
山部赤人の万葉歌を集めますと、大凡50首になるわけですが、これらは次のように分類しました。
| 山 部 赤 人 の 万 葉 世 界 | |||
|---|---|---|---|
| 歌 分 類 | 歌 対 象 | 歌 番 号 | 備 考 |
| 四行幸 | 紀伊行幸 | 6-917,918,919 | 神亀元年(724)10月 |
| 吉野行幸 | 6-923,924,925,926,927 6-1005,1006 | 神亀二年(725)5月 天平八年(736)6月 | |
| 難波行幸 | 6-933,934 | 神亀二年(725)10月 | |
| 印南野行幸 | 6-938,939,940,941 | 神亀三年(726)9月 | |
| 六浦 | 田子の浦 | 3-317,318 | 不尽山を望る歌 |
| 和歌の浦 | 6-917,918,919 | 紀伊国行幸 | |
| 敏馬の浦 | 6-946,947 | 敏馬浦を過ぐる時の歌 | |
| 縄の浦 | 3-357 | 六連歌のなかの一首 | |
| 武庫の浦 | 3-358 | 六連歌のなかの一首 | |
| 藤江の浦 | 6-939 | 印南野行幸時の一首 | |
| 四山 | 不尽山・神奈備山 三笠山・象山 | 3-317,318,3-324,3-373,6-924 | 富士山・雷岳・春日山・吉野宮滝 |
| 三島 | 辛荷島・阿倍の島・野島 | 6-942,943,944,3-359,6-934 | 兵庫県室津沖・不詳・淡路島 |
| 七花 | 韓藍・菫・桜・梅 菜・萩・藤 | 3-384,8-1424,1425,1426,1427,1431,1471 | 主として巻八「春の雑歌」に収録。 |
| 三鳥 | 山鳥・千鳥・鶯 | 9-924,925,17-3915 | 鶯の歌人名は「明人」。 |
| 水草・藻 | 玉藻・名乗藻 | 3-360,362,363,378 | 縁語、掛詞としての用語 |
| 娘子 | 勝鹿真間娘子 | 3-431,432,433 | 千葉県市川市真間町 |
| 温泉 | 伊予温泉 | 3^322,323 | 松山市道後温泉 |
| その他 | 春日野・明日香川 佐農の岡・都太の細江 (浜辺) |
3-372,3-325,3-361,6-945,6-1001 | 佐農の岡(未詳)、都太(姫路市内) |
山部赤人が従駕した5回の行幸先のうちで、紀伊行幸と印南野行幸を辿ります。赤人の万葉歌枕の 中から代表的な縁りの地として、和歌山の和歌の浦、縄の浦など瀬戸内各所を訪れて、現在の「万葉 情景」を見たいと思います。目次に戻る
紀伊国として和歌山地区が万葉集に詠み込まれた歌は、大凡107首ほどあり、時代的には斉明天皇 期、持統天皇期、文武天皇期、聖武天皇期に分かれ、地域区分としては、紀ノ川沿い、和歌山市・ 海南市、有田郡内、御坊・田辺・白浜周辺そして一番東の新宮市辺りになると分析されています。 この分類の中で、和歌浦地区は13首挙げられ、その枕詞には、 若の浦:6−919,7−1219,12−3168,12−3175 玉津島:6−917,6−918,7−1215,7−1217,7−1222,9−1799 の二語が抽出できます。 行幸時に各天皇方は和歌浦のどの辺りを逍遥されたのか、風光明媚な海岸線をめぐりながら、万葉の 時代に思いをめぐらすことになります。それらの中心的な位置は、多分現在の玉津島神社、不老橋、 妹背山などと、それに連なる遠浅の片男波海岸ということになるでしょう。 山部赤人による和歌浦賛歌の長歌の中で「常宮」と言及されている天皇行幸時の離宮は、現在東照宮が ある権現山の東側と推測されています。 当時は未だ存在しませんでしたが、これらの地域を正面に展望できる現在の紀三井寺(770年創建) の地、名草山からの眺望も楽しまれたかもしれません。












