敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 177 回 *** 第4番・その1 ***
***** 山部赤人ー富士の高嶺(その1) *****
目 次
<田子の浦>
<富士山と日本人>
<富士山の歌曲>
百人一首・第4番 田子の浦に打ち出でてみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ

葛飾北斎筆「百人一首うばのゑとき」より「山部の赤人」
<田子の浦>
東京と大阪間に新幹線が開通したのは昭和39年10月(1964)で、今から40年前の事になり
ます。当時東京・大阪間で停車する駅は約10駅でしたから、新幹線上からじっくりと富士山を眺める
こともままならず、車窓に富士山が望めるのはほんの15分か、20分程度で、あっという間に車窓の
右から左へ飛んでいってしまいました。富士山を真正面に眺めることが出来るのは、唯一富士川の鉄
橋付近から沼津辺りまでです。
日本人である限り、誰しも経験することは、初めて富士を見た時の感動でしょう。最初に富士の
高嶺を目の前に仰ぎ見た時、言葉にならない感嘆詞を発したはずです。自分が思っていたよりも高い
目の位置で富士の姿を見たとき、何とも言えぬ胸の高鳴りを感じたものです。
参考として、明治37年までの「国語読本」(国定教科書の前、尋常小学校第三学年の教科書)では、
「こころあてに、見し白雲は、ふもとにて、おもはぬ空に、はるる富士のね」という「昔の人の
詠んだ歌を載せています。
また小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は、短編小説「ある保守主義者」で、汽船の船員が甲板上
から船客の外人に富士の山の見るべき「目線の高さ」を教えています。
「ああ、あなたがたは目の付け所が低すぎるのですよ。もっと上を見てごらんなさい。
もっと高いところを。」
(引用冊子:青弓社編集部「富士山と日本人」(2002年5月刊行))
地上から富士山を見るのではなく、飛行機の上から見る富士もまた格別です。特に初めて外国に
飛行機で旅立ち、何日か経って帰国し、母国の島に聳える富士の偉容を確認できたときは、また各段の
思い出になる風景です。飛行機の上から眼下に富士の全貌を鳥瞰図として捉え、富士五湖から駿河湾、
箱根などを一望の下に眺められる時、祖国の誇りとしての富士山を感ずるものです。富士の山頂が
機上の窓からやや斜め下に、庭石を眺めるように概観できる嬉しさは格別です。日本の国がある限り、
富士は日本の山を代表することになるのです。
後述のように日本各地のあちらこちらから、富士を眺めるのも楽しいものです。「まさか此処から
富士は望めないであろう」と思っていた関東平野の真ん中から富士山が望めました。富士に対抗する
歴史の古い筑波山の麓から、秋の夕暮れ時に眺められた富士の遠景も忘れがたい風景です。地平線の
彼方に「へ」字型のスカイラインと夕日のシルエットの影が眺められたのです。
新幹線の新駅として「新富士」駅が平成7年に出来ました。正しく富士を正面に眺められる富士の
新名所になっており、プラットフォームからでも駅前北口からでも、眺められます。
「新富士」駅を降りて、南へ道を採りますと、国道1号線富士由比バイパスに当たり、西に移動し
ますと富士川鉄橋に到ります。

(左)富士川鉄橋から遠望する富士(中)新富士駅周辺の地図(右)田子の浦港からの富士
富士川鉄橋上から望める富士の姿は誠に穏やかで、麓で見るときのように覆い被さって来る圧迫感は
全くありません。むしろ麓まで広がっている工業地帯の現代的な風景の方が、繁雑な感じを強く受けて、
うんざりするのです。
駿河湾周辺での地震による高波や津波に備えて、防潮堤は大変高くなり、堤防下の民家が異常に
小さく見えるのです。この津波堤防を東へとると、田子の浦港に到ります。「田子の浦」漁港は小さな
漁船で一杯です。漁港の周りは石油関係工場や製紙関係の企業がひしめいています。
山部赤人が律令体制下の官人として、この田子の浦の海岸を通過したであろうと思われる時は、
今を去ること1280年以上(神亀元年・724)前のことになります。富士の周辺の環境は赤人の
時とは比較にならないくらい変貌したわけですが、唯一変わらぬ不変の風景は「不尽の山」である
わけです。山部赤人が眺めた富士も、今我々が目の前に見ている富士も同じ「富士の山」であること
に言いしれぬ悠久の時を感じると共に、山部赤人を身近に思うことが出来ます。
言い換えれば富士を介して、現在の人が過去の人を映すことが出来、未来の人々に思いを託する
ことが出来るランドスケープであるのです。

(左)山部赤人の万葉集歌碑(右)田子の浦漁港案内図
田子の浦の奥まったところに山部赤人の万葉歌を記念した石碑を見ることが出来ます。この碑の脇に
立って富士を眺めますと、まずJR東海道線が、次に新幹線の高架橋が見えます。この橋の彼方に
富士の嶺が雲の帽子を被っている姿が見えます。”はずかしがりやに富士の嶺”。ちらちら見せる
頂の顔。富士山が晴れ渡った青空に美しいスカイラインを見せるのは冬季のようです。いつでも全景が
