難波津から西へ、瀬戸内海の歌枕を、人麻呂の歌とその歌集に沿って順に追いますと、次のように なります。
| 地域 | 地名 | 人麻呂歌番号 | 歌詞 | 関連事項 |
|---|---|---|---|---|
| 武庫の海 | 三津 | 巻3−249 | 三津の崎 | 難波の港。三津の浜5首あり。 |
| 敏馬 | 巻3−250 | 玉藻刈る敏馬 | 神戸市灘区岩屋。敏馬の浦で3首あり。 | |
| 明石以西 | 明石 | 巻3−254 巻3−255 |
灯火の明石大門 明石の門より | 明石市東部明石海峡部 同じく巻15−3608 |
| 飼飯(けひ) | 巻3−256 | 飼飯の海 | 淡路島内西淡町松帆 慶野松原の海浜 同じく巻15−3609 | |
| 野島 | 巻3−250 巻3−251 | 夏草の野島の崎 淡路の野島の崎 |
淡路島内北淡町野島 同じく巻15−3606 | |
| 藤江 | 巻3−252 | 荒たへの藤江の浦 | 明石市藤江付近。播磨灘に面する海岸。 巻6−939(藤井の浦) 同じく巻15−3607 | |
| 加古 | 巻3−253 | 稲日野、加古の島 | 印南(加古川市から
明石市一帯) 印南海(巻3−303あり) 加古(加古川河口付近) 同じく巻15−3610 | |
| 児島付近 | 飽の浦 | 巻7−1187 | 飽の浦の清き荒磯 | 岡山市飽の浦 |
| 島門 | 巻3−304 | あり通ふ島門 | 筑紫国下りの海路との詞書より 瀬戸内で最も狭まった 児島と坂出の海峡か。 | |
| 狭岑島 | 巻2−220,221,222 | 讃岐の狭岑島、沙彌の山 | 香川県坂出市狭岑島 | |
| 粟島 | 巻9−1711 | 粟の小島 | 四国・阿波国か、 香川県屋島の北の島か。 同じく巻7−1207,巻12−3167 | |
| 周防灘 | 中津 | 巻9ー1710 | 倉無の浜 | 大分県中津市竜王町付近の浜か。 |
| 小倉 | 巻12−3219,3220 | 企救の浜松 | 北九州市小倉区長浜付近の海岸 同じく巻7−1393,巻12−3130 |

この表に示されて人麻呂歌の瀬戸内歌枕より、最も時代変遷による環境変化の激しいと思われる 次の地区別の代表的なところを覗いてみることにします。それは、明石大門の東側で、いまだ畿内の 海岸「敏馬」、畿内の最西端「明石大門」、四国側の人麻呂の旧跡「狭岑島」、そして、瀬戸内の 西の端、周防灘に面した「企救の浜」等です。目次に戻る
西国へと船路で武庫の海を行く人麻呂の歌は、次の巡航の詠です。 「玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島の崎に舟近づきぬ」(巻3−250) この一首の中には、武庫の海から明石大門の海峡を過ぎて、淡路島の西岸・野島を見ることが 出来る海上位置までの何時間かの船路が盛り込まれています。 現在であれば、大阪湾から明石大門に架かる明石大橋を迎え見ながら、ゆっくりとくぐり抜けて、 播磨灘に入り、舟の行く手左手に淡路島を後方へ見送る素晴らしい景観の船旅と言うことでしょうが、 人麻呂の歌の中には、観光気分の物見の歌ではない海の神への祈り、船旅の安全を願う気持ちが 含まれているのではないでしょうか。 かって萬葉の時代以前、西に瀬戸の海を旅せねばならない人々は「敏馬の泊」から、最後に懐かしい 大和の風景を見納めて、畿内に別れを告げ、「明石大門」から畿外へと旅立っていったのです。 「敏馬を過ぎ」る時には、当然土地の神である「敏馬神社」に祈願したことでしょう。 祈願の甲斐もあって、潮の流れの速い「明石大門」を無事通過できて、さてこれから いよいよ西国海域にさしかかったという心を引き締める思いも込められているのでしょう。 敏馬(みぬめ)は、現在神戸市灘区岩屋にある「敏馬神社」辺りの海岸を詠ったものでしょう。 阪神電車岩屋駅を下りて南に下りますと、直ぐに国道2号線に面して数mほど高い崖の位置に 神社本殿があります。嘗て神社の境内から南の海上を行く船人を眺めることが出来たのでしょう。



