敷 島 随 想

(百人一首歌人旅)



「連 載」 第 174 回  *** 第3番・その5 ***
*****  柿本人麻呂ー瀬戸羇旅(その2)  *****

目    次
<狭岑島> <瀬戸大橋>
<倉無浜> <企救の浜>

百人一首・第3番 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々しき夜をひとりかもねむ


<狭岑島>

 明石大門を出た船旅の人々は播磨灘を西に向かい、家島や小豆島を辿りながら、備前児島と讃岐坂出
の瀬戸海が狭まったところにさしかかります。嘗てこの海峡部分の人の往来は専ら宇野と高松間の
連絡船に頼っていました。
 高松の西隣が坂出で、その沖合には人麻呂が(巻2−220)に詠んだ「狭岑島」があります。

(左)瀬戸大橋(児島ー坂出間)(右)狭岑島拡大図(坂出市のホームページより)
 ー讃岐の狭岑島に、石の中に死れる人を視て、柿本朝臣人麻呂の作る歌一首
 「・・・狭岑の島の 荒磯面に 庵りて見れば 波の音の しげき浜辺を
     しきたへの 枕になして 荒床に 自伏す君が・・・・」

 いうなれば浜に打ち上げられた水難の屍を見て、哀悼の気持ちを詠ったものです。現代の我々が
抱いている瀬戸内の風景からは想像できない水死体ですが、当時の危険な船旅からすれば当然のこと
なのです。地元の人の話として、「嵐のあとでは、遠く岡山、広島辺りから・・・いろいろの物が
浜に流れ寄り、打ち上げられた」といいます。「櫓を失った舟もこの島影の・・・浜に風や波の
ままにうち寄せられた」(蓮沼徳治郎著「人麻呂渡しー律令からのメッセージー」近代文芸社
(1992年8月))と言及されています。
 また、人麻呂など万葉期の人々が何故、狭岑島に立ち寄ったのか、(実は荒い風を避けて船待ちの
避難をした)等の事情を、別の参考資料で「狭岑島探訪」してみましょう。

 「(狭岑島)南東の新地山・・・の麓、そこは荒々しい岩場になっていて、巨岩がそそり立つ。
  そこにひときわ巨大な岩が丁度人間が座って頭を前屈みに傾けているような奇妙な形で立って
  いる。この表には「柿本人麻呂碑」と刻まれている。
   そこから北に向けて、通称「人麻呂岩」あたりまで、ゆるやかに湾曲した浜辺が続く。ここは
  西と南東は小高い峰続きで強風から逃れるのに格好の浜である。人麻呂岩辺りは長歌にある
 「荒磯面」が干潮にあらわれる。おそらくこの辺りに人麻呂達は、避難し、そこに「ころ臥す君」を
  発見したのだろう。・・・」(前出・蓮沼本に引用された下田忠著「萬葉の歌」より)

(左)狭岑島ナカンダ浜の「人麻呂歌碑」(右)同じく「人麻呂文学碑」
(いずれも坂出市のホームページより)
 また、別の資料(犬養孝著「萬葉の旅(下)現代教養文庫483(社会思想社)昭和39年7月)
では、次のように「萬葉の風土」が語られています。

 「・・・島と坂出との間には番の州と称する東西三キロ余りに渡る浅瀬があって時津風でも吹けば
  忽ち波浪が高くなる。・・・この辺りの時津風は退潮に変わるとき、また変わって間もなく、
  強風が吹く。それは正に空に向かって吹き上げるようである。・・・・海は急に荒れるままに
  なって、沖には波がうねり、塩飽の島々の岸や沙彌島の西の浜など一筋に白波が騒ぐ実況となる。
  海の恐怖の前には一刻も早く行く先の沙彌島の東側にでも舟を急がねばならない。・・・」

(左)島であった頃の「狭岑島」遠望(坂出浜より)(右)新地山より見たナカンダの浜
(いずれも犬養著「萬葉の旅(下)「さみねの島」より)
 その「狭岑島」も、いまでは島でなく、坂出市の地続きの市域になっているのです。1200年前に
想像もできなかった環境の変化です。
 それ以上に、周囲の環境や景観を変貌させたのは、「狭岑島」の東の海上を北へ伸びている巨大な
「瀬戸大橋」ということになります。参考資料(前出・蓮沼本)に依りますと、次のような環境の
変化があったのです。

 「・・・狭岑の島は、香川県坂出市沙彌島である。かっては坂出沖に浮かぶ周囲二キロ余りの小島で
あった。昭和46年1月から埋め立てが開始され、埋め立て竣工は47年10月という。現在は瀬居島
との間も埋め立てられ番の州工業地帯として大発展を遂げている。昭和46年の地図を見ると、萬葉の
狭岑の島はすでに島でなくなっている。・・・」
 
