184番歌)
ー返し
「白雲のしらぬ山路のこのみをばきみがためにぞ我ひろはまし」(185番歌)
問題は「このみ」の言葉の中身です。基俊は「木の実」でも「我が身」でもなく、もう「こ」と
見ただけで奈良の我が「子に身」しかないとなるのです。一方永縁僧都は「仏に仕える僧の身分」
ということでしょう。
185番歌が永縁僧都の歌として、解釈しますと、
ーあなたの息子さんは、「白雲の知らぬ山路」とも言うべき「仏道修行の道」を歩んでいます
ので、指導する立場にあるわたくし永縁僧都「我」が「子の身をば」父親である基俊さん「きみが
ため」に「ひろ」いましょう、
と読めば、いうことなし、基俊さんには満点の歌ということになります。
しかし、どうも仏道修行一途にある僧都と子供のこと一途にある基俊では、完全に詠歌の思いの
世界はずれているようにおもえてなりません。
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<基俊集の歌枕>
基俊集には218首の歌が収められています。それらの中から、基俊の歌の世界を拾い出してみますと、
次のようになります。
臨場の歌 寺社関係 雲林院 13番歌
住吉 85番歌 97番歌
清水寺 105番歌
風景関係 嵯峨 201番歌
療養行動 津の国 146番歌 215番歌
むや 151番歌
単なる歌枕 風景関係 笠取山 18番歌
巻向檜原山 40番歌
富士の高嶺 93番歌
伊良湖が島 112番歌
文通相手 雲居寺 51番歌 102番歌 116番歌 148番歌 156番歌
大安寺 131番歌
真野の浦 170番歌
和歌の浦 178番歌
奈良の里 147番歌 182番歌
春日山 135番歌
基俊の和歌世界の広がりは必ずしも全国各地への広大なものではありません。住吉などへの行動は
当時の歌人としてはごく当たり前のところといえるでしょう。
興味が惹かれるのは、「つきごろわづらふ」ことがあって、「しほゆあみ」に出かけていることです。
所は津の国の「武庫の浦」(西宮から葦屋、神戸の東部)辺りから「真野の浦」(神戸市長田区
真野町一帯)など「須磨」辺りまでの海辺の何れかでしょうが、その道中の立寄り先に「御影」や
「むや」が言及されています。
「しほゆ」を浴するということはいわゆるー有馬の「ゆ」ーなどとはちがって、いまでいう「海水浴」
の転地療養のようなものなのでしょうか。
当時の歌人一般の歌枕が何であったかと言うことが「笠取」「檜原」「富士」などで伺えます。
文通相手では、大変気心が知れて親しいと思われる雲居寺の僧侶「瞻(せん)西」との歌のやり
とりです。それと息子の光覚が修行している奈良の里が、彼の一番の関心ある土地と言うことになる
のでしょう。
(その1)「御影の松」
「しほゆあみ」関係では、次の詞書きと共に歌一首が載せられています。
ーつきごろわづらふこと侍りて、しほゆあみんとて津の国のかたにまかりて、ゆあみはててのぼり
侍りしかど、なほやまひやみ侍らざりしかば、こころぼそくおもひ給へ侍りしに、松の木あまた
たてる所をすぎ侍りしに、ここはいづくぞととひ侍りしかば、みかげの松となむいふ人の申ししかば
「世にあらばまた帰りこん津の国のみかげのまつよおもがはりすな」(146番歌)
(注)ーつきごろわづらふことありて、摂津のくにのかたへまかりて塩湯あみけれど、なほこころ
よからでのぼりけるみちに、まつあまたたてるところをすぎけるに、ここはいずくぞととふに、
みかげがまつとなんいふをききて
「よにあらばまたかへりこむ津の国のみかげがまつにおもがはりすな」(215番歌)
何となく能因法師の次の「つのくに」の歌を連想します。本歌取りではないにしても、基俊の頭の
中には、津の国の先輩歌人能因法師の歌の世界が展開していたはずです。
「心あらん人にみせばや津の国のなにわわたりの春の景色を」(後拾遺集・巻一・春上・43番歌)
「命あらば今かへりこむつのくにの難波堀江の芦の裏ばに」(能因集・32番歌)
専門書(滝沢貞夫著「基俊集」)で言及されている「本歌取り」としては、万葉集の有間皇子の
有名な岩代の松の歌となっています。「しほゆあみん」と行った津の国の先が「有馬の湯」であった
としますと、基俊も気取って、有馬の皇子になったつもりで、一首の和歌に凝った物だと感心します。
「岩代の浜松が枝を引き結びまさきくあらば又かへりみむ」
(万葉集巻二・挽歌・141番歌 有間皇子)
12世紀の初め頃、津の国の海岸で名所といえば、やはり須磨ということになるのでしょうか。
「ゆあみ」に適していたかどうか、また、都の貴族が訪れるような「海水浴」に適した場所があった
のかは不明ですが、少なくとも現在の神戸市東灘区御影地区の周辺であろうことは想像されます。
なお、上述の専門書では「しほゆあみ」とは、有馬の湯への湯治であるとして、有馬と西国街道を
結ぶ連絡路は江戸時代まで「有馬道」で、御影地区を通って有馬山へと通っていたということになり
ます。有馬の湯で湯治を終えて有馬道を下ってきたら海岸に「松の木あまたたてる所」に達したという
わけです。
因みに辞典(角川書店「古語大辞典」)によりますと、「しほゆ」(塩湯・潮湯)とは、海水を
沸かした湯あるいはそれを浴びることで、清めにも用いられるとのこと。主として体を温める療養の
目的に用いられ、京の都から摂津、播磨、淡路などの難波潟沿岸に出向いたとされています。
勅撰集や私家集で「しほゆ」「しほゆあみ」などの詞書きや歌語を含む和歌を拾いますと、何十首と
見あたりいずれもが、「つのくに」に関係していることが解ります。考えてみれば京の都から一番手っ取り
早く、海に出られて「しほゆ」に適したところは津の国の海岸沿いということになります。それらのなかで、
具体的な地名として詠まれているところとしては、「さかひ」「とののながゐ」「「はりまのあかし」
「なるを」「すみよし」「わたのべ」「あはぢのかた」「新家」「あし屋」「ながゐのうら」などです。
基俊の見た「みかげ」の海岸は、「まつのきあまたてるところ」であったことから想像しますと、
現在御影地区には当時の面影を偲ぶ「住吉神社」が鎮座しています。大阪の住吉大社は仁徳天皇の
頃ここから勧請されたもので、ここが「本住吉神社」というわけです。この付近が昔の海岸ではなかった
でしょうか。松林の中に海に向かって海の神とされる住吉社の御神体が祭られていたものと推測されます。