見えないところに富士の良さがあるのかも知れません。
毎日毎日富士を眺められる周辺に住まいする人々は幸せだと思う一方、一年に何度も見られない上に
全貌が時々しか見ることが出来ない人々には、何回かに一度だけ全景が望めたことに幸せを感じる
ことになるのかも知れません。
「花」といえば、「桜」が日本のシンボル。「山」といえば、「富士」が日本のランドマーク。
いずれにしても富士の山を美しく眺められることが、日本人としての誇りであり喜びであるわけです。
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<富士山と日本人>
「水底の歌」によって万葉歌人にして歌聖柿本人麻呂論を展開した梅原猛氏は、「さまよえる歌集」
でも「赤人の世界」を論じておられます。赤人に対する歌人としての評価は、次のように言及されて
います。
山部赤人は、万葉集には約50首(長歌13首、短歌37首)収録されていて、その何れもが万葉
風土に関係しているものですから、従来から山部赤人を「自然詩人」と概評されてきました。確かに
長歌の13首は、大半が平城京の都の外での羇旅歌です。富士、伊予、葛飾、紀伊などで、後は、
吉野、難波宮、印南野、辛荷島、敏馬浦、神奈備、春日野などです。
(経歴や万葉集中の歌については連載第179回「赤人の世界」を参照願います。)
しかし、長歌の最初に挙げられた「不尽山を望る歌一首並びに短歌」(巻三ー317番、318番)
の連作を、これに続く高橋虫麻呂の「不尽山を詠ふ歌一首並びに短歌」(巻三ー319番、320番、
322番)と比較してみますと、虫麻呂のように「不尽山」に対する極めて的確な自然描写がない
「観念的な歌」に仕上がっていて、・・・富士のイメージから明らかに「日本のイメージ、天皇制
日本のイメージを初めて詠った詩人」であるとされています。従って
・・・赤人を自然詩人、叙景詩人というけれど、彼はけっしてある時、ある場所に立って、具体的な
自然を見て詠った詩人ではない。・・・彼の詠う自然は、「観念化された自然」である。
・・・富士は赤人をもって日本を象徴する美的シンボルになったといわねばならない。・・・
・・・柿本人麻呂に代わるべき、新しい律令制詩人として、時の政治権力が見つけだしたのが、この
山部赤人という詩人ではないのか。・・・
また、万葉集歌人集成(中西進ほか・1990年10月・講談社)の山部宿禰赤人の人物評として
「神亀・天平期専門歌人、史書に記述無し、五位以下の下級官人、藤原不比等の資人」としています。
山部赤人の「不尽山」の歌の総評として、梅原氏は次のように結論されています。
「・・・富士が天皇制日本を表象する山であり、しかも、天皇制日本が当時、藤原不比等によって
つくられたものであり、赤人が不比等と親しかった事を思うと、やはり、彼を天皇制日本の美的シン
ボルを作り出した詩人と考えないわけにはいかない。とすれば、山部赤人は政治的な、あまりに政治
的な詩人ということになる。彼こそ、宮廷詩人、御用詩人の名に相応しい詩人であろう。」
このように藤原不比等によって、山部赤人を活用して天皇制日本のシンボルとなった「不尽山」は
その後の「日本人」によってどのように取り扱われ、「民族的統合イメージ」になっていったかは、
万葉集以降の後世に於ける「駿河なる富士の高嶺」の扱われ方を見れば解ることでしょう。
都が平安京にあった間は、あくまでも遙か彼方「東国」における「煙を上げる火の山」のイメージで
あったのです。記録に残る富士山の噴火活動は、三大噴火(延暦十九年・800,貞観六年・864、
宝永四年・1707)以外に、天応元年・781以来、18回、すなわち68年に一回、記録されて
います。現在は麓からは煙が立つのは見えませんが、山頂の一部の岳の近くで蒸気を吹き上げている
とのことですから、死火山ではなく、明らかに休火山で、いつまた噴火するかもしれない、その可能性
が十分に残されており、現在でも東海沿岸沿いの大地震発生とも絡めて危機予告されているのです。
「駿河なる富士の白煙」を眺めた人々の中に、菅原孝標女(11世紀半「更級日記」)、西行(12
世紀半「山家集」)、阿仏尼(13世紀半「十六夜日記」)、その他「海道記」「東関紀行」などに
実写されております。在原業平の「伊勢物語」も、東下りの途上、富士を見上げて、「比叡の20倍は
ある」と記しています。(848mx20=16960mとなり、エベレスト山の2倍という大変な
高さの山になり、当然世界一高い山と言うことです。高さを強調するのも、文学的に大きく、これ
ほどにしておくと、伊勢物語としても面白く、京の人は、ぜひでも一目見たくなるわけです。)
一方宗教的な面からも「不尽山」への信仰は、富士山麓に発掘されている縄文中期遺跡からも認め
られるところで、浅間神社は9世紀中頃には「名神」の一社に挙げられています。
(参考資料)これらの参考冊子として、前節で引用した青弓社編集部「富士山と日本人」
(2002年5月刊行)には、富士山を「イコノロジー」「絵画」「教育」「登山」「信仰」
