敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 178 回  *** 第4番・その2 ***
*****  山部赤人ー富士の高嶺(その2)  *****

目    次
<江戸の富士見坂> <富岳三十六景> <富士見峠>

百人一首・第4番 田子の浦に打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ



葛飾北斎筆「富嶽三十六景」より「東都浅草本願寺」

<江戸の富士見坂>

 「花のお江戸」の百万庶民は、毎日「ふじのやま」を眺めて暮らしていました。
 江戸の町に「富士見坂」と呼ばれる坂は15個所もあったようです。江戸の町は武蔵野台地の
坂と丘陵地に展開し発達した近世巨大都市であったからです。
 富士の眺めを愛する江戸の人々の気持ちは近代になっても受け継がれて、東京周辺地域、さらには
東京都下の地域に「富士見」の地名は生きているようです。
 また何かにつけて「東京」という地域を意識する「関東」人の考えの中には、西の境としての
「富士の山」が生きずいているようです。典型的な例は、毎年新春正月2日、3日の二日間に渡って
東京・箱根間で行われる「大學対抗箱根駅伝」でしょう。何故箱根なのか、なぜ「日光」でないのか、
東京圏の境界としての玄関は箱根と思っている証拠ではないでしょうか。

 最近、「富士見坂」を巡回した人の情報によりますと、都心に全部で22個所に「富士見坂」が
残っていて、内訳は、荒川区1,文京区5,豊島区1,新宿区1,千代田区3,港区5,渋谷区2,
目黒区1,品川区1,北区1,大田区1ですから、その地域は旧江戸と現在の東京都心の全域、
すなわち山手線の内側に分散していて、どこからでも嘗ては富士が望めたことになるようです。
残念ながら、現在はこれら富士見坂の殆どの所から名前通りに「富士見」はできないのですが。
 参考冊子(横関英一「江戸の坂・東京の坂」中央公論社(1981年))に依りますと、都心には
坂が433あり、坂名は726で、富士見坂の内、現在でも富士が望めるのは日暮里富士見坂のみの
状態に環境が変わったのです。
 この貴重な「風景遺産」を大切にしようと「富士見坂眺望」の愛好会も結成され、活動しています。

 「田子の浦」から見上げる「不尽山」もさることながら、「江戸の町」から、遙か箱根関の彼方に
眺める「富士の山」には一層地理的境界としての「江戸の門柱」と感じるのではないでしょうか。
 その昔箱根の関を徒歩で越えて「関東」から「関西」へ、旅に出た人が富士の山を目前にして、
初めていよいよ旅に出たのだと実感したことでしょう。現在のように、新幹線に乗りますと、東京から
あっという間に丹那トンネルを抜けて、10分ほども富士を車窓に富士を見たかと思う間もなく、
見ればいつの間にか富士の姿は、後ろの景色になっているスピード移動では、「関」を越えたという
実感は出てきませんが。

(左)東京都心の「富士見坂」(中)ビルの谷間に垣間見た「片富士」遠景(右)「富士見坂」愛好会 目次に戻る

<富岳三十六景>


葛飾北斎筆「富岳三十六景」より「東海道江尻田子浦略図」
 戦前から戦後の一時期まで、市街地の各家庭には未だ「家庭風呂」が無くて、専ら銭湯を利用して
いた時代がありました。毎日夕方通ういずれの銭湯浴室にも壁画は「富士山」が多かったとされて
います。それだけ、日本人にとって富士を眺める風景というのは落ち着いた気持ちを与えたという
ことでしょうか。
 ここにも千三百年前、藤原不比等とその協力者としての山部赤人によって画策された民族精神の
意図的煽動であり、国民を育撫していくための「日の本の大和の国のシンボル」が遺憾なく継承されて
おり、階層を問わず民族全体に、また政治的体制の如何を問わず歴史的に、伝承されてきていると
感ずるのです。

 富士山を素材にさえしておけば、人々の関心は間違いなしに取れるというので、江戸の人々も
こぞって「富岳」芸術に心酔しました。幕末の浮世絵師・葛飾北斎(1760〜1849)は今や
世界的に有名な絵画になった「富岳三十六景」を残しました。

