柿本人麻呂歌集から万葉集へ採歌されたものには、紀伊国の歌枕世界を多く挙げることが出来ます。 北から順次南下して、歌枕を辿っていきますと、次の表のようになります。
| 地名 | 現在地 | 歌番号 | 歌詞 | 詞書き・関連事項 | 関連歌 |
|---|---|---|---|---|---|
| 妹背山・背の山 | 伊都郡かつらぎ町背ノ山 | 巻7−1247 | 妹背の山を見らく | 大汝(おおなむち)(大国主神)と 少彦名神 | 巻4−544 巻7ー1098,1193,1195,1208,1209,1210 巻9−1676 巻13ー3318 |
| 玉津島・黒牛潟 | 和歌山市和歌浦 海南市黒江 | 巻9−1799、1798 | 磯の浦みの真砂 ぬばたまの黒牛潟 | 紀伊国にして作る歌四首 | 巻7−1215,1217,1222 巻7−1218、巻9−1672 |
| 岩代 | 日高郡南部町 | 巻2−146 | 岩代の小松がうれ | 大宝元年辛丑、
紀伊国に幸しし時、 結び松を見る歌一首 (701年は、有間皇子処刑から43年後) |
巻1−10 巻2−141,143,144 |
なお、巻9ー1667番歌から1709番歌も人麻呂歌集からの歌の収録とされ、紀伊国沿岸の 海南藤白、真土山、白崎あるいは南部浦などが詠まれていますが、人麻呂の歌集からかどうか明確では ありません。 和歌浦や海南は、山辺赤人和歌世界の連載時採り上げたいと思います。 ここでは、妹背山と岩代を訪ねてみたいと思います。目次に戻る
萬葉の時代に大和国原の飛鳥、藤原京あるいは平城京から、南国に出るには、まず、南に向かって 吉野川のほとりにでて、紀ノ川を下るように西に向かいます。五條や橋本を経て、南海道を和歌山に 入ってはじめて南の海を望むことができます。 大化二年(646)、畿内の詔に南限は、この紀ノ川沿岸にある「背の山」とされました。それは 大和から南海道に入る旅路を辿って実際に旅してみますと、すぐに理解できる地形的限界でもあるの です。

紀ノ川を挟んで右岸・北側に「背山」(168m)と左岸・南側に「妹山」(124m)があり、 伊都郡かつらぎ町と那賀郡那賀町の郡境に位置しています。飛鳥からの旅人は、約40km離れた 畿内の南限にさしかかりますと、紀ノ川を塞ぐように「背山」と「妹山」が立ちはだかり、行く方を 遮ります。いよいよ畿内とも別れて他国に旅立つのだと実感するのです。嘗ては、南海道への入口と してこの地に萩原の駅が設けられたとされています。 この二つの山を前にして旅人はその時に、何を思うのでしょうか。旅人の常として、残してきた 「我が故郷」を思い、これからの「旅の安全」を願います。そんな旅人の心に、湧き出てくるものは 「背」の山への祈りであり、「妹」の山への願いということになります。したがって、柿本人麻呂歌集 から取られた次の歌も人麻呂自身が詠んだと言うより、「背山」「妹山」を通過して畿外に旅立つ 旅人全ての共通歌であったように思います。 「大汝(おおなむち)少(すくな)御神の作らしし 妹背の山を見らくしよしも」 (巻7−1274)


和歌山と奈良を結ぶ国道24号線と紀ノ川堤防の間に「道の駅・紀の川萬葉の里」なる観光施設が 整備されて嘗ての畿内南玄関口にあって、畿外への旅を偲ぶ場所になっています。

現在の地図上では紀ノ川の両岸にある山と推定された「妹背山」ですが、地元の万葉集愛好者の グループでは、旧街道に沿った「背山」の二つの峰を「妹山」と「背山」と称したのではないかと 言う推測もなされているようです。妹山を紀ノ川の対岸の山にするか、峰続きの隣の山に比定するかの 違いです。上述の左の写真がその外観を示します。 さて、妹山と背山の間、すなわち紀ノ川の河川敷には、中之島があり、その山は「船岡山」と称され 南岸から架けられた吊り橋で渡ることが出来ます。船岡山の麓の川堤には大きな万葉歌碑が掲げられて いて、ここが「萬葉の里」であることを再確認させてくれます。

