万葉集の中に現れる未婚の女性としての「娘子」(をとめ)は、「娘子」以外に「嬢」「釆女」 「郎女」「女郎」などの呼び名で引用されている女性まで抽出しますと、次のような「万葉乙女の 世界」となります。(詳細の一覧表は、リンク先の資料を参照方) 娘 子 ー 舎人娘子(61番歌)ほか20件、娘子のみ27首など 児 ー 安見児(95番歌)、手児(3398番歌) 嬢 ー 坂上家之二嬢(407番歌)ほか3件、嬢子2首など 釆 女 ー 吉備津釆女(217番歌)ほか5件 郎 女 ー 石川郎女(96番歌)ほか5件 女 郎 ー 大神女郎(61番歌)ほか8件 遊行女婦 ー 弟日娘(65番歌)ほか7件 民話伝承 ー 勝鹿真間娘子(431番歌ほか)ほか7件、媛・処女など そ の他 ー 童女(705番歌)ほか13件 計8名称 ー 71件以上 山部赤人が詠んだ「勝鹿真間娘子」は、前述の分類でみますと、「民話伝承的娘子」となり、全部で 7件の伝説の女性が登場します。7伝説の中でも特に次の女性群は興味を引く人物設定になっています。 中でも当時の著名な歌人が挙って、伝説を歌に残そうとした東西代表の次の「娘子」達には興味の 尽きない物があります。 東国:勝鹿真間娘子ー下総国葛飾の娘子 431,432、433,1807,1808、3384,3385 上総末珠名娘子ー容姿美麗の周淮の娘子。末珠奈娘子。1738 畿内:葦屋処女ー二人の男性から求婚された妻争い伝説に登場する処女の悲話。 葦屋乃菟名日処女ほか、いろいろの名称あり。「大和物語」第147段に類話あり。 田辺福麿や高橋虫麿の歌集、大伴家持の歌にて引用。 1801,1802,1809,1810,4211,4212 西国:松浦佐用嬪面ー大伴佐提比古の妾。肥前国風土記にあり。 868,871,872,873,874,875,883 松浦仙媛ー肥前松浦土地の娘子を仙媛に見立てたもの。864,865 彼女たちは万葉の時代からそれぞれの土地に置いて、伝承されてきた長い歴史を含んでいる女性群 でもあります。 以下に「真間の娘子」について、関連事項を整理してみます。 目次に戻る
真間の手古奈については次の三群の歌が万葉集に残されています。 (その1)巻三ー長歌1首431番, 反歌二首432番,433番 作者:山部宿禰赤人 (その2)巻九ー長歌1首1807番、反歌1首1808番 作者:高橋連虫麻呂 (その3)巻十四ー長歌なし、 短歌二首3384番、3385番 作者:下総国歌 赤人と虫麻呂の伝説歌に於ける「下総国真間」という和歌舞台設定用語の比較をしてみました。
| 歌 人 名 | 山 部 宿 禰 赤 人 | 高 橋 連 虫 麻 呂 |
|---|---|---|
| 長 歌 | 娘子名称 葛飾の真間の手古奈 時代設定 いにしへにありけむ 娘子の持ち物 しつはたの帯 舞台・環境 伏屋・奥津城・真木の葉茂り・松が根や遠く久し 動作 妻問ひ 心情 言も名も忘らゆましじ 使用句数 17 |
娘子名称 葛飾の真間の手古奈 時代設定 いにしへにありけること 娘子の持ち物 麻衣・青衿・直さ麻の裳・くつはかず 舞台・環境 鶏が鳴く東の国・ 波の音の騒ぐ港の奥津城 動作 裳織り着て・髪掻きけづらず・望月の満れる面・花のごと笑みて立つ 心情 遠き代にありけることを昨日しも見けむがごと思ほゆる 使用句数 45 |
| 短 歌 | 我も見つ人にも告げむ 葛飾の真間の手古奈が奥津城処 葛飾の真間の入り江に うちなびく 玉藻刈りけむ 手古奈し思ほゆ |
葛飾の真間の井をみれば 立ちならし水汲ましけむ 手古奈し思ほゆ |
長歌に於ける赤人と虫麻呂の「手古奈」描写度は明らかに虫麻呂の方が内容豊富で、色鮮やかで いかにも「昨日しも見けむがごと」き娘子を記しているようで印象的です。 両人は天平年間の初期、すなわち730年前後数年間同じ奈良の都に官人として時代を共にして いますが、赤人は何年に公用で下総の国の「葛飾の真間」を過ぎたのか不明ですが、虫麻呂は、 養老年間(717〜724)地方官として常陸国に駐在したことになっています。 天平期にすでに伝承されて「いにしへにありけること」であった「真間の手古奈」の娘子は、 それからさらに、二人の著名な歌人によって万葉集の長歌という形で、記録され受け継がれて きました。 近代に入ってからの芸術的な展開としては、歌劇・オペラになった「真間の手古奈」(作詩・安東 英男、作曲・服部正)があり、これをいろいろな世代の人々によって演じられているのです。高校生、 音楽大学生、一般のオペラ公演などです。 近代歌人の伊藤左千夫に「真間の手古奈」という作品があるかと思えば、地元自治体の市川市では 「市川手古奈文学賞」なる地域の文化振興企画事業も展開しているのです。 時が経つと共に「真間の手古奈」に対する人々の思いは膨らんで、いろいろな分野でいろいろな 伝承形態で内容に綾を加えつつ展開していきますが、それでこそ民話としての「娘子」のありよう でしょうか。 目次に戻る