敏馬神社は社伝の摂津風土記に依りますと、神功皇后朝鮮出兵の時、能勢・美奴売山(三草山)の 神を祭った(201年)ということですから、創建1800年以上になるわけです。因みに現在の 御祭神は素盞鳴神、天照大神、熊野座大神とのこと。 敏馬神社の変遷を神社の解説で見ますと、「八世紀頃敏馬神社の高台は岬になっていて、その 東側は港に適した入り江であった。難波からの船人はまず敏馬の泊りで一泊。大和が遠望できる 最後の港。逆に西から帰ってきた船人は、再び大和が見える最初の港。境内には柿本人麻呂と 田辺福麻呂の歌碑がある。 (註)万葉集には、敏馬を詠んだ歌は人麻呂歌を始めとして10首あり。 八世紀後半では、港はさらに西に移動し、大輪田の泊りに移り、敏馬の地は白砂青松の浜になり、 そのまま明治期の海水浴場になる。昭和の初めに海岸の埋め立て、昭和20年の戦災ですっかり 往時の姿が変貌した。」と説明されています。 さらに戦災から丁度50年後の平成7年(1995)1月、淡路島と神戸地区は淡路阪神大地震に 遭遇し、敏馬神社も壊滅的な災害に遭い、それから約10年経過し、ようやくにして復興したばかり です。神社の前から海岸までの地区も大きな被害を出し、震災復興再開発事業が進められ、現在、 海岸沿いの地区は、「HAT−KOBE」と命名した再開発地に姿を変え、集合住宅群と共に、 自治体の「防災センター」あるいは「県立美術館」に隣接して、国の機関建造物、たとえばJICA 国際センター、あるいは国際連合機関として「WHO(世界保健機構)アジアセンター)」などが 並んでいます。


今や、敏馬神社の境内からは、武庫の海を行く舟の往来に代わって、国道や高架高速道路を多くの 車が西へ東へと流れており、その「国道という車の流れる川」の向こうには、これらの高層ビル群が 林立して、もはや武庫の海を望むことができません。ただし、武庫の海を往来する舟は、人麻呂の 時代の交通が比べものにならないほどに、大型の船舶がひっきりなしに航行しています。 また、「敏馬の泊」に代わった「大輪田の泊」は現在、兵庫突堤となって沖合の人口島・ポート アイランドと共に国際港湾都市神戸の港地区を形成ています。


人麻呂名歌ベストファイブに挙げられた歌の中でも、有名な歌は、明石大門の歌でしょう。 「天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ」(巻三ー255) 瀬戸内を旅する人々にとって明石大門は大和国の玄関であり、万葉歌人の世界を変えるところで あったのでしょう。人麻呂から現代に至るまで、歌に始まるいろいろの文芸分野で須磨・明石が ひとつの世界を構成していくことからでも理解できます。一例として百人一首の世界でも既に 第78番源兼昌の歌で淡路島や明石大橋を探索したところです。 ちなみに、「明石海峡大橋」関連の参考メモ書きを参照下さい。
![]() 明石駅周辺の地図 |
![]() ![]() 明石天文科学館と同館をモチーフにした マンホール蓋のデザイン |
明石市のキャッチフレーズは「東経135度・日本標準時子午線上の町」で、「遠く萬葉の昔には 柿本人麻呂等の歌人に詠われ、紫式部の源氏物語の舞台になった所」を誇りにして、人や情報の 交流する「海峡交流都市」と銘打っている地域です。 さらに遡る太古の昔には、「明石象」(100万年前洪積世)「明石原人」(旧石器時代)などで 知られる「明石」ということになりましょう。 標準線は丁度明石天文博物館の所を通っており、隣接する「柿本神社」も経線上にあるということに なります。万葉歌人柿本人麻呂の和歌詠から大凡200年後、仁和三年(887)先ず柿本神社が 祀られ、それからさらに1000年後、明治21年(1888)、日本標準時子午線は明石市を通る 東経135度線として施行されました。 JR明石駅プラットフォーム上から北側には明石城跡公園が望めます。鉄道駅前が旧城郭の大手門に あたるのも大変めづらしいのではないでしょうか。全国に城郭が嘗て270ほどを数えたされていますが、 明石駅の場合は、駅の北玄関全面が城郭の外濠に面しているわけです。 明石城址の東側には、明石市立天文博物館が建ち、そのシンボル塔には日本の標準時を示す大時計が 取り付けられています。

柿本神社は天文博物館の裏手小高い丘の上に位置しています。柿本神社が何故明石海峡を見下ろす 高台にたてられているのでしょうか。人麻呂が明石の海上で詠んだ羇旅歌八首は、いずれも著名なもの ばかりで、人麻呂の明石大門への心入れが非常に大きかったことに依るのでしょうか。 羇旅歌での歌枕九個所は、いずれも明石大門の周辺です。