古代の難波潟沿岸の地理

住吉神社周辺の地理

(左)住吉神社(右)有馬道記念石碑
なお、基俊の歌にもう一首、次の「むや」がありますが、上記の「みかげ」関連地区か全く別の
場所か、判然としません。上述の専門書(滝沢貞夫著「基俊集」)でも「むや」は「不詳」となって
います。ちなみに、難波潟の周辺で、「むや」というところは、四国阿波鳴門の地に「撫養」(むや)
なるところがありますが、あまりにも離れすぎています。 (現在の鳴門市撫養町)
(その2)「雲居寺」
基俊集に収められている雲居寺を詞書きに持つ歌を集めますと、次のように当寺の僧侶瞻(せん)西と
やりとりしています。
ー雪の朝、雲居寺瞻西がもとよりかくいひて侍りし(51番歌)
ー雲居寺瞻西、家のかどをすぐとてかくいひ入れてまかりける(102番歌)
ー雲居寺瞻西申すせ経を聞きて、めで侍りし人にかはりていひつかはしける(116番歌)
ー十月ついたちころ時雨する日、雲居寺瞻西がもとより、あるあまぎみのもとに、など久しくおとも
せぬといひたるにかはりていひやりし(148番歌)
ーおなじ日、雲居寺にまかり侍りていそぎかへりしかば、瞻西かくいひて侍りし(156番歌)
これらの詞書きから雲居寺の瞻西とはかなり親しく交わっており、歌のやりとりをしていたことが、
なんとなく想像できます。気のあった「馴れた寺のお友だち」とでもいった仲だったのでしょう。
基俊は平安京の何れの所に在住していたのかは解りませんが、多分雲居寺からほど遠からぬところで
あったと考えたいところです。
さて、その雲居寺ですが、歴史事典(「国史大辞典」吉川弘文館)に依りますと、四条通東
丸山公園の南側の高台寺付近にあった寺院で、桓武天皇崩御後、その追福のため道場が建立され、
八坂東院となり、雲居寺の前身となりました。15世紀には大火や、応仁の乱の兵火で、焼亡してしまい、
慶長十年(1605)豊臣秀吉の正室北政所ねねが、秀吉没後の余生を送る高台寺建立にあたり、
廃寺となり、寺町今出川の十念寺に合併され歴史を閉じました。
平安末期に説法の名手として僧侶瞻西が住し、彌陀念仏を鼓吹したことも記されています。
なお、高台寺の南に隣接する「霊山観音」境内の見取り図に依りますと、高台寺中門の前に
「雲居庵」なる建造物があり、かろうじで、名前だけ引き継がれているように思えます。