東京から総武線(総ー下総・上総の総と武ー武蔵の武)に乗って東の下総国へ向かうと、隅田川、 荒川、中川(古い利根川)、江戸川を渡って千葉県市川市に入ります。古代の下総国の国境は隅田川で あったのですが、現在は千葉県境は江戸川(利根川の支流)になっています。下総国は、現行政体 千葉県の北部に当たり、東は九十九里浜、銚子辺りまで伸びていました。
千葉県市川市周辺の地理JR総武線市川駅から北へ道をとりますと、真間川に至り、そこに架かる橋が「手古奈橋」となり 、いよいよ万葉の世界へ入り込む気分になります。すぐに真間小学校が北側にあり、八幡神社や 手古奈霊堂が東側にさらにその北側には、真間山弘法寺があります。 弘法寺は天平9年(737)行基菩薩が建立した「求法寺」に始まるとされていますから、丁度 赤人や虫麻呂が真間を「過ぎ」て「手古奈伝説」を耳にした頃と同じ天平年間ということになります。 その後8世紀はじめ、弘法大師の伽藍造営で「弘法寺」になったとされ、江戸時代には紅葉の名所と なっていました。
(左)八幡神社(右)真間山弘法寺山門弘法寺から西へ向かい、江戸川を見下ろすことが出来る台地の上に国府神社が鳥居を構えています。 いずれの国の国庁もその位置的な特徴は、すこし高台になった丘陵地に構築されていることです。 この下総国の国府も江戸川河川敷でも少し高くなったところにあり、現在の県営国府台団地や千葉 商科大学などが並んでいるところにあったと推定されています。現在では、国府台公園、スポーツ センター、国立国府台病院、国府台高校などの公共施設群の集団地域になっています。
国府神社の参道と鳥居(左)と観光案内板(右)下総国の「真間」という地名は、万葉集にも引用されているように大変古く、1300年以上の 歴史を有することになります。 下総国の国府が置かれた台地の南側へは海が入り込んできており、「真間の浦」と詠まれています。 「葛飾の真間の浦みを漕ぐ舟の船人騒ぐ波立つらしも」(巻14−3349)(下総国歌) 山部宿禰赤人が「勝鹿(葛飾)の真間娘子の墓を過ぎし時」既に当地に伝承されていた「真間娘子」 の伝説に注目したのです。赤人が巻三ー432番歌で「真間の手古奈が奥津城処」と引用しました。 続く433番歌では、「真間の浦」の代わりに「真間の入り江」と詠んでいます。 「葛飾の真間の入り江にうちなびく玉藻刈りけむ手古奈し思ほゆ」(巻三ー433番)(山部赤人) ここで、「玉藻刈る手古奈」とは、暗に「入水」した「手古奈」のことを偲んでいるのでしょう。 虫麻呂は、この辺の状況を伝えるのに「・・・いくばくも いけらじものを 何すとか 身を たなしりて 波の音の 騒ぐ港の 奥津城に 妹が臥せる・・・」のような語句を用いました。
(左)手古奈霊堂正面(右)説明板虫麻呂が「勝鹿の真間娘子を詠める」長歌の反歌として次のように詠み込んだ「真間の井」とは 現在の「亀井院」の裏庭にある井戸とされています。当初「亀井院」は「瓶井坊」と呼ばれていた ところから、「真間の井」とは、水瓶を土中に据えてそこから清水が湧いて出ていたものではないかと 想像されています。 「勝鹿の真間の井を見れば立ちならし 水くましけむ手古奈し思ほゆ」(巻九ー1808)
(左)亀井院の井戸(右)真間の継ぎ橋
真間の継ぎ橋とその説明板
弘法寺山門の正面参道は南の海に向かって伸びており、その途中にかっての「真間の入り江」に かかっていたと思われる「真間の継ぎ橋」が記念碑と共に復元されています。 「足の音せず行かむ駒もが 葛飾の真間の継ぎ橋止まず通はむ」(巻14−3387)(下総国歌)目次に戻る
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平成16年6月23日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
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