柿本神社正面高台から明石海峡が真下に見え、淡路島が島とは思えないほど大きく東から西の海上 全体に広がって横たわっています。海上を行き交う船舶が大小さまざまに、点在している黒い海鳥の 群のように見えます。 人麻呂の歌に言う「あまの釣り舟」は鋼鉄の運搬船に変わりました。「大和島を望む」べき東方の 海上には、明石大橋の大支柱二本が明石側と淡路島側のそれぞれの海岸に屹立しています。人麻呂が 明石海峡を「明石大門」と詠んでから約1300年が経ち、平成の時代にはまさしく「海峡の大門」と いうべき明石大橋が架け渡されることになりました。人麻呂が生きていて明石大橋をながめたとしたら どんな歌を詠んでいたことでしょうか。 萬葉の時代の橋梁というのが僧行基が国家事業として各所で尽力した橋梁などとして、たとえば 難波・長柄橋や山城・山崎橋あるいは近江・瀬田唐橋等を想定しますと、その規模では100倍近くで あろうと思われる巨大な人口建造物が出現したわけです。千年で100倍の規模のものが出来たと しますと、次のミレニアムでは、どんな構造物が期待できるのでしょうか。 海や河川に架かる橋梁は不要になっているかもしれません。陸上を移動する車や列車は必要とせず、 別の移動手段が出来上がっているのではないでしょうか。情報伝達方法が発達して移動が必要でなく なっている社会かもしれません。 そうしますと、その時代に人麻呂のような大歌人がいても、船路での名歌は生まれなくなるかも しれませんね。何か情緒が無くなって寂しい感じがしないでもありません。目次に戻る
柿本人麻呂の萬葉時代以来、須磨と明石の地は、文芸世界で欠くことができないところですが、 一方で非常に歴史に関係深いところです。 人麻呂の歌詠から丁度200年後、菅原道真は、西国太宰府への左遷の旅路で明石駅に休息しました。この件は、すでに連載第18回に言及いたしました。 明石の天神社は、「休み天神」の名前で後世に伝えられてきており、「休天神社」は山陽電鉄 人丸前駅南西に位置しています。 菅家が悲嘆にくれた時より、さらに280年後の中世において、平氏一族もこの明石の地は、 忘れることが出来ない所となりました。寿永三年(1184)一ノ谷合戦において、一族は運命の 分かれ目にあったわけです。 連載第47回源兼昌の節で、平敦盛の人生に言及しましたが、同じく同族の西国落ちを余儀なく された薩摩守平忠度は須磨の西隣明石を終焉の地としました。 一ノ谷での戦いから、やむなく退か ねばならなくなった平氏一族は、舟に乗り込んで四国屋島に向かうものあるいは、忠度のように海岸 伝いに西の方向へ落ちのびる者など様々でした。 明石天文博物館から真南へ下ってゆきますと、まず平経正が馬を埋めたという「馬塚」があり、 続いて、山陽電鉄「人丸前」駅下を潜った所が「両馬川旧跡」すなわち、平忠度と一騎打ちした 源氏方の岡部忠澄が川を挟んで睨み合ったところ、すなわち「忠」対「忠」の戦いの開始の場所で、 ガード下に記念石碑があります。さらにそこからすこし西に行きますと、天文町内に忠度が右腕を 切り落とされた場所として、後世に「腕塚神社」が祀られました。 腕塚神社をさらに南に下りますと、国道2号線の反対側で、裁判所の北側に「忠度塚」と 「忠度公園」が縁りの地されています。

![]() 平忠度の腕塚神社 |
![]() 碑文 |
![]() 忠度塚 | ![]() 忠度公園 |
忠度の最後は「平家物語」(巻第九忠度最期)に次のように書かれています。 「・・・其の後、西に向ひ高声に十念唱へて、「光明遍照十方世界念仏衆生摂取不捨」と宣ひも 果てねば、六弥太後よりよて、薩摩守の頸を討つ。好い大将討たりと思ひけれども、名をば誰とも 知らざりけるに、箙に結びつけられたる文を解て見れば、「旅宿花」といふ題にて一首の歌をぞ 読まれける。 ゆきくれて木の下陰を宿どせば花やこよひの主ならまし 忠度と書かれたりけるにこそ、薩摩守とは知りてけれ。・・・」 忠度の最後の場所は、一方で神戸市長田区内にも「腕塚」(野田町8丁目)および「忠度塚」 (駒ヶ林町4丁目)が、伝えられているので、何れとも断定しかねます。ともかく、忠度は屋島あるいは 西国に落ちのびられなかったことは確かで、岡部忠澄の刃にかかったことになります。

さて、柿本人麻呂の瀬戸内を西への旅は、 「稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ」(巻3−253) と続いて行きます。目次に戻る
|
|||
|
|