 陸続きになった狭岑島の地はさらに本土の四国をつなぐ世紀の架橋工事「瀬戸大橋」の橋脚地と
なっていったのです。(瀬戸大橋については次節で言及します。)
  瀬戸大橋すなわち「瀬戸中央自動車道」が完成したのが昭和63年(1988)ですが、遡ること
その四半世紀前昭和39年(1964)に、前出の犬養博士はその著書に「萬葉風土に寄せる思い」
を次のように記したのです。

 「いま、沙彌島は好風絶佳ののどかな島だ。一本松ノ鼻では潮騒高く、ナカンダの磯では海底の
  玉藻の揺れも透き通って見える。「夢の架け橋」の実現や、坂出からの埋め立てによって、この
  美しい風土と千古に響く人間抒情の埋もれ去る日の無いことを祈らないではいられない。」

 残念ながら、博士の願いは叶えられることなく、瀬戸の海には、東から、明石海峡大橋、瀬戸大橋、
そしてしまなみ街道と、20世紀末には揃って三大橋が瀬戸内を跨ぐことになりました。
 しかし、萬葉の風土の環境周辺が変化しても故地そのものは史跡として歌碑などの文学碑でもって
保全されていくように望みたいところです。
 人は、次の代表的な風景のどちらを選択するかと言うことになるでしょう。

(左)鷲羽山から塩飽島越しに讃岐富士をのぞむ(出典:犬養孝著「萬葉の風景(下)」
(右)下津井瀬戸大橋側から四国方面を望む

(左から順に)下津井瀬戸大橋・与島橋・南備讃瀬戸大橋
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<瀬戸大橋>

 万葉の人々にとって瀬戸の海は、穏やかな内海の世界ではなく、現在の外海における航行以上に
危険な海の世界でした。したがって、人麻呂が歌に残したように、海難の犠牲者は多く、海に呑まれて
いった多くの人々がいたのです。風光明媚の瀬戸内の風景の中にあって、四国側の人々の願いは何とか
本州と陸続きになりたいというのが長年の夢であったのです。

 近代になっても、柿本人麻呂の歌と同様に、多くの海の犠牲者がでていました。その一例がごく近年
1950年代の海難事故で、それがきっかけで、さらに本州四国連絡橋への願望が高まったのです。
 その事故とは「宇高連絡船・紫雲丸水難事故」でした。

 現在、本州四国連絡橋として三本の高速道路用主要橋15橋ほか幾つもの橋が瀬戸内海を跨いで
います。

   「神戸淡路鳴門自動車道」神戸・鳴門ルート 明石海峡大橋他、主要2橋 
                        平成10年(1998)完成
   「瀬戸中央自動車道」  児島・坂出ルート 南備讃瀬戸大橋他、主要6橋 
                        昭和63年(1988)完成
   「しまなみ海道」    尾道・今治ルート 来島海峡大橋他、主要7橋 
                        平成11年(1999)完成
    自動車道延べ長さ   173km 
    鉄道延べ長さ      32km

 関連のホームページを四事項に関してリンクしておきましょう。

 明治22年から昭和63年の児島・坂出ルート瀬戸中央自動車道用本四架橋実現までの経緯
  三本の本州四国連絡橋に架かる大橋の紹介
  瀬戸大橋関連ホームページ瀬戸大橋ものしり事典
   坂出市ホームページ(瀬戸大橋6つの橋)(瀬戸大橋記念公園)
      倉敷市ホームページ(倉敷市瀬戸大橋架橋記念館)
  本四連絡橋を管理している「本州四国連絡橋公団」
 
 なお、敷島随想第47回連載中、源兼昌「通ふ大橋」として、明石大橋に言及しています。
 
 万葉の人々が瀬戸内に架かる三本の巨大な橋梁を目の前にしたら、果たしてどんな歌を詠んだことで
しょうか。嘗て、遙か沖合の島々を見たとき、果たしてそこへ「橋が架かっていたならば」という
願望すら思いつかなかったのではないでしょうか。
 21世紀の平成の人々は瀬戸内に架かった三本の橋を通って移動できる幸せをかみしめねばなり
ません。これまで千年以上の瀬戸内に沈んでいった水難者への慰霊の気持ちを忘れることなく。
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<倉無浜>

 人麻呂の瀬戸内海歌枕の東側が「敏馬」や「明石大門」としますと、西側は豊前国の海岸で、
その代表的な東の浜は「倉無浜」であり、北の浜は「企救の浜」ということになりましょう。
何れも律令期は企救郡内に属していたところとなります。