ちなみに萬葉集中の「妹山」「背山」シリーズ和歌は、前述の歌に加えて、次の「読人不知」歌も あります。 「我妹子にわが恋ひゆけば 羨しくも並び居るかも妹と背の山」(巻78ー1210) 平成時代の我々は、日本地図を知っておりますから、いつも大和国原や畿内各地あるいは南海を 地上数千mの高さから眺めることが出来ます。さらには、地球という球体の表面地理をも眺めること ができますが、萬葉時代の人々の目線の高さは、せいぜい千メートルが登りうる最高地で、普段は、 人の高さの視野しか持ち合わせませんでしたから、当時の人の視界で物事をあるいは周辺の世界を 考えますと、畿内と定められた地域の大きさや「背の山」という境界の風景が作り出す万葉和歌世界が 理解できそうです。 大和国原から旅程にして数日で達することが出来る南の国の海洋世界への憧れは、北欧の人々が アルプスを越えて輝く地中海の明るい世界を憧れたことに同じかもしれません。 思えば古道「南海道」は、萬葉時代では日本の幹線道路であったのでしょう。紀ノ川沿岸地域は 幹線沿いの文化交流路であったわけです。 人々の往来の頻繁なところには、各所に人々の思いが旅行く周辺の地形に籠められたものと思います。 「妹山」「背山」などの思いを懸けた山々は、吉野川や紀ノ川沿いでも前述の畿内出入り口以外に 連載第169回の百人一首歌人・持統天皇の所でも、吉野宮滝の下流にある「妹山」でも採り上げました。 さらには、紀ノ川河口付近の和歌浦にも万葉集の歌枕である「玉津島」近くに小さな「妹背山」が 残されているのです。この山は、次回の百人一首歌人・山部赤人(萬葉叙景)(準備中)の時に 言及したいと思います。目次に戻る
人麻呂歌集における南紀沿岸萬葉歌枕の南限は、南部や白浜近辺の岩代海岸(日高郡南部町)です。

「後見むと君が結べる岩代の小松がうれをまた見けむかも」(巻2−146) この歌は人麻呂の時代(大宝元年辛丑・701)から一世代前(43年前)、有間皇子処刑の悲劇 に基づいて詠っているのです。この悲劇を刻んだ「岩代の小松」は、歌集における人麻呂だけでなく 多くの人々は、南紀海岸の旅路に巡り逢って感慨を深めたようです。人麻呂歌集歌の前に関連する 歌があります。 長忌寸意吉麻呂(ながのいみきよしまろ)は、「結び松を見て哀しび咽ぶ歌二首」を作っています。 「岩代の岸の松が枝結ひけむ人は帰りてまた見けむかも」(巻二ー143) 「松が枝結びけむ」こと、「帰りてまた見けむ」こと、この二点が有間皇子の悲劇の象徴的言及で あることが前述の人麻呂歌集の歌と共に確認できます。「山上臣憶良の追和する歌」(巻二ー145) が続きます。さらに何たる運命の関わりでしょうか。有間皇子を処罰する立場に立った斉明天皇も 中皇命(なかつすめらみこと)の名の下に、岩代の草根を結ぶ歌を残しているのです。 「君が代もわが代も知るや岩代の丘の草根をいざ結ひてな」(巻二ー10) さて、有間皇子自身の歌は、万葉集中最初の挽歌になっていて、且つ日本史に於ける最初の辞世の 歌ではないかと思われる次の和歌二首です。因みに萬葉集中、有間皇子の辞世の歌に継ぐ二番手の 歌人は、持統天皇朱鳥元年(686)処刑される大津皇子ということになるでしょう。 (万葉集・巻三・挽歌・416) ー有間皇子、自ら傷みて松が枝を結ぶ歌二首 「岩代の浜松が枝を引き結びまさきくあらばまた帰り見む」(巻二ー141) 「家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る」(巻二ー142) 大化改新後、姉である皇極天皇から皇位を継いだ弟の孝徳天皇は白雉五年(654)難波宮にて 崩御され、後は斉明天皇(皇極天皇)が翌年重祚されました。孝徳天皇の皇子である有間皇子は、 斉明天皇四年(658)、天皇と中大兄皇太子が紀の湯への行幸中、蘇我赤兄にそそのかされて、 謀反の罪を被り、囚われの身となって、白浜の湯まで護送され、尋問を受けた後、海南の藤白坂で 処刑されてしまうのです。

南部町岩代は斉明天皇・中大兄皇子が滞在していた「牟婁の湯(白浜湯崎温泉)」西隣の地区です。 和歌山から本土最南端の潮岬までの丁度中間地点で、町の特産物は全国的に名を成している「南部の 梅の里」で、近年大阪側からの高速道路建設工事が当地に達しつつあり、近い将来に自動車社会に 組み込まれて行くでしょう。平成16年10月から、自治体の地域も南部町と南部川村が合併して、 新しい「みなべ町」となる予定です。 人の動きが車を使って高速化されるにつれ、南紀の海岸沿いに南下していた旧道の風情は取り残さ れていくのでしょうか。 現在地域の謳い文句にしている「梅、熊野古道、アカウミガメ、萬葉の里」の環境は維持され、 皇子の松が枝は伝承されていくことを願うところです。かの山上憶良が追和したように、有間皇子の 御霊が「あり通ひつつ見」ているであろう岩代の松ヶ枝だからこそ、忘れ去られることがないように 願うところです。目次に戻る
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