 この「大判錦絵揃物」としての浮世絵風景版画シリーズは、表富士・輪郭線藍色刷り物36枚と
裏富士・墨物10枚計46枚からなるもので、文政5年(1822)頃から天保年間(1830年代)
にかけて江戸馬喰町大店西村屋与八の西村永寿堂を版元として出版され、大変な人気を博しました。
 特に「山下白雨」「凱風快晴(赤富士)」「神奈川沖浪裏」は、三役と称されて芸術性の高い版画
作品とされています。その大胆な構図と単純な色彩の奇知的芸術感覚は、フランス絵画世界にも
衝撃を与えたとされる日本が世界に誇れる芸術です。
 外国人に与えた日本絵画のカルチャー・ショックを評価する前に、日本人自身に与えた北斎画の
国民的影響は相当に大きい、且つ根深いものであったことを認識できます。

 「富嶽三十六景」は大変な人気で、江戸の人々に「心の富士山」を与えました。この評判に気を
よくした北斎は、「富嶽百景」を手掛けて作品世界を発展拡大させ、歌川広重の富士の一連の作品
(「不二三十六景」「富士見百図」「富士三十六景」)を喚起しました。
 もっとも富士山をシリーズ物で描いた作品は北斎の百年前から見かけるもので、彼の作品が丁度
その流行の最盛期に当たるのでしょう。
 この画材は昭和期でも横山大観や梅原龍三郎などの絵画に繋がると見るべきでしょう。
 また、現在でも、一般家庭の床の間の掛け軸に「富士の画」がその代表構図であることを見ても
如何に「富士山」が「日本人の心象」であるかを物語っています。

 こういった日本人の真髄の芸術作品を輸出することが、その後の日本を見る西欧人の概念を構成する
ことになり、その端的表現として「さむらい」「ゲイシャ」「ふじやま」に仕立てられていった背景に
なったのかも知れません。
 北斎は日本芸術の海外紹介の大いに尽力したことになりますが、ひいては千三百年前に藤原不比等が
日本のシンボルとして「不尽山」を企画したことがその後の日本を形づくったことになるといっても
過言ではないでしょう。


葛飾北斎筆「富嶽三十六景」より「凱風快晴」(左)と「山下白雨」(右)
(引用資料:東京国立博物館ホームページより)

葛飾北斎筆「富嶽三十六景」より「神奈川沖浪裏」と駿河湾220km海域図
(御蔵島と八丈島の中間の海上までが富士山から220kmの距離にある)
  北斎の観察眼は駿河湾海上何キロメートルに位置していたのでしょうか。?
 富士山の高さ:3.776km、地球の平均半径:6367.453km(地球の赤道半径:6378.140km、極間
半径:6356.755km)として、これらの直角三角形の一辺を求めると、219.32kmになります。
 富士山の頂上から220km圏内は添付図のように、東は銚子沖、北は新潟平野内弥彦山まで、
西は鈴鹿山脈付近まで、南の海上では、八丈島の辺りまでということになります。
 わざわざ神奈川沖まで船を出して「富嶽」をスケッチしたとは思いませんが、その観察眼を備えた
北斎の造形眼は素晴らしい「芸術家の目」というべきでしょう。

 この「富嶽三十六景」の売れ行きに気をよくした関係者は、さらに「富嶽百景」(薄墨摺り半紙本
三冊)に発展させ、大々的に商売を拡大して、大変な人気を重ねることになりました。
 これを見ていた他の浮世絵師も黙って居られず、歌川広重は「富士見三十六図」を出版するに到って
います。如何に当時の日本人というべきか、江戸っ子達は「富嶽」に親しみを持っていたかという
証拠ではないでしょうか。

<富士見峠>

 「花のお江戸」の中から箱根関向こうの「富士山」を仰ぐ場所が「富士見坂」であるなら、江戸
以外の地域で富士山周辺から富士を仰ぐ所は、「富士見峠」ということになりましょう。
 「富士見峠」なる場所を参考資料(徳久球雄編「日本山名事典」三省堂(2004年5月)ほか)
より抜粋してみますと、次のように栃木県、群馬県、新潟県、静岡県、長野県、三重県から抽出でき
ました。
 
所在県名所在地標高(m)距離(km)
栃木県日光市と栗山村の境2036175
黒磯市内290215
宇都宮市内
群馬県片品村1870178
榛東村、吾妻山南700120
吾妻郡六合村
新潟県糸魚川市と妙高村の境2070195
長野県諏訪郡富士見町
静岡県静岡市内、井川への県道118450
静岡市内、国道52号線23030
裾野市
三重県一志郡美杉村と名賀郡青山町240
 