 「 (左)九州北部の地理関係(旧企救郡に相当するところ)(右)中津市の海岸線
  人麻呂の作と伝えられている万葉集中の歌は次の通りです。

 「我が妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜」(巻第九ー1711)
  (わが妻が赤い裳を濡らして植えた田を刈って収める倉ーの名の付くー倉無の浜よ)
 
 歌そのものの内容に深い意味があるわけではありません。かといって、単なる風景の詠嘆としての
風景詠でもありません。即ち、農耕への農民の稲刈り歌の一首と見るべきでしょうか。
 初句から四句までは、「倉」への懸かり句というべきでしょう。しかし「倉無」とは「刈り
取った米を収める倉が無い」という「倉」ではなく、「収めるに足る大きな倉がない」「倉はいくら
あっても足りない」という意味だとされています。でなければ、農耕の祈りのような神への賛歌と
しての米作りを褒め称える歌など詠うはずがないわけです。現に、当地は「豊の国」といわれた
ように土地柄は豊穣の農耕に恵まれたところであったのですから、農耕豊かな国の浜とするならば
むしろ「豊倉の浜」とでも、命名すべきであったかもしれません。
 としますと、都からの官人として瀬戸の旅路を西下してきた行きずりの旅人として、柿本人麻呂の
歌とは言い難いことになります。しかし、人麻呂の歌とも言われているところからみますと、旅の
途上の人麻呂が当地に何らか関係していたと考えるべきでしょう。
 
 「倉無浜」の地は、現在の大分県中津市内竜王町にある闇無浜(くらなし)神社付近とされています。
 当社の御祭神は豊作の神様である豊日別国魂神(とよひわけくにたまのかみ)で、正しく「闇」が
「無」い稲にとって最も重要な太陽が照り輝く神様であるわけです。
 「倉無」より神社の名前の通り「闇無」とした方がいいでしょう。

(左)「闇無浜神社」(くらなしはまじんじゃ)(右)境内の万葉歌碑
  万葉集では「倉無の浜」といわれた「闇無浜」は、かって北に周防の山々を望めて、白砂青松が
東の分間浜まで続く「竜王浜」とも言われたそうで、その風光は天下の松原「美保の松原」や「高砂の
松原」に比べられるほどであったとのこと。
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<企救の浜>

 古代難波の港から西に向かう瀬戸の海の旅は、瀬戸内の港港に寄りつつ、すなわち港伝いに西下
して行き、周防灘にかかりますと、「祝島」辺りから一気に横切って国東半島北側の海岸を豊前国
分間浜の港につき、ここでほぼ瀬戸内の旅は終了し、そこから海岸線を東北に企救郡内関門海峡の
門司に入り、ここからは筑前国を陸路太宰府に向かったと想定されます。
 豊前国の北端で、筑前国に隣接する企救の浜に関する人麻呂歌集の歌に収録されている「企救の浜」は
次のように詠われています。

 「豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹しぞ思ふ」(巻第十二ー3219)
 「豊国の企救の高浜 高高に君待つ夜らはさ夜ふけにけり」(巻第十二ー3220)

 これらの歌は人麻呂が当地を訪問して、あるいは太宰府への途次に立ち寄って詠ったと言うよりも
いわゆる当時の「ご当地ソング」の一首と見るべきでしょうか。

 「企救の浜」は現在の北九州市小倉北区海岸一帯とされていて、JR小倉駅の東側を流れる砂津川
沿岸の長浜から、東へ順に高浜、延命寺、大里と続く海岸線に当たります。

(左)JR小倉駅近くの「企救の長浜」周辺(右)高浜港の「企救の高浜」周辺

 万葉故地の関係では、高浜地区の国道沿いに「企救高浜説明板」がありますが、今や北九州市の海岸線は
九州一の沿岸工業都市であり、関門海峡に臨む重要な港湾都市でもあります。嘗ての白砂青松の風光は
故地説明板一枚に化してしまいました。昔の白砂青松は今や「コンクリートの岸壁と工場の煙突」に
変化しています。万葉の世界も工業化の波に埋め尽くされて、眠ってしまいました。

(左)北九州工業地帯小倉港付近(右)北九州市の未来像イラストレーション
 万葉歌に代わって近代の記念歌は鉄道唱歌で、九州地区の汽車唱歌(1番〜54番)に次のように
詠い込まれました。

 4番 門司打ち過ぎて大里駅 海辺は音に企救の浜
    安徳帝のおわしつる 柳の御所もこのところ

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「百人一首のー平平点描ー千年の言霊への誘い」
ー第三話 歌聖(柿本人麻呂)ー
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平成16年5月27日・磯城島綜芸堂・主筆 謹言
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