「和歌」の浦の「和歌」の神様が鎮座まします「玉津島神社」は、稚日女命・神功皇后・玉津島姫 (衣通姫))を祀る1600年の歴史を有する大変由緒ある「和歌」の神社です。 玉津島神社は五世紀前半頃、仁徳天皇第四皇子で第19代允恭天皇の御代に、その皇后の妹に当たる 「衣通姫」という和歌を良くし、天皇の寵愛を受けた歌人が居られました。それから大凡400年 経って、第58代光孝天皇(884〜887)の時、衣通姫がその夢枕に立って和歌浦に因んだ歌を 詠んだという故事から玉津島神社に祀られ、歌人、特に女流歌人の神として尊崇され、嘗て小野小町も 訪れたということです。 因みに、和歌の神様は、大阪の住吉神社、明石の柿本神社、そしてこの和歌浦の玉津島神社が 「和歌の三神」とされています。平安朝から鎌倉時代に懸けて多くの宮廷人達が和歌に精進する為に 神頼みしたわけですが、殊にこれらの三神に対する思い入れは、伝統的な信仰になっていったようです。 中世歌人の中心人物である藤原定家の父・俊成も自宅に「玉津島神社」を勧請するとともに、遙か 和歌浦の当社を遙拝していたのです。 歌人は心の拠り所となる自らの守り神を心に備え、その神に祈ることによって自らの歌心を研ぎ 澄まし、精神を集中させることに絶えず腐心して、歌道の上達に心掛けていたのです。 歌聖柿本人麻呂が男性の代表的歌神であるのに対して、衣通姫は女性の代表的歌神ということに なるわけです。 山部赤人が天皇に従駕して和歌浦「玉津島神社」を訪れたことも当然というべきでしょう。 彼にとっては、今や万葉集の代表歌になっている巻第六ー919番歌の反歌より、むしろ917番の 長歌の方に意味があったわけです。 「やすみしし わご大王の 常宮と 仕えまるれる 雑賀野ゆ 背向に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より 然ぞ尊き 玉津島山」 (巻六ー917番) 「若の浦に潮満ち来れば 潟をなみ 芦辺をさして鶴鳴き渡る」(巻六ー919番)

8世紀のはじめ、聖武天皇とその廷臣等が和歌浦行幸で鑑賞した「若の浦」の景観は、歴史的に どのように変わっていったのでしょうか。 現在の和歌浦地区は嘗て万葉時代には前述の地形図のように殆どが海岸と島々になっていたと推測 されており、8世紀後半に名草山の中腹に創建された紀三井寺は、和歌浦の風光を見下ろせる絶好の 地形であったことによるものと思われます。当時は、現在以上に多くの島々と海岸美の素晴らしい 名所であったと推測されます。 (参考冊子:藤本清二郎「和歌の浦百景ー古写真で見る「名勝」の歴史」「和歌の浦ー歴史と文学」)


現在和歌浦で、当時を偲ばせる海岸美の残っている場所は玉津島で、妹背山として和歌浦湾に辛う じて存在しています。 近世になって19世紀前半に玉津島神社前の入り江に中国庭園風の不老橋が架けられました。 さらに19世紀後半の明治期に入り、和歌浦の観光事業は進んで、新和歌浦開発から奥和歌浦へと 展開され、さらには和歌山南港の湾岸整備に発展し、「万葉の景観」はどんどん変貌していったのです。 辛うじて初の国立公園「瀬戸内海」の最東端の一画になりながらも、景観の変化は進みました。 1990年代に入り、和歌浦の西から北にかけての湾岸の開発が一段落し、今度は、和歌浦湾の 南側から海南地区にかけての大規模な人口島造成計画が立てられ、現在の「和歌山マリーナ・シティ」 とボルト・ヨーロッパを中心とした人工リゾート島となって出現しました。 今や人々の景観に対する好みが変ってしまったのでしょう。




和歌浦湾の人工リゾート島開発に関連して、周辺地区の再開発も進み、その一環として対岸の 玉津島神社周辺でも道路整備として、「不老橋」に隣接して新たに橋が架けられることになり、 歴史的景観の破壊と関係者の「万葉故地保存運動」へと展開してゆきました。 嘗て和歌山県では、県南部にある田辺湾北岸天神崎が「ナショナルトラスト運動」勃興の発端に なった所です。 田辺湾北岸に位置する天神崎約20haに広がる地域開発計画が起こり、田辺湾の自然が破壊され そうになりました。 昭和49年2月「天神崎の自然を大切にする会」が発足し、昭和50年より開発候補地の土地を 少しずつ買い上げていく地主運動になり、昭和50年の第一次土地買い上げに始まって、昭和58年 には、第1回ナショナルトラスト運動全国大会が、田辺で開催され、昭和62年(1987)には、 ついに自然環境保護法人(ナショナルトラスト法人)第一号に指定されるに到りました。 関連するナショナルトラスト情報をリンクしておきます。 このように環境保全運動の歴史上記念すべき土地となったところだけに、当該「和歌浦新不老橋 (芦辺橋)建設訴訟」も大きな社会運動となって関係者を巻き込んでゆきました。 (参考冊子:和歌の浦景観保全訴訟の裁判記録「よみがえれ和歌の浦」東方出版) 昭和63年(1988)9月、和歌山県は「不老橋」の前に車道橋として「新不老橋」建設計画を 発表しました。 平成元年(1989)頃から「新不老橋」建設反対運動が起こり、住民訴訟が提訴され、平成三年 (1991)には関係する万葉学者などが和歌山地方裁判所で法廷証言を行ったものの、17回に及ぶ 口頭弁論を経て、平成六年(1994)11月30日結審し、敗訴しました。残ったのは、証言で 提起された「住民が歴史的景観権を所有している」という考え方があることへの認識に留まりました。

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