 これらいずれの富士見峠からも、富士山を見ることが出来たとしますと、もっとも遠く離れた峠は
栃木県の黒磯市内および三重県の布引山地で、いずれも200km以上離れています。
 さらに素晴らしい景観と思うのは、新潟県内の妙高高原近くにも「富士見峠」なる所があるという
ことです。この地から富士山までの途中に戸隠山、霧ヶ峰、八ヶ岳、高根岳など2000m級の山々が
隔たっているのです。本当にこの地から「富士見」が出来るのならば大変興味のある景観です。

 また峠の名前は付いていなくても、富士の景観を獲得できる場所は、その他の所でもいろいろある
と思われます。果たしてどの当たりまで離れた場所でも富士を見ることが出来るのでしょうか。
 一例として、先に引用した葛飾北斎の「写生場所」をそれぞれ、東西に追ってみますと、東は
「上総の海路」が描かれており、西では「信州諏訪湖」「尾州不二見原」等が採り上げられています。
 これらの場所は前表に挙げた「富士見峠」の所在地までは拡大していませんが、それに近い東西の
地域まで拡大している事が分かります。

 富士信仰の宗教的活動は当然としても、富士を仰ぐことは何も「江戸っ子」だけの習慣ではなく、
現在でも、地元の駿河の国から、関東諸国から、さらには「富士を眺めることが出来る地域」を探索
しつつある人々も、「富士景観」を楽しんでいるのです。

 最近の新聞記事に次のような写真が載りました。
 この写真の撮影場所は、富士山から276.8km離れた大台ヶ原山系からで、見事に富士山の
遠距離撮影記録を認定しているグループのいうところの「ダイヤモンド富士」が捉えられたわけです。
 この写真のように昇る朝日の中に富士山のシルエットが浮かぶ写真は、大変貴重な物で、撮影の
場所と時間が限定されるようです。
 (参考)当該写真を認定した「山の展望と地図のフォーラム」という情報に寄りますと
     富士山から東、北方向へ最遠富士眺望地点は福島県の花塚山(918m)で、308km
     離れた地点で、西、南方面では、和歌山県の妙法山(749m)で、323km離れた
     地点とのこと。
     この情報に寄りますと、東・北方面では、福島県・栃木県まで、西・南方面では、
     和歌山県・奈良県・京都府まで見える可能性のあるところがリストアップされています。

 富士山は日本の国のほぼ半分以上の地域を「白妙の帽子を被って」眺めている事になりそうです。
 藤原不比等の目論見はまことに当を得た物であったわけで、そのお手伝いをした山部赤人も千年を
越える民族遺産を明確にすることに功績があったと見なければなりません。

大台ヶ原から遠望した富士山からの日の出風景(出典:朝日新聞・平成16年6月8日朝刊記事より)
 
 そこで、地理的にどうしても「駿河なる富士の嶺」が望めないとなると、地元周辺の地形から富士に
形が似通っている山で代替することになります。
 「我が故郷の富士」としての「○○富士」なる山は、ざっと30山ほど挙げることができます。 

  北海道   蝦夷富士(羊蹄山)1893m  利尻富士、阿寒富士、渡島富士
  東北地方  出羽富士(鳥海山)2237m  南部富士、津軽富士、會津富士ほか
  関東地方  下野富士(男体山)2484m  榛名富士、八丈富士
  中部地方  諏訪富士(蓼科山)2530m  越後富士、信濃富士、高井富士など
  近畿地方  紀州富士(竜門山) 757m  若狭富士、近江富士、有馬富士など
  中国地方  伯耆富士(大山) 1729m
  四国地方  讃岐富士(飯野山) 422m  伊予富士
  九州地方  豊後富士(由布岳)1584m  薩摩富士

 さらには、「ふじさん」「ふじやま」と命名している山も全国で20山ほど見られます。
 日本一の「駿河の国のふじさん」に対して、一番低い「ふじやま」は茨城県友部町(常磐線岩間駅
北4km)にある山で、標高僅かに128mとはいいながら、山頂には石祠も祀られているところです。   

 さらには、周辺に適当な山もないとしますと、もはや名前だけでも富士山が見られるようにとなる
わけです。(参考情報:「富士見地名一覧」など)
   
  「富士見○○」と付く地名で、もっとも多いのは、やはり関東平野の各県ですが、埼玉・千葉・東京
神奈川が多く、ついで、中部地方の山梨・長野・静岡となります。
 北海道内の地名でも、14件も数え上げることが出来ますが、これらの地は多分に移住前に居住して
いたところの地名を流用しているのでしょう。近畿以西の各県でも一、二の「富士見」が散見されます。
これらは単に名前の聞こえの良さだけを採用しているのでしょう。それほどに日本人は「富士○○」
を好むと言うことを表しています。

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