敷 島 随 想
(百人一首歌人旅)
「連 載」 第 176 回 *** 第3番・その7 ***
***** 柿本人麻呂ー人麻呂の虚実 *****
目 次
<石見国府>
<人麻呂の文学的世界>
百人一首・第3番 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々しき夜をひとりかもねむ

狩野探幽筆「百人一首画帳」より柿本人麻呂像
<石見国府>
石見国内で柿本人麻呂に関係深いところとして、残されたのは石見国の丁度中間に位置して、
かつ石見国の国府が存在した浜田地区になります。
浜田の地域に於ける「鴨山説」が出てくる論拠となっている事項としては、
(1)浜田藩の城山(亀山)は元和5年(1619)まで、「鴨山」といわれた。
(2)秋葉神社(城山公園内)は「柿本神社」を合祀しており、太鼓堂下塚が人麻呂終焉の地とされる。
(3)元亀年間(1570頃)浜田川は「石川」といわれた。
(4)浜田市国府町に石見国府があった。
など、いずれも柿本人麻呂の存在世界を説明するに都合の良い合致條件になっているのです。

(左)浜田市周辺地図(右)浜田市内城山公園周辺

(左)石見国の郡名と国府の位置(右)現在の国府町周辺地図

(左)浜田地区の柿本神社に相当する「秋葉神社」(右)現在の国府跡碑(浜田市国府町伊甘)
石見国の成り立ちを追ってみますと次のような「石見国開き」になっています。
大化改新以降8世紀にかけて設置されたと思われる石見国は前述郡名図に示されるように国府の
置かれた中央部の那賀郡他全部で6郡より成る遠国にして、中国にあたります。
(注)石見国設置に伴う同国の国府の設置時期については、諸説の推測があって、大化改新頃では
ないとする意見もあります。またその場所も始めから、現在の浜田市下府地区ではないという
推論もあります。すなわち大宝年間までは出雲国所管の石見分所的事務機関が、浜田より
出雲に近い江川の北側仁摩郡内あるいは、江川の南側の何処か、たとえば恵良(江津市郊外)
などに、過渡的に存在したのではないかというものです。
(引用図書:蓮沼徳治郎「人麻呂渡し」近代文芸社(1992年8月))
律令体制下で中央の大和朝廷より派遣された国司は続日本紀以後に記録されていて、人麻呂の場合
微官の「掾」(中国においては、定員1名で、正八位上に相当する下級官僚)で赴任したとされて
いるので、石見国が設置されて未だ半世紀も経つか、経たない頃に当たり、初期の石見国の官人で
あったことになります。
石見国府は当初、邇摩郡仁摩町内に置かれ、後に鹿足郡が分地されるときに現在の浜田市街地より
東北方向の約1km離れたJR下府(しもこう)駅周辺の下府町御所地に移転したことになります。
この国府の周辺には、天平期の国分寺と国分尼寺も併置されていたと考えられ、現在でも石見国分寺
址は残されています。
浜田市街の成り立ちは近世以降、隣国津和野藩に並ぶ石見地域を構成する浜田藩の治所になって
からで、明治維新以降は石見の政治的中心ではあるものの、自治体としての島根県政は松江に中心が
移っております。
柿本人麻呂の関連する「人麻呂万葉世界」は、南部の益田市地区と北部の江津市や邑智郡内に伝承
され、展開されていくことになるのでしょうか。
斉藤茂吉による邑智郡内での「人麻呂万葉世界」の景観発掘的具現化は、石見国の万葉期の歴史に
彩りを添えてゆくことになるのでしょう。時代と共に、一層の「石見国に於ける柿本人麻呂世界」の
文献資料などによる発掘と復興や柿本人麻呂文学再評価が検討されていくことを望むところです。
目次に戻る
<人麻呂の文学的世界>