「文学」の各方面から日本人の精神を形成することに如何に富士山が関係しているかを
集計している冊子情報です。
政治的中心が関ヶ原合戦以降、「箱根関」の東・関東平野の「江戸」に移ってから、「不尽山」
への人々の関心もこれまで以上に高くなります。それは、江戸の町から毎日「富士」を遠望することが
出来たからです。
平安京からは、いかな逢坂の関を越えただけでは、富士の山は望めません。それは、近江、美濃、
尾張、三河、そして、遠江に到って初めてみることが出来たわけです。三つも四つも国を越えて遙かな
東国にあるといった観念であった富士の山ですが、「お江戸の町」からは、何処からでも望めたので
はないでしょうか。(次回連載「富士の高嶺(その2)」の「富士見坂」参照方)
かって、「逢坂の関」から東は鄙の国であったのが、江戸期には「逢坂関」に代わる「関」と
して「箱根関」が重要視され、そこから「西は関外」となりました。江戸側から見て「関を出る」、
すなわち西に向かうことで、「関に入る」ことを江戸に入り込むことに表現され、「関」の外は、
「花のお江戸」から見れば、もはや「田舎」扱いです。
江戸での刑罰の一つに「関八州外へ放逐」する例がありました。平安時代の「畿内」の考えを応用
したものでしょう。さらには「入り鉄砲に出女」などと監視される始末です。
「江戸開府」後400年が経ち、「東京」が日本の中心に発展し、さらにこの「東京中心」の考えが
広まり定着しつつあります。従来の「関西」「関東」の区域分けによる各種物事の分類・解析・整理が
なされてきた動きは、さらに文化レベルの高さとその情報量の多さに関連して、東京の「中央」と、
その他地域の「地方」との偏差となり、差別化され、21世紀にはこの動きが一層加速されるような
気配です。「都」と「鄙」の関係以上に、「中央」と「地方」の格差は大きくなっています。
今や、かっての都・京都は一地方都市であって、全国レベルで見て、とても「東京」に対抗しうる
複都心区域ではないのです。
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<富士山の歌曲>
明治新政府は明治維新と共に西洋音楽を招来させ、国民教育を普及させる関係上、富士山を単に
文章や和歌などで言及しているだけでは物足りなくなって、富士山を歌曲にまで引っ張り出して
「日の本の大国」のランドスケープ、あるいはランドマークとして位置付けることに努めました。
7世紀から8世紀に宮廷の専門歌人が「不二山」を詠んでからほぼ1200年経ち、「富士山」を
唱う対象は青少年の若年層まで、拡大しました。
明治中期の「国語読本」のように、単に「読む」ことによって、「富士山」の崇高さを頭に植え
付けることに加えて、明治43年の「国定教科書」からは、富士を讃える歌曲としての小学唱歌
「ふじの山」(尋常小学読本巻四・第二学年後期用)が出てきました。
あたまを雲の上に出し 四方の山を見下ろして
かみなりさまを下に聞く ふじは日本一の山
青ぞら高くそびえ立ち からだに雪のきもの着て
かすみのすそをとをくひく ふじは日本一の山
また、初の国定唱歌教科書「ウタノホン」下(第二学年用)(1941年)にも、次の歌詞と歌が
載せられました。
大昔から雲の上 雪をいただくふじの山
いく千まんの 国みんの 心清めた 神の山
今 日の本にたづね来る よその国人 あふぐ山
いくまん年のにちまでも 世界だい一 神の山

(出典:青弓社「富士山と日本人」(第4章近代日本の教科書と富士山)より)
さらに、万葉歌での山部赤人「不尽山を望(まつ)る歌」は、現代人の心を捉える物であり、
いろいろな旋律で歌曲に載せている例を見かけます。
万葉集の歌曲例を引用しておきましょう。
以上のようにして、富士山は「日本人の心の山」となり、実景以上の何かを日本人一人一人に与える
山となりました。この辺の所を前述の冊子「富士山と日本人」(青弓社版)では、次のように纏めて
います。
「・・・日本人は仮想的な神仙郷を富士山という実在の山で、・・・実体化し、その原像を
さまざまな道具や技術を駆使して「写像の富士山」に変換した。・・・」
さらに、絵画、写真、家具、調度、装身具などの美術・工芸品だけでは飽きたらず、居住空間での
実景として「○○富士」まで名付け据えて、まだその上に「富士塚」まで造営するに到ります。
「・・・富士山という景観に込められた文学上、絵画上、宗教上、歴史上、科学上の集積に
共感することで、日本人の心性は研ぎ澄まされてきた」のです。また
「・・・日本人は日本という国土の富士山をこしらえてくれた造物主に感謝し、森羅万象の法則を
富士山から感得」するところまでに達したのです。
こうなりますと、ますます藤原不比等の目論んだ「日の本の大和の国」のシンボルとして、また
「不尽山」が関東・関西を区分するランドマーク的存在に「昇華」されつつあります。
不比等は、このような意味合いでの「不尽山」の千三百年後を思っていたでしょうか。
ましてや彼を「不尽山」歌で支援した歌人・山部赤人その人や如何に。
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