(左)高台寺周辺の見取り図(右)霊山観音境内の「雲居庵」

(左)霊山観音の参拝正面(右)高台寺の庫裡と方丈
別の参考資料(角田文衛著作集6「平安人物志下」法蔵院(昭和60年7月))には、次のように「雲居寺」
が言及されていました。
東山の一峰になる霊山西北に張り出した丘陵地帯は、「鷲尾(わしのお)の丘」と呼ばれ、霊鷲山の丘尾と
いう地形から「鷲尾」と名付けられて現在の京都市東山区鷲尾町に名前が引き継がれている地帯です。
当地は平安時代から、葬送の地として、六条修理大夫で六条藤家の始祖にあたる藤原顕季にはじまる一門の
墓所になっているのです。藤原師輔の次男で、伊尹や兼家を兄弟に持つ堀河殿関白太政大臣兼通の火葬の場でも
あるのです。
藤原顕季の孫になる中納言家成(1107〜1154)は、鳥羽法皇の権臣で実力貴族でしたが、百人一首歌人
藤原基俊(1056〜1142)と同様に、有名な説教の名手雲居寺僧侶瞻西上人に篤く帰依し、有力な檀越であった
のです。
普段から瞻西上人と親交を重ねる中で、雲居寺の裏手の丘陵地に注目し、山荘で山の仏寺として、金仙院
なる後世「鷲尾第」となる建造物を造営したようです。
鎌倉期には金仙院は桜の名所として、文永年間(1264〜1275)に後嵯峨上皇が、文保から元享年間(1317〜
1324)には、後伏見上皇、花園上皇が花見に御幸されているのです。
この鷲尾第は家成の子孫に引き継がれ、孫の隆房(1148〜1206)は後白河法皇の寵臣にして、平清盛の
娘婿で時世をうまく渡り歩いて、源平戦国期を経て、初期武家政権の時代を生き抜きました。
安徳天皇の母建礼門院の壇之浦後の人生を支えました。鷲尾第が建礼門院の終焉の地となりました。彼女は
嘗ての自らの栄華の世界である六波羅地域を真下に見るこの幽居で、生涯を閉じました。建礼門院の墓所は一般に
大原の寂光院の墳墓とされていますが、実際は、この鷲尾第近くの墓所ではないか、角田博士は現在の高台寺
境内時雨亭辺りの可能性が高いと推測されています。

(左)旧雲居寺、金仙院(鷲尾第)および建礼門院旧居推定地(右)藤原家成と隆房および平氏系図
(参考メモ)高台寺 (高台寿聖禅寺)
所在地 京都市東山区高台寺下河原町526 東大路の東側、丸山公園・東大谷と
霊山観音の間の東山山麓に位置する。
歴 史 豊臣秀吉没後、その菩提を弔うため、ねね(北政所、出家後は高台院湖月尼)が
慶長11年(1606)開創、寛永元年(1624)建仁寺三江和尚を開山として迎える。
建立に当たっては、政治的配慮から当時の最大の実力者徳川家康が、多大な
財政援助を行って堂宇は壮麗を極めた。
寛政元年(1789)以降、度重なる災禍に遭い、多くの寺構をうしない、現在残って
いる開山堂、霊屋、傘亭、時雨亭、表門、観月台などは、国重要文化財指定を
受けている。
観光 春桜、秋紅葉の名所として参詣客で賑わう。
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