京都・本圀寺所蔵の人麻呂木造
(引用資料:京都新聞「京都物語・28」内山逸峰(1998年7月31日夕刊))
(その1) 民族学的な人麻呂世界に関して
柿本人麻呂の生涯に関するこれまでの万葉集研究家の通説は、大宝年間から慶雲年間にかけて
石見国司となり、彼の地で没したとされてきました。しかし、万葉集の研究も時代や関連資料を重ねる
に従って、関係する諸研究者から諸説がだされ、人麻呂の「石見国臨死」自体が疑問視され、石見国
での所在の確証さえ、見直しという意見もなきにしもあらずの状態で、どもまでが真実で、どこからが
文学的仮構なり虚構なのかさえ、不確かになって、一層「柿本人麻呂」なる人物に対する概念が拡大
分散すると共に茫漠として不透明になってきました。
一人の伝説の人物にいろいろな昔の世界を背負わせるのは、人間社会の文化の積み重ねの歴史的推移の
一形態であるのはやむなしです。それらの諸件を少しずつ解きほぐしてこそ、真の人麻呂像が描けるの
でしょうが、果たしてそこまで純学問的に追究していった結果に何か期待できる成果はあるのでしょうか。
そうする事に意義を見出す研究者なり文学者は、その分野の研究界での活躍をお願いして、一般に
万葉集あるいは柿本人麻呂和歌愛好家としては、事実の解きほぐしによって、これまで「柿本人麻呂」
およびその「人麻呂万葉世界」の夢と浪漫が崩れないことを望むところです。
口承時代の伝説的和歌集のいくつかは作者さえ解らない場合が多いでしょう。それらを伝承していく
時に、都合良く名だたる歌人が活用できればいいわけです。よく分からない作者の歌は、みんな「柿本
人麻呂」自身にしたり、それも自信なければ、「柿本人麻呂歌集」として、そこへ収録してしまえば
誠に便利です。
このような形での各地に伝承されてきた和歌の収集と収録が「柿本人麻呂」の活用によって成された
と考えられる部分もあるのではないでしょうか。
そのような観点からしますと、「柿本人麻呂」は、「万葉期の歌人」で後世の「歌聖」ではあるの
ですが、そこには「万葉集の民族学的歌人」の要素も備え、かつ「歴史が作り上げてきた和歌伝承上の
歌の大家」でもある、と補足すべきかもしれません。
(その2) 人麻呂の死亡説あれこれ雑感
柿本人麻呂なる人物の名前のもとに、万葉集に残された臨死歌群僅かに5首の歌をめぐって、近世の
国学勃興以来、多くの「人麻呂死亡説」が論じられてきました。前出の参考図書(蓮沼氏著書)に
引用された「人麻呂自傷歌群解説分類」(高野正美「万葉の争点」上代文学会編(昭和57年10月
30日))の要点を一覧用にしますと次のようになります。
| 論旨分類 | 発表者 | 要点 | 高野氏の論評 |
| 実人生の投影 | 斉藤茂吉 | 鴨山の精力的探索と湯抱の地の確定 |
前期万葉集という時代性への配慮を欠き、作者と作品との関係を丸ごと信じての
立論で、論点はそのまま信じがたい。 |
| 梅原猛 | 近代万葉学の方法批判のうえ、刑死説を採る。 |
| 自傷歌は伝説 | 折口信夫 | 神人として巡遊した柿本氏人を想定 |
(論評は加えていない) |
| 高崎正秀 | 柿本衆の人麻呂転生復活伝承 | |
| 緒方惟章 | 鍛冶文化地帯との関連性における歌 |
| 歌劇の詞章 | 伊藤博 | 「石見相聞歌」完結編として、妻の歌も含めて全て自作。 |
当時の歌の状況を加味して歌語りとして説くが、人麻呂自身が自らの死を語る必然性が
ない。また確証もない。 |
| 上野 理 | 丹比某を主人公とする「行路病死物語」として依託された。 |
| 喚情表現説 | 土橋 寛 | 行き倒れの「喚情表現」で、事実そのものではない。 |
明確な論評なし(これも確証はない) |
| 刑死、歌語り説 | 中西 進 | 刑死説を支持するが、歌群は歌語りであろう。 |
明確な論評無し。 |
このように多くの人麻呂死亡説がでてくるのは、いつに論拠となりうる、また確定すべき事実情報が
少ないことによります。僅かに和歌5首とその詞書きでは、如何様にも人麻呂の終焉が描き出せるの
です。
詰まるところ、1300年前の伝承資料や人物情報からえられる事実の確定には限界があるということ
で、至極当たり前のことになるわけです。言い換えますと、「万葉集の人麻呂人生」とは、このように
いろいろに想定できるので、それだけ自由に想像世界を拡げることが出来る楽しさがある、とでも考え
直さないと、「人麻呂万葉歌」が与えてくれる夢が壊れてしまいそうです。
しかしそこは、日本の和歌史上、さらに日本歴史上、重要な人物であり、その資料上に残した情報は、
いろいろな面で日本歴史に残した影響は計り知れないだけに、なんとか「人麻呂世界」を解明したい
ところです。遠い未来に何時の時代か、「タイムマシーン」が開発されて、それに乗ると「人麻呂
万葉世界」が覗けるとなれば言うこと無いのですが。
光琳かるたの人麻呂像
目次に戻る
関連随筆シリーズ
「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第三話 歌聖(柿本人麻呂)ー
併せて御覧願います。
平成16年5月31日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
ご感想はE−mail先へ、ご投函下さい。
フロントページに戻る。
敷島随想の